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64.その瞳とぬくもりと

「シェリー……!」


 駆け寄ってくる足音に続いて、びしょ濡れのぬいぐるみを拾い上げたのはリーゼロッテだった。リーゼロッテは魔法の法衣に防水魔法をかけて、かつヴィヴィアンの透明な傘を借り、ルイーズの家を探しにきたところだった。


(なんでこいつがここに……)


「シェリー、良かった! すごい、ほんとにシェリーだった……!」


 背後に落ちた傘が雨に打たれている。それにも構わず、リーゼロッテは手にしたぬいぐるみシリウスをぎゅっと抱き寄せる。込み上げた涙がぽろりとあふれ、一旦決壊したそれは次々に頬を流れ落ちていく。服や背中のリュックかばんには魔法がかかっていても、リーゼロッテの肌は普通に濡れてしまう。あいかわらず自分自身に作用する魔法は上手く扱えないようだった。


「……で、でも、なんでシェリーがこんなところに落ちて……?」


 しばらくぎゅうぎゅうとその控えめな胸にシリウスを抱き締めていたリーゼロッテは、思い出したように手の力を緩めて顔を上げた。雨と涙でぐちゃぐちゃの顔をシリウスに向けて、なんなら鼻水までこぼしそうな面持ちで眉を下げる。


「もしかして、わたしが逃げてって言ったから……?」


 シリウスは応えなかった。応えないことはわかっているのに、リーゼロッテは期待するみたいにシリウスを見つめる。ゆらゆらとたゆたう空色の瞳はいまにも溶けてしまいそうで、


(どんだけひどい顔してんだよ……)


 シリウスは呆れ半分に独りごちる。心の中で溜息をついて、けれども再度存在を確かめるように頬ずりされれば、さりげなくシリウスもリーゼロッテの輪郭に両手を添えてしまう。左腕のバームクーヘンリボンが少し緩んだ。


 シリウスだって正直ちょっとほっとしていた。声の主が、近づいてきた相手がリーゼロッテだとわかったとたん、なんだか妙に力が抜けた。おそらくこれで全てが解決したわけじゃない。わかっているのに、わかっていても、言いようのない安心感を覚えて気がつけばリーゼロッテに自分からも身を寄せていた。


(……っ)


 はっとしたのは、改めて愛しげに名を呼ばれたときだった。


 シリウスは動きを止めて、息を詰めた。じわりと目端が熱を持った気がした。


「……なかなか見つけてあげられなくてごめんね」


 幸いにもリーゼロッテは気づいていなかった。気づかないまま、ややしてどろどろのシリウスを自身の法衣に包み込む。それを片手で支えながら、次にはふいに踵を返す。もう一方の手が伸びた先にはひっくり返った傘があった。


「でも、せっかくシェリーが逃げてきてくれたんだとしても……」

(……リズ?)


 リーゼロッテは手元に視線を落とす。シリウスはどことなく一変したリーゼロッテの様子にわずかに目を細めた。


「やっぱり、このまま黙って行くなんてできないよ」


 リーゼロッテは手にした傘の水を抜き、軽く水滴をはらってから再び肩に傾ける。ポケットから取り出したクローバーの刺繍の入ったハンカチで軽く顔を拭い、再び水溜まりを踏んで向かった先はルイーズの屋敷の玄関だった。


(……ヴィヴィアンの言った通りだった)


 シリウス自体を拾ったという予想もさることながら、一目見ただけでわかった。ヴィヴィアンの言葉は本当だった。


 シェリーがどれだけ大切にされていたか――あの日、カラスにさらわれてからもう何日も経っているのに、あの悪天候の中、深い森の中で見失ったのは確かなのに、ぬいぐるみシェリーの顔も、服も全部わかれたときのままだった。ともすればそれ以上にきれいになっている気さえした。それだけ大事に思われていたということだ。


 そんな中雨の庭先こんなところに落ちていた経緯ははっきりとはわからないけれど、それにだって理由があるに違いない。


「ちゃんと……ちゃんと話さなきゃ……」


 天候のせいでずっと辺りは暗いけれど、日の出の時間は過ぎている。特に早い遅いのない家庭であれば、そろそろ朝食の支度を始めるころだろう。


 リーゼロッテは意を決したように頷くと、辿り着いたポーチで足を止め、ドアノッカーに手をかけた。

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