「これは……この呪力は、まさか!?」
突然の呪力の解放に驚く私たちよりも、さらに大騒ぎしていたのが鵺だった。
さっきまでの威厳はどこへやら、反応が私たちとほとんど変わらない。
鵺にとってそれだけの事態。
そしてそれは私も同様だ。
「知ってる。私はこの呪力を、この気配を知っている」
私は想像していなかった。
この見知った呪力が解き放たれる瞬間を。
恐怖はない。
突如戦場に現れた気配は、私にとっては馴染みあるものだったから。
しかし戸惑いはある。
どうやって? という思いと信じられないという思いが強い。
「葵、知っているってどういうこと?」
明美が震えながら私にたずねる。
周囲を見渡すと、震えているのは明美だけではなかった。
人間も妖魔も、私と鵺以外のすべての存在が体を震えさせていた。
それだけの呪力の量と質。
私が大丈夫なのは、知っているからだ。
「大丈夫。”彼”は味方だから」
ほどなくして圧倒的な呪力の主が姿を見せた。
薬師寺家の本殿からその男はやってきた。
ゆっくりと歩きながら、神々しい呪力で周囲の風景を塗り替えていく。
「葵、大丈夫か?」
「うん、助かったよ妖狐」
私は鵺の放った闇を退けながらやってきた妖狐を見上げる。
妖狐はニコリと笑い、地面に座ったままの私に手を伸ばす。
私はその手を恐る恐る握る。
握った瞬間、私は一気に引き上げられて宙を舞う。
「ちょっと!」
私は抗議の声を上げるが、そのまま彼の腕の中におさまり文句が消えていた。
俗にいうお姫様抱っこのようなかたちだ。
恥ずかしいったらない。
「無事でよかった」
「どうやって封印を破ったの?」
私はいま一番の疑問をぶつける。
だって地下牢の封印は三〇〇年間解けなかったものだ。
だから妖狐はずっと地下に封じられていたんだ。
それがどうして……。
「気持ちかな? いままでも破ってみようとはしたが無理だった。だから仕方なく地下から戦況を窺っていたんだ。そしたらお前の呪力が弱まっていって……じっとしていられなかったんだ」
妖狐は涼しい顔をして答える。
つまり私が心配で無理矢理封印をこじ開けてきたってこと?
「妖狐様、お久しぶりでございます! 鵺でございます!」
私を抱きかかえた妖狐に鵺が声をかける。
鵺たち妖魔が十年に一度の妖刻を犠牲にしてまでも救い出そうとした存在が妖狐だ。
血筋的にいえば妖魔の王である妖狐に対して、鵺は明らかな服従の姿勢を見せた。
「鵺か。三〇〇年ぶりだな。なんとなくは憶えている」
「はっ! 妖狐様がまだ幼少の頃だった故、あまり憶えていなくても仕方がないことです」
鵺は深々と頭を下げる。
不思議な光景だった。
あれだけ私たちを圧倒していた存在が、こうして頭を下げる様子が信じられなかった。
「さあ妖狐様! そんな小娘など放っておいてともに人間どもを殺し尽くしましょうぞ! 我らに王が戻れば完璧! 空白の三〇〇年間を取り戻せる!」
妖狐が解放され鵺は捲し立てるように饒舌となる。
それもそのはずだ。
彼はずっと妖狐の解放を願って妖刻に挑んでいたのだから。
「悪いが鵺、俺にその気はない」
「どういう意味です?」
妖狐は捲し立てる鵺に対して、冷静で冷たい声で告げた。
鵺は理解できないといった様子で首をかしげる。
「俺は三〇〇年この屋敷の地下に幽閉されていた。その中で歴代の薬師寺家当主たちと会話をしてきた。正直言ってどいつもこいつもいけ好かない奴ばかりだった。だがコイツは違う。この薬師寺葵は、俺が初めて良いなと思えた存在だ。だから俺は人間たちに害を加えるつもりはない」
妖狐は堂々と言い切った。
三〇〇年間ものあいだ自分を助け出そうとしていた鵺に対して、臆することなく自分の気持ちを正直に話した。
そうか……やっぱり私のことをよく思ってくれていたんだ。
私の中で安堵と暖かさが広がった。
呪力不足でいまにも倒れそうな体に生気が戻った気がした。
「つまり、妖狐様は人間の小娘に好意を抱いていて、そのために我ら同胞を裏切ると?」
鵺から口調とは裏腹に不穏な気配が漂ってきた。
私は妖狐の腕の中で力が入る。
そういえばずっと抱かれていたんだ。
私は静かに妖狐を見上げる。
凛々しいスッとした顔つきだった。
それでもどこか怒っているようにも思えた。
普段の凪のような雰囲気がなくなっている。
「裏切る形になってしまうが、俺はこっちにいる。今まで俺を取り戻そうと動いてくれたことには感謝をしている。しかし先ほども言った通り、俺は人間に危害を加えるつもりはない」
再びの宣言だ。
決別の言葉。
妖狐の荒ぶる呪力がそれを証明している。
「人間の小娘に誑かされおって、それでも妖魔の王か?」
「俺は一度もみずから王を名乗ったつもりはない。祭り上げていたのはお前らだろう?」
鵺の言葉に妖狐も言い返す。
鋭い視線が鵺を射抜く。
言葉に、仕草に、怒りを内包していた。
「くだらない。ああ、くだらない。お前の父上はそれはそれは立派な王だったのにな!」
鵺は呪力を解放する。
妖狐に蹴散らされた闇の呪力を再び解き放つ。
「俺は人間に危害を加えるつもりはないと言った。それは同時にお前たち妖魔と敵対することを意味しているのだが分かっているか?」
妖狐も呪力を解き放つ。
荒々しい金色の呪力。
呪力を解放した妖狐はゾッとするほど美しかった。
呪力でなびく長い金髪。
それと合わせたような和服に白い羽織。
そこに鋭い目つきが相まって、見た者は呆気にとられてしまう。
「そもそも葵を傷つけたお前を許すわけがないだろう?」
妖狐は私を地面に降ろしながら言った。
私をかばうように一歩前に出る。
迸る金色の呪力は、それだけで戦う気力を奪う。
心底妖狐が味方で良かったと思う。
仮に彼と戦うことになってしまえば私たちに勝ち目はない。
それだけ戦力差は圧倒的だ。
妖狐に対抗できるとしたら、それはきっと鵺だけだろう。
「お前が戻らぬならこのまま……」
鵺がいざ攻撃を仕掛けようとした時、妖狐の呪力とは別の光が差し込んできた。
なんだろうと視線を向けると、それは太陽の光だった。
陽光だった。
つまり朝がやってきたのだ。
妖刻が明ける……。
「チッ! 時間切れか」
「戻るのか?」
悔しそうな鵺と涼しい顔の妖狐。
対照的な二人が並び立つ。
「妖刻は明けた。いずれゲートが閉じて我は逃げ場を失うだろう。だからここで退かせてもらう。次がある。次で必ずお前を討ち滅ぼす」
鵺は憎しみのこもった瞳で妖狐を睨む。
想いの強さが反転した結果だ。
鵺はきっと他の妖魔たちよりも真剣に妖狐を取り戻そうとしていたのだろう。
その分、裏切られたという思いが強いのだ。
「撤退だ! 次の妖刻に備える! 我らからすれば次の妖刻などそれほどの年月ではない! だが覚悟しろよ人間ども、次は今回のようにはいかぬからな!」
鵺は高くジャンプし、黒い船の上に着地する。
気づけば地上にいた数多の妖魔たちが一斉に消えていた。
みんなゲートに帰っていく。
妖刻は終わったのだ。
「終わった? やっと終わった?」
私は緊張の糸が切れた。
体から力が抜け、私はその場に倒れ込んだ。