「ふわぁー」
大きな欠伸で吾輩は目覚めた。猫になった夢を見ていたらしい。夢の中では炎と煙に巻かれて死ぬところであった。いや死んだのか。定かではないが、そのせいなのか、やたら身体が怠い。
重たい身体をなんとか起こす。猛烈な違和感が襲いかかる。吾輩はすぐに鏡を探してその前に立った。
「やはり……」
違和感は間違いではなかった。
「吾輩は……」
夢で見たあれと同じだ。
「猫なのか!?」
吾輩はすかさず右手を上げた。鏡の中の猫も当然右手をあげる。
「夢ではなかったのか」
そういえばなんとなく毛の焼けた臭いが鼻につく。吾輩はもう一度鏡の前に行き、自分の身体を調べた。
それほど多くはないが、いろんな所がチリチリとなっていた。お洒落なスティンが台無しだ。いやそもそも服は着ていないのだが。
ともかく生きているのは間違いない。他の猫たちも吾輩より先に逃げているのだし無事なのだろう。
しかしあの業火で良く生きていたものだ。そういえばどうやって逃げ出したのか。全くわからない。
そしてここはどこなのか。そうだ。ここはどこだ。吾輩は周りを見回した。建物自体は古いし非常に質素ではあるが、小綺麗に片付けられて心地は悪くない。あの小屋とは正反対と言っても過言ではない。
部屋も大きくはなく動かずとも見渡せるのだが、身体が重いため少し歩いてみる。
しかし質素というかシンプルというか物がない。かと言って生活感がないわけでもない。さっと一周してみた感想だ。
グゥ~と腹の虫が鳴く。どのくらい寝ていたかはわからないがと言うよりも、あの古い小屋で目覚めて以来何も口にしていないのだ。そりゃあ腹も減る。
クンクンと匂いを嗅いでみる。隣の部屋からなにやら香ばしい匂いが漂ってきている。
誰かいるのか?まあいて当たり前か。吾輩を助けてくれた人物であろうか。とはいえドアを開けることなどできないのだ。吾輩一人では。
吾輩は振り返り、元の場所へ戻ろうとした。するとまだ感覚の掴めていない尻尾がドアをコツンと小突く。
一瞬の静寂の後にゆっくりとわずかにドアが開いた。様子を窺っているのだろう。姿は見せない。そんなことしなくても臭いや気配でわかるのだが。これは案外便利である。
更にゆっくりドアが開いていく。こちらを警戒させないようにしているのだろうが、まだるっこしい。
吾輩はドアの隙間をひょこっと覗いた。このラブリースティンのひょっこりに、この人物は抗えずメロメロになることだろう。
「や、やあ。目覚めたんだね、具合はどうだい?」
目の前に現れたのはいかにも優しげな男であった。吾輩にひょっこりされて一瞬ビクッとした所から、気弱そうな印象を受ける。
ちなみにメロメロにはならなかったようだ。吾輩の魅力がわからないとは鈍い男だ。
「吾輩を救ってくれたのは貴殿か?」
よくよく見れば腕に包帯を巻いている。火傷でもしたのだろうか、と思い尋ねる。
「元気そうだね、良かった。お腹すいてないかい?お水は?」
矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、吾輩の問いへの返答の言葉は含まれていない。当然と言えば当然だが言葉は通じていない。
「お口に合うかわかんないけど、どうぞ」
出された食器にはアツアツのスープとその中に数種類の野菜が入っている。これは玉ねぎと人参と白菜か。
「ありがたい。腹が空いてしょうがなかったのだ」
吾輩は喜んで皿に鼻と口を近づけた。
「うっ……」
熱気もそうなのだが、なにやら口に入れてはいけないような危険な臭いに顔をそむけた。
そうか。玉ねぎか。猫に玉ねぎを与えてはいけないと聞いたことがある気がする。それに熱いスープ。これを舌で舐めながら飲むのは無理だ。熱すぎる。
吾輩は玉ねぎの臭いに耐えきれず顔を背けた。玉ねぎの゙煮込み料理は好きだったのだがな、残念だ。
「ダメかあ。なんなら食べるかな」
「すまんな。スープだけでも玉ねぎが溶け込んでて無理のようだ。ん?あれは……」
スープを片付ける男の先に黒っぽい箱が見える。そしてとても懐かしく芳醇な香りを箱から感じる。
「もしや、チョ……チョコか!!」
チョコレートは吾輩の大好物である。猫にマタタビ、吾輩にチョコレート、それくらい目がないのだ。
吾輩は箱に向かってまっしぐらに飛びかかった。そして、見事箱に覆い被さった。チョコレートの絵が描いてあるし、この得も言われぬ香ばしさは間違いない。紛れもなくチョコレートだ。
「あっ〜」
ビクッ!
突然の叫び声に不動のスティンともあろう者が振り向いてしまった。その隙にチョコの箱が奪われた。
「何をするか!このチョコは吾輩が手に入れたモノだぞ!」
「ダメダメ!チョコはダメだよ、食べちゃダメ!」
「おのれ!返せっ!返さぬか!」
吾輩は毛を逆立て、牙も爪も剥き出しにシャーシャーと男に詰め寄る。
「すごい執着心だね、でもチョコはダメなんだよ。ごめんね」
男はそう言うなりチョコの箱ごと玉ねぎスープの中に放り入れた。
「おい!何をする!」
吾輩は鍋に近づこうとしたが、熱気と玉ねぎの臭いとチョコの香りが混じったわけの分からぬ臭いに足を止めた。
徐々にチョコの香りが強くなる。溶けているのだろう。これならばワンチャンいけそうではなかろうか。
吾輩は意を決して鍋に近づいた。
「うおっ、やはり無理だ」
基本的にはチョコの匂いなのだが、ちゃんと玉ねぎも香っている。猫じゃなければわからなかったかもしれない。
「ほら、今はこれしかないから我慢して食べて」
項垂れている吾輩に男が持ってきたのは、生の人参と胡瓜、それにキャベツの芯。
「こ、こんなものを食えと?」
美食家スティンが生野菜とキャベツの芯で満足するはずがなかろう。
吾輩は恨みがましく男を睨む。
「ごめんな。見ての通りあまり裕福じゃないから。あのチョコもちょっとずつちびちび食べてたんだけど……」
男は悲しそうに鍋を見つめる。
「それは申し訳ないことをした。チョコの魔性に取り憑かれるとはまだまだ吾輩も修行が足らんな」
吾輩は頭を下げると生野菜に口をつけた。
「ん?行けるではないか、これは美味いぞ」
人間の頃よりも野菜が美味しく感じる。これも猫の特性なのか?わからないが空きっ腹も手伝って吾輩はむさぼり食った。
「ふう、腹いっぱいだ」
満腹になり、水で喉を潤すと猛烈な眠気が襲ってきた。吾輩は寝ていた場所まで戻るなりすぐさま爆睡した。
しばらくして、ドアが閉じる音と男の気配がなくなったが吾輩は睡魔に逆らうことが出来ずそのまま眠り続けた。