あれから二週間が経過した。
その間にも次元ポケットの報告はたびたび上がり、私たちももちろんのこと一条、明美ペアは相当数の呪花を破壊したらしい。
二週間経っても妖狐の記憶は戻りはしなかった。
もちろん記憶喪失といっても私のことを忘れたわけではない。
ただ実感が持てない記録として、私のことは彼の脳内に保管されている。
「おはよう」
「ああ、おはよう葵」
妖狐と話し合った結果、美月さんには知られないようにすることにした。
隠そうとしても影薪にはどっちにしろバレてしまうため、私たち三人だけの秘密とした。
だから若干ぎこちなくなろうとも、今まで通りの振る舞いを続けている。
私からしたら苦しい時間であり、妖狐からしたら空虚な時間だ。
「まるで外と同じね」
私は仕事部屋の窓から外を眺めてため息を漏らす。
書類仕事に追われ、ハンコを押し続ける。
雨がしくしくと降り続ける中、私は妖狐のことを考えないようにと仕事に
しかしハンコを押せば押すほど、私の心の中に重りのような何かがかさなっていく気がした。
「葵、大福食べる?」
「いらない」
「え! いらないの!?」
仕事の邪魔をしに来た影薪が、私の目の前で大福をちらつかせるが私は静かに断った。
いまはそんな気分じゃない。
正直普段の食事だって無理矢理食べている。
美月さんを心配させたくないから頑張って食べているだけで、飲み込むのがやっとで味もほとんど感じない。
心が重くなると味覚すら沈んでいくらしい。
「元気だしなよとは言わないけどさ、まだ忘れられていないだけ良かったんじゃない?」
影薪は私を元気づけようと必死だ。
その気持ちは嬉しいし、影薪の言っていることも分かっているつもりだ。
頭では理解している。
いまの状況がまだ”マシ”だってことぐらい。
だけどね、頭で理解するのと心が納得するのは別なの。
「うん。でもさ、なんか虚しいよ」
私はついつい影薪に弱音を吐く。
この複雑な気持ちに名前を付けるなら、それは虚しいという名だと思う。
悲しいもなんか違う。
私の気持ちは本物なのに、彼の気持ちも本物だったはずなのに……。
彼の私への気持ちはどこかへ行ってしまった。
別に私が至らなくて彼に嫌われたのならまだいい。
悪いところを直せばいいし、嫌だけど納得できる。
でも今回は違う。
「私も妖狐も落ち度がない。だけど確実にあったはずの気持ちがなくなってしまった」
そうしてマイナス思考になっていると、どんどん考えがそっちに引っ張られるもので、もともと妖狐は私のことをどう思っていたんだろうと疑心暗鬼に陥りそうになる。
そのたびに私は自分の頬を叩いて活を入れる。
気持ちで負けないようにしなければ……。
なんやかんやそうして二週間を過ごしてきた。
「まだマシなのは、あれから妖狐の記憶喪失が進行していないことね」
妖狐に隠し事はなしと言い含めてから、彼が嘘をついていなければ記憶に変化はないらしい。
しかしそれは同時に、元の感情を思い出しているわけでもないのだからややこしい。
安堵と残念な気持ちが渦巻く私の胸中。
いろいろと分からないことだらけだけれど、分かっているのは一つだけ。
「妖狐が呪法、世界反転を使うと記憶の混濁が発生する。これは確実ね」
「そうだね。妖狐の呪法はさ、式神のあたしから見ても異常な呪法だもん。威力も応用力も桁違い。なんの代償もないわけがないんだよね。まさかそれが記憶だとは思わなかったけど」
確実なのはもう妖狐に世界反転を使わせてはいけないこと。
次こそは本当に私のことを忘れてしまうかもしれない。
「でもさ、どうして葵のことだけなんだろうね?」
「え?」
「思わない? 普通はあたしのことや美月のことも忘れそうじゃん? なんで葵だけなんだろうって」
言われてみれば確かにそうだ。
なんで私だけなのだろう?
「それは答えられるぞ」
突然妖狐の声がした。
気づけば部屋の入口に妖狐が立っていた。
「理由が分かるの?」
「ああ、それは明確にな」
妙に自信満々な妖狐。
自分の記憶のことなのに妙に冷静だ。
「ちゃんと影薪や美月のことも実感はない。だけど俺にとっては葵が一番大切で、一番失いたくない記憶なだけだ」
妖狐の思いがけない一言に、流石の影薪も固まってしまった。
一瞬固まったあと、すぐにニヤニヤしだしたのだから厄介な式神だ。
私は恥ずかしさでいたたまれなくなる。
「……そうなんだ」
妖狐のこんな些細な言葉でも少しだけ心が暖かくなるのだから、私という人間は案外単純なのかもしれない。
少なくとも記憶を失う前の妖狐の気持ちは知ることができたのだ。
「なあ葵」
「なに?」
ちょっとだけ前のようなやり取り。
少し頬が緩む。
心なしか雨音が止んできた気がする。
「もしも俺の記憶が戻らなかったら……」
妖狐は一度言葉を切った。
私はその続きを待つ。
少しだけ聞くのが怖いその言葉の続きを……。
「また一から思い出をくれないか?」
妖狐はうつむきながら呟いた。
思ったよりも小さな声で続きを口にした妖狐の顔を覗き込む。
普段よりも明らかに頬が赤い。
彼なりに私を気遣ってのことだろう。
私との関係はもちろん知っているはずだ。
取り戻せそうにない記憶と、ここ二週間の私の様子を見てわざわざ宣言しに来たのだ。
本当なら記憶を取り戻して欲しい。
そんなのは当たり前の願いだ。
それはきっと妖狐も同じのはず。
私ばかりが不安なわけではない。
彼だって不安なはずなのだ。
むしろ私よりも、記憶を失っている彼のほうが強い不安に苛まれているはずだ。
「ありがとう妖狐。その時は覚悟してよね」
私はそんな優しい彼の気づかいに、満面の笑みを浮かべて答えた。
簡単には心の整理はつかないけれど、少しでも私が前に進めるように動いてくれた彼に対する最大限の感謝を言葉にする。
私は彼の申し出を嬉しく受け止めながらも、決して彼の記憶を諦めることはないのだ。