「もう朝か……」
私は静かに目を開く。
見知った天井、ホッとする布団の温もり。
どれだけ眠っていたのだろうか?
私の記憶の中では、鵺が撤退して妖刻が終結してそれから……。
だめだ。
全然憶えていない。
きっと私が記憶を失ったのがそこらへんだったのだと思う。
妖刻を無事に乗り切った安心感で意識を失ったのだ。
「起きないと」
私は体に力を入れる。
しかし体が動かない。
全身が深海に沈んだように重い。
何かが乗っかっているわけではなく、単純に私の体がだるくて重い。
これは一体何だろう?
「諦めなよ葵。あと数日は起き上がれないと思うよ?」
なんとか首だけ動かすと、そこには影薪が座っていた。
私の寝ている布団の横に座布団を敷いて、その上で大福を食べている。
「あれからどれくらいたった?」
「二日かな? 他の皆はそれぞれ片付けとか大変みたい」
「片付け?」
片付けとはなんだろう?
ぼんやりとした頭で思考を巡らすが、残念ながら何も思い浮かばなかった。
「そう片付け。妖魔の死体とか、戦いで荒れ果てた土地の修復。その他もろもろ」
影薪はしれっと答えて二つ目の大福に手を伸ばした。
ぶっ倒れた主の目の前でよく食べれるわねこの子。
「そっか……。本当は私の仕事なのに申し訳ないな~」
「いやいや、葵がなんでもかんでも背負わなくてもいいんだって。背負いすぎた結果がその状態でしょ?」
その状態? ぞの状態とはどの状態のことだろうか?
「呪力欠乏症。あと二週間は呪力を練れないから気をつけてね」
「呪力欠乏症?」
私は聞いたことのない言葉に首をかしげる。
なにそれ?
「呪力欠乏症は呪力が欠乏しているんだよ」
「それぐらいわかるって!」
影薪がわざとらしいくらい真剣な表情で、当たり前の説明をしてくるものだからついついツッコミをしてしまった。
「ようするに使い過ぎだって話。使いすぎて一時的に呪力が扱えない状態ってこと」
「この体が異様に重いのも、その呪力欠乏症ってこと?」
それならば納得がいく。
こんなに体が動かないことなど今までなかったことだ。
「うん? いや、葵のそれはただの筋肉痛だと思うよ?」
「筋肉痛?」
なんだか一気に重傷感が薄れていく。
戦いの傷跡で動けないわけではなく、齢十八にして筋肉痛で布団から出られないというのはいただけない。
恥ずかしすぎるし、いまも片付けをしてくれている他の人たちにあわす顔がない。
「憶えてないの? ほらあのヘビ野郎を倒したときにさ」
「ヘビ野郎? ああ、八岐大蛇のこと?」
「そうそう!」
影薪は思い出したと言わんばかりに手を叩く。
しかし貴族位の妖魔を相手取ってヘビ野郎って……。
「ヘビ野郎を倒したとき、全身に呪力を走らせて強引に動いたでしょ?」
影薪の言っているシーンを思い出す。
確かに呪法を封じられた私は剣術での戦いにシフトした気がする。
当然、普通の人間の小娘があんなガタイの妖魔に勝てるわけがないので、呪力で全身を強化していた。
「うん。戦ったね」
「あれの反動」
「マジ?」
「マジだよ」
そんなに長い時間ではなかった気がするけれど、考えてみれば人間のなせる動きではなかった気もする。
となると代償は払わなければならない。
世の中は等価交換だ。
「じゃあ私は二週間呪力を練れない筋肉痛の少女ってわけね」
「そうなるね」
影薪はケタケタ笑いながら三つ目の大福を頬張った。
この子、何個まで食べれるのかしら?
「それで、さっき言ってた気をつけてってどういう意味?」
私は影薪の警告が気になった。
気をつけるも何も、もう妖刻は終わったのだ。
あと十年はあの戦いはやってこない。
「何言ってるの? 妖刻が終わったって当主としての仕事はいっぱいあるし、普段妖魔たちから恨みを買ってるんだから狙われかねないじゃん」
「その時は影薪がどうにかしてよ」
私は影薪に期待のまなざしを送る。
だってそうでしょう?
主が戦えないのなら、式神が代わりに戦う。
すごく自然なことだと思う。
「え、あたし戦えないよ?」
「なんでよ!」
「だってあたしの呪力は葵経由だもん。あたしから呪力をとったら、ただのいたいけな幼女だよ?」
影薪は目をウルウルさせて逆に訴えてくる。
普通、いたいけな幼女は大福を三つも食べないのだけれど?
「じゃあ私たちは無力ね」
「そうそう。だから気をつけてって言ったんじゃん」
影薪はそう言って立ち上がった。
手には空っぽの皿を持っている。
「どこ行くの?」
「あたしがどっか行くっていうより、お客様だよ」
影薪がドアを開ける。
そこに立っていたのは明美だった。
目元は赤く腫れ、憔悴しきったその顔は私以上に重症に見えた。
「じゃああとは若いお二人で!」
影薪は見た目幼女のくせにそう言い残して部屋を去っていった。
「明美……」
部屋に残された私と明美。
身体的に重症なのは明らかに私だが、精神的には明美のほうが辛そうだ。
「葵、大丈夫なの?」
「明美こそ、その……寝られてる?」
私は和美さんの名前を出すのをためらった。
とてもいまの彼女を前にして、殺されてしまった母親の名前を出す気にはならなかった。
しかも遺体まで連れ去られてしまったのだ。
和美さんを殺した妖魔、アメミトは次の妖刻にて和美さんの呪法を使ってくるだろう。
それもきっと明美に対して使ってくる。
戦って分かった。
妖魔は卑劣な奴らばかりだった。
「少しだけ……。ねえ葵」
「なに?」
明美は物々しい雰囲気で私の名を呼ぶ。
「あたしさ、葵のこと誤解してたみたい」
「誤解?」
「そう。あたしはさ、ずっと葵が羨ましかった。あたしなんかとは違って優秀で、歴代最強とか呼ばれてて、あたしのことなんか下に見てると思ってた。どうでもいい存在だと見下されていたと思ってたの。当主という立場がどんなに大変か知らずに、妖刻を本当の意味で理解していなかった。あたしが妖刻を理解したのは、お母さんが目の前で死んだときだった」
明美の目から涙は流れなかった。
きっとこの二日間、ずっと泣いていたのだろう。
痛々しく腫れた瞼から、もう涙は流れない。
きっと涙も枯れてしまったに違いない。
「遅かった。あたしは戦いというものを本当の意味で理解していなかった。どれだけ残酷な場か、頭でしか理解していなかった。心のどこかで勝つのが当たり前で、何人かの犠牲はあってもお母さんが殺されるなんて思ってもみなかった。それに葵のあんな必死な姿、初めて見た」
私は黙って明美の独白を聞き続ける。
口を挟めるわけがなかった。
この場において、私は言葉を知らない。
「この二日間考えた。当主とはどういう立場なのか。人間と妖魔の関係性、それに妖刻について。死んでいったお母さんの顔を何度も思い出して、あたしは決意したの」
「決意?」
「うん。あたしが次の西郷家の当主になる。お母さんの娘だからなるのは当然なんだろうけど、覚悟が決まった。絶対に今より強くなって、お母さんとお父さんを殺したあの妖魔を殺してやる!」
赤く腫れた瞼の奥底に、強烈な殺意が浮かび上がる。
アメミトは十年前の妖刻で明美の父親を殺していたのだ。
結果的に両親をアメミトに殺された明美……。
「そのためにあたしは強くなる。強くなって当主としての役割もちゃんと務める。死んでいったお母さんに恥ずかしい姿は見せられないから」
力強く言い切った明美には、以前のような甘えは一切感じられなかった。