私たちは崩壊する世界から脱出し、いつも通りの景色に戻ってきた。
今回の次元ポケットは鵺の仕込んだもので間違いなく、モザンクルスの中に呪花の花弁があったことから、時間の経過と共にあのモザンクルスが特大の呪花になっていたのだろうと妖狐が話してくれた。
あくまで推測といいながらも、自信ありげに話す様子に私たちは警戒心を強めた。
鵺は確実に妖刻を発生させようとしている。
それだけは確実であり、次は確実に私たちを殺しに来る。
だから私たちは鵺の用意した次元ポケットを破壊し続けなければならない。
中で咲き誇る呪花を破壊して、大気中の呪力濃度を下げなければあの地獄は再び顕現する。
「私は疲れたので戻ります。葵さん、妖狐さん、今日はありがとうございました。私一人では解決できない案件でした」
雨音さんは深々と頭を下げた。
彼女は常に単独で行動するタイプの人間だ。
いつも一人で解決してきた彼女にとって、自分の呪法が通用しない相手とあたるとは思ってもみなかったに違いない。
言葉自体はまだまだ固さが抜けていないけれど、どことなく表情を見るに打ち解けられた感がある。
「また見つけたら教えてください。私のほうでも継続して警戒しますので」
「はい。ではまた」
雨音さんはそう言い残して去っていった。
彼女からすればいまの当主たちは自分より遥かに年下ばかり。
どことなく馴染めないのも仕方がないのかもしれない。
それでも一丸となってことに当たらなければ、次の妖刻で私たちは負ける可能性がある。
「帰ろうか」
私たちも帰宅することにした。
もう完全に日が落ちている。
いくらご近所とはいえ、普段来ない場所のせいか暗くなってくると途端に別世界に感じられた。
人通りのないなか、私は妙に無口な妖狐の手を握って薬師寺家に戻る。
影薪も疲れてしまったのか、私の影の中でグースカ眠っている。
羨ましい性格をしているなと思った。
今後の次元ポケット全てにモザンクルスが存在するかもしれないと危惧している私とは大違い。
「お帰りなさい葵さん」
「ただいま美月さん」
美月さんに出迎えられ、私たちは夕食をとることに。
いつも通りの素晴らしい和食中心のメニュー。
ご飯と焼き魚とみそ汁と肉じゃが。
ちなみに私はジャンクフードは滅多に食べない。
もちろん太りたくないという年頃の女の子っぽい理由もあるけれど、それ以上に呪力量を安定させるのに健康がなんだかんだいっても一番重要だと分かっているからだ。
「いただきます!」
家族四人で手を合わせて夕飯をいただく。
影薪はご飯の匂いで目を覚ましていち早く席についていた。
犬かなこの子?
他愛ない会話を繰り広げる影薪と美月さん。
意外と仲の良いこの二人を中心に会話が展開され、私と妖狐はあまり喋らずにたまに参加する程度。
だけど今日はちょっとだけ違った。
妖狐が本当になにも喋らない。
どこかぼんやりとしている。
「ごちそうさまでした」
四人が同時に席を立つ。
美月さんはそのまま片づけに突入し、影薪は大福を漁りにキッチンへ。
私は自室に戻る妖狐のあとをついて行く。
「ねえ妖狐」
「……なんだ?」
「なんか様子が変じゃない?」
私はここ数時間の違和感をぶつける。
何度も感じている違和感。
彼の記憶の混濁。
だけど今回は今までとはどこかが違う。
「正直に言って」
妖狐が誤魔化そうとすると思い、先回りする。
いまの私が欲しいのは優しい嘘ではなく、しっかりとした事実だ。
私が引かないことを察したのか、妖狐は深々とため息をこぼした。
どこか覚悟の決まった表情。
私は緊張で喉が渇く。
「悪い。葵、君のことが分からない」
言葉を聞いた瞬間、私はどうしようもなく体が震えた。
言葉の意味を理解した時、眩暈にも似た感覚が襲ってきた。
私のことが分からない?
意味が分からない。
言っている意味が分からない。
いや、言葉の意味は分かる。
だけど今その言葉が出てきた理由が分からない。
だって私と妖狐は……。
「ちょ、ちょっと待って妖狐。嘘よね? 嘘だよね?」
信じたくない私は妖狐に縋る。
言葉だけではなく、本当に体に力が入らなくなり膝をついて妖狐にしがみつく。
嘘といって欲しい言葉。
何気ない悪ふざけだと種明かしをして欲しい。
だけど知っている。
私の知っている妖狐はこういう類の冗談は決してつかない。
「すまない。葵、本当に君のことが分からないんだ」
再び告げられた事実。
妖狐の中から私は消えてしまったの?
なぜどうして?
そんな感情が渦巻くが答えはほとんど出ている。
妖狐の呪法だ。
妖狐の呪法、世界反転。
強力過ぎて仕組みさえ分からない呪法。
何度かあった記憶の混濁。
その前には必ず世界反転を使用していた。
だから私は今回、彼に使わないようにお願いしたのだ。
いずれ混濁程度では済まなくなるとなんとなく感じていたから。
しかし結果的には使わせてしまった。
それもすべて私の至らなさだ。
私があの時ピンチに陥っていなければ、妖狐は世界反転を使わなくて済んだのだ。
そうすれば彼の記憶も……。
「じゃ、じゃあ、妖狐は私が誰でどんな人間なのか忘れちゃったの? いままでの思い出も会話も、すべて忘れちゃったの?」
まるで駄々をこねる子供のよう。
自分でもそう思う。
ほとんど八つ当たりのように妖狐を問い詰める。
「正確に言えば実感がないという感じなんだ。葵がどんな人間で、俺との関係値がどんなだったかとかの記録は存在する。だから葵のことは分かっている。でもあくまで記録としてだ。そこに感情がついてこない。思い出というかたちでは憶えていない」
私は理解に時間がかかった。
実感がないけれど記憶は残っているということ?
ああ、違う。
記憶じゃなくて記録?
つまり私という人間は認識できているけれど、そこに感情が乗っていないということ?
「じゃあ私のことは知っているけど、私のことを大切には思えていないってこと?」
「……すまない」
彼の一言に全てが詰まっていた。
私は彼の脳に記録として残ってはいるが、彼の心には残っていないらしい。
これは記憶喪失と呼べるのだろうか?
「とりあえず認識はできているのよね?」
私は震える心で確認をとる。
妖狐は本当に申し訳なさそうに頷いた。
きっと彼からしても完全に忘れてしまっていた方が楽だったに違いない。
しっかりと自分と私の関係性も知っているからこそ、彼も苦しいのだ。