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第三十七話 逃亡と危機


 内臓が抉れるかと錯覚するほどの咆哮が響いた。

 声の主はわかっている。

 天高く浮かんでいる黒い船の上にいる妖魔だ。

 敵側の大将といってもいい。

 鵺という怪物。


「いままで静観していたけど、いい加減ちょっかいでもかけてくるつもりかしら?」


 私は高鳴る心臓を落ち着かせながら言葉を紡ぐ。

 アメミトはその隙に一気に飛び上がり、鵺のとなりに着地した。


「助かるよ鵺。僕は戻る」

「いいだろう。次の妖刻への布石となる」


 鵺はアメミトの撤退を許した。

 気を良くしたアメミトは鵺に一礼して、巨大なゲートの中に消えていった。

 和美さんの死体を連れて……。


「どうして撤退を許したの? お前たちは妖狐を奪還するために来ているはず。戦力は多いほうがいいでしょう?」


 私は声を張ってたずねた。

 鵺の判断が不可解だったからだ。

 アメミトが撤退したことで、貴族位の妖魔は残り二体となった。

 一体は鵺。

 そしてもう一体は雨音さんと交戦中の妖魔だ。


「こちらにもいろいろあるのだ小娘。言っただろう? 次の妖刻への布石だと。アメミトは敵の力を吸って強くなる妖魔だ。つまり参戦すればするほど強くなる。本命は次回の妖刻なのだ」


 鵺はスラスラと答えた。

 思わぬほどに情報をくれる。

 今回は諦めた?


「さっきから次回とか次への布石だとか……今回はもう諦めたの? それとも思わぬ劣勢の言い訳のつもり?」


 私はあえて挑発する。

 ここですんなり諦められて万全の準備をされるほうが厄介かもしれない。

 いくら次の妖刻が十年後だとしてもだ。


「言い訳? 諦めた? 何を言っているんだ? 今回も勝ちに行く。あたりまえのことだ。我らが王である妖狐は目と鼻の先にいるのだから!」


 鵺は大きく叫ぶと黒い船から地上に向けて飛び上がる。

 強い振動が地面を走る。

 風圧で周囲の空気が一変した。


 四足の妖魔。

 胴体と四肢は虎で尻尾は蛇で頭は猿……。

 混ざりものの怪物。

 まさしく伝承どおりの存在だった。

 さっきまでは遠目だったのでその大きさがわからなかったが、体高が三メートルはある。

 間違いなくここにいる妖魔たちの中で最大の体躯を誇り、呪力の量も質もレベルが違う。


「いよいよ大将のお出ましってわけね」

「もちろんだとも小娘。そちらもお前が大将だろう? 今代の薬師寺家当主よ」


 鵺の声は異質な伝わり方をする。

 耳が震えるような妙な感覚だ。

 この世のものではない存在。

 妖魔も生き物であるはずなのに、こいつだけはどうしてもそうは思えない。

 空想上の怪物のような存在感。


 ここが正念場。

 ここで私がこいつを倒せば、今回の妖刻は終わりを迎える。

 戦ってみてわかった。

 私の強さであれば、どれだけ普通の妖魔がいても障害たり得ない。

 貴族位の妖魔の数が問題となる。

 そしていまこの戦場には二体しか残っていない。


「私の名は薬師寺葵。現薬師寺家当主、お前を倒して妖刻を終わりにしてあげる」


 私は啖呵を切る。

 もう恐怖はない。

 本当の殺し合いである妖刻にも慣れてきた。

 命のやり取りに慣れてきてしまった。

 いいことではないと思う。

 だけど今はそうも言っていられない。


 戦いに慣れて、空気に慣れて、命のやり取りに慣れて、私は躊躇なく妖魔たちを殺さなければならないのだから。

 愛する妖狐を守るため、人間界の未来のため、私はここで負けられない。


「我を倒してか? ずいぶんと大きく出たものだ薬師寺葵」


 鵺が私の名を呼んだ。

 それだけで背筋が凍ったような気がした。

 寒気ではない。

 明確な恐怖心だった。

 さっきまであれだけ戦う気力に満ちていたのに、今は恐怖に押し流されそうだ。

 なんでだろう?

 鵺の声を聞いて姿を直視しただけで、たまらなく恐怖が全身を走った。


「怖いか? 薬師寺葵」


 鵺は得意げに私を問いただす。

 怖いかと聞かれれば当然怖いと答える。

 それぐらい私は鵺の発する恐怖に飲まれてしまっていた。


「我は見た者すべてに恐怖を植え付ける存在だ。それは見た目が怖いとかそんなちんけなものではない。鵺という伝承を増幅させた結果手に入れたのが”恐怖”という能力だ」


 恐怖という能力?

 この恐怖が能力とでも言いたいの?

 これは奴が意図的に引き出している感情?


「恐怖はどんな生物にも存在する。生きている限り逃れられるようなものではない。本能に訴えかける我が能力。貴様に逃れる術はない!」


 鵺は堂々と宣言した。

 確かに私はいま恐れを抱いている。

 それも経験したことのないほどの恐怖心。

 手足が震え、視線を固定できない。

 本能的に鵺を見ることを拒否しているのだ。


「大丈夫だよ葵。葵には私がついているから」


 恐怖で震える私の背中に影薪の小さな手が炸裂する。

 パチンという気持ちの良い音をたてて、私に活を入れる。

 不思議とそれだけで恐怖心が少しずつ引いていった。


「式神に励まされるとは情けない! お前のような臆病者が大将なのか? 人間どもも人手不足と見える」


 鵺は笑い出した。

 私を侮る笑い。

 式神に励まされる私を愚弄する笑い声だ。


「ありがとう影薪。この気持ちのコントロールは任せるね」

「任せてよ。式神であるあたしには恐怖なんてほとんどないんだから」


 生物である以上恐怖からは逃れられない。

 確かに鵺はそう言った。

 そう、生物であればその通りだが、影薪は厳密にいえば生物ではない。

 私のために生まれ落ちた式神だ。

 式神である彼女には、鵺の放つ能力としての恐怖は通用しない。


「ご自慢の恐怖とやらは私の式神が中和してくれる。お前は私を笑ったが、それはお前がどこまでいっても一人だからだ。私は仲間と戦う強さを知っている。お前みたいに恐怖でしか周りを動かせない奴に笑われるいわれはない」


 今度は私が宣言する番だった。

 不思議な感覚だった。

 影薪が私の影に触れてくれているあいだ、恐怖は途端にやってこなくなったのだ。


「そうかそうか。そうしてお友達ごっこでもしているがいい。お前はその仲間とやらと共に死ぬだけだ」


 鵺の纏う空気が変わった。

 危険な呪力が鵺の全身から放たれる。

 私も対抗するように呪力を放出する。

 啖呵を切ったのは事実だが、ここまでの戦いでそれなりに消耗はしている。

 万全とはいいがたい現状。

 それでもやるしかない。

 敵は待ってはくれないのだ。


「来なさい。死ぬのはお前よ!」



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