リーゼロッテは箒を片手に洞窟を飛び出した。地面を蹴るのと同時に跨がり、一気に魔法を高めて浮上する。柄に刻まれた名前は幾分薄くなりながらも欠けることなく残っていた。
雨は止んでいても風はそれなりに吹いている。穂先が減っていることもあり、飛行魔法はあまり安定しない。乱高下が止まらない。それでもリーゼロッテは結びつけられた濃紺色のリボンをはためかせ、視線の先にとらえたカラスの群れを追いかける。
その一匹の足がシリウスを掴んでいるのが見えた。リーゼロッテは目はいい方だ。いまはまだ霧もそう出ておらず、すぐさま後を追ったおかげでその確認だけはできていた。
「あ……! こら!」
しかしながら、そんなリーゼロッテに別のカラスがじゃれついてくる。ふらつく飛行をからかうように、すでに少なくなっている穂先をつつき、引き抜いては捨てるを繰り返す。
高度が下がる。必死に魔法力を高めて立て直し、スピードを上げる。
「だめだ、追いつけない……っ」
どれくらいそうして飛行しただろうか。離されては食らいつき、食らいついては離されを繰り返し、けれどもどれだけ距離を詰めようと手が届くところまでいかない。
「シェリー! 動いて! どうにか逃げられないかな!」
言えばシリウスもじたばたと手足を動かすのが見える。それでもやはり爪からは逃れられないようで、事態は一向に好転しない。それどころか、穂先が減るほどスピードも落ちて、みるみる離されていく。リーゼロッテは叫んだ。
「シェリー、お願い! お願いだから、無事でいて! かならず助けに行くから!」
約束だよ! 告げると同時にがくんとひときわ失速する。高度も下がり、おまけにまたぱらぱらと雨が降り出した。地面に激突する勢いで落下することだけは避けられたものの、結局その数分後、濡れた地面に降り立ったリーゼロッテはマイペースに頭上を行くカラスの群れを黙って見送ることしかできなかった。
最悪だ。
シリウスは雨に打たれながら、どんどん小さくなっていくリーゼロッテの姿をただ見つめていた。相変わらずぬいぐるみの生地へと食い込んだ爪は緩まない。リーゼロッテは失速し、見る間に高度を下げて行った。
怪我をするような落ち方だけはしなかったように見えたけれど、あの様子では箒はいっそう使い物にならないし少なくともこれ以上追ってはこられないだろう。シリウスの方も一応動けるようになっているとは言え、空が飛べるわけでもないのだから見通しが立たないことには変わりなかった。
(……結構離れたな)
カラスはしばらく飛行を続け、やがて辿り着いたのは高い木の枝の上だった。この辺りには三十メートルを超える樹も少なくない。そのてっぺん近くにある巣の中に、シリウスはぽてんと放り込まれた。細い枝を幾重にも重ねて作られた、大きくて立派な巣だった。
そこにはシリウスの他にも、がらくたと言えるような雑多なものがいくつもあった。宝石やアクセサリーと言った光り物や小さなおもちゃ、シリウスよりも小さかったり、背格好や作りのよく似た黒髪のぬいぐるみも転がっていた。
――そしてそれなりに大きくすくすくと育っていた雛も三羽ほど。
雨脚はどんどん強くなっていたが、枝葉の多い樹であることもあり、巣の中はほとんど濡れなかった。いや、だからと言ってほっとしている場合ではないのだけれど。
周囲の木々の隙間ではたくさんのカラスが濡れた羽を休めていた。改めて観察してみると、この界隈のカラスはリーゼロッテやシリウスの住む街のそれより少し大きく感じられた。
(お願いだから――無事でいて、か)
もしかしたらあれは指示のつもりだったのだろうか。あの瞬間にリーゼロッテがそこまで考えていたとは思えないけれど、そうであるなら守らなければともぼんやり思う。思いながら、それはリーゼロッテにも言えることだと息をつく。
(……というか、お前はちゃんと雨避けできてるんだろうな)
あの様子から、とっさに追いかけてきたのだろうリーゼロッテに防水魔法だなんだとかけている余裕はなかったはずだ。力及ばず地面におりたあとのリーゼロッテの姿を想像すると少しばかり胸が痛む。どうせ自分を責めているのだろう。
まぁ、確かにそれなりに騒がしくしていたのにリーゼロッテはまったく目を覚まさなかった。いつものように寝穢く眠りこけていて、先に気がついたシリウスが(リーゼロッテが寝ているのをいいことに)跳んだり跳ねたり好き勝手応戦していても〝いい匂い〟などとふわふわした寝言を漏らしていたくらいだった。
最初に姿を現したカラスはランタンを狙っていたようだった。最終的には動くシリウスの方に興味を引かれ、矛先を変えられてしまったのだけれど。
(……おい、やめろ)
見るともなしに中空を眺めていたシリウスの額を、よたよた近づいてきたカラスの雛が窺うようにつついてくる。前髪をくわえて、ぐいぐいと引っ張った。
「……!」
シリウスは額を押さえ、じりじりと狭い巣の中で後退った。
(やめろ、はげる……!)