部屋に入ってから、三十分ほど経過しただろうか。一定のリズムで刻む時計の針の音を聞きながら、楓月はソファに腰を沈めて欠伸をした。肩の凝りを取る振りをして周囲を見回す。どうせ監視でもしているに違いない。
咲良から連絡がないことに焦りが募る。車から出ない限り、危険な思いはしなくて済むはずだが……。思案していると、突然、モニター画面に砂嵐の映像が映った。時折、ブロイラーの鶏のように、ひしめき合った人たちの姿が浮かび上がる。どうやら教会の内部を映しているらしい。教壇に立った男が大袈裟に身振り手振りを交えて話しており、それを聴衆が目を見開いて聴いているといった構図だ。
やっと、あの悍ましい職場から離れることができたというのに、今度は宗教じみた自己啓発を見せつけられてしまうのか……。もう溜息しか出ない。
ソファから立ち上がってドアに近づき、ドアノブにそっと触れた。音を立てないように慎重にドアを開いて、ドアの隙間から辺りを窺う。
「どこに行くつもりですか」
スーツ姿の男だ。丁寧な口調だが、その言葉には有無を言わせない威圧感がある。
「トイレにでも行こうかと思って」
この手の人間は何がきっかけでキレるか分からない。極力冷静に対応しなければ。
「大人しく部屋で待っていてもらえませんかね。教祖が聞きたいことがあるそうです」
咲良が教会に捉えられている可能性があるのだ。逃げはしない。聞きたい事というのは、どうせ絵の在り処のことだろう。知らないものは知らないのだ。それしか答えようがない。部屋に戻り、再びソファにもたれ掛かった。
映像はまだ続いている。教壇に立っている男が聴衆に向かって、盛んに絵画を購入するように煽っている。この後のことは大体、察しがつく。恐らく、この会場にいる全員が絵画に殺到するのだ。
セミナーの動画が終わる頃、ドアがノックされ、スーツ姿の男が入ってきた。男は「教祖に失礼のないように」と一言だけ言って立ち去った。
「ようこそ、本部へ」
この人が教祖か。想像していた人物像とはかけ離れている。このような場所で会わなければ、ビジネスマンと間違えてしまいそうだ。だけど気を引き締めなければならない。教会のトップに君臨するほどの人物だ。しかし一人でわざわざ出向いて来るとは、一体、どういうつもりなのか。
教祖が斜め前に座った。
自分でも驚くほど冷静だ。感情を表出することができない家庭で育ったことが、功を奏しているのかもしれない。皮肉なものだ。
出方を伺っていると、教祖が先に口を開いた。
「どうでしたか、セミナーの映像は」
「つまらなかったです」
素直に感想を述べた。僕は信者ではないのだ。この男に媚びる必要はない。
意外にも教祖は笑みを浮かべた。
「そうでしょうね。貴方のような疑心暗鬼の塊のような人は、自己啓発には嵌まらないものですから」
疑心暗鬼の塊……。何でも疑わずに信じてしまう方がおかしいのではないか。
「それは誉め言葉ですか」
「実は自己啓発に傾倒するのは、どちらかと言うとポジティブな人の方が多いのです。この人たちは思慮深くありませんからね。簡単に騙されます。それに比べて貴方は正反対の人間です。物事を客観的に、そして批判的に見ている。そのような人は騙されません」
「騙す?」
教祖が発した言葉に即座に反応した。
「ストレートに表現するとそうなります。勘違いをさせると表現した方が良いかもしれませんね。錯誤、誤認とも言いますが。映像を見た通りですよ。あのようなものを見せられて信じてしまう方がどうかしているのです。普通は信じません」
この男の真意が掴めない。その事を僕に話してどうするつもりなのか。
「まず最初に出てきた医学博士ですが、この男の経歴などは全てデタラメです。外国人研究者たちと写った写真を聴衆に見せたのも計算があってのことです。その姿を見て、思考することを止めた人たちは、きっとこう思ったことでしょう。『アメリカで最先端の医学を学び、研究に没頭している医学博士』だと。誰もそのようなことは一言も言っていませんが、滑稽なことに勝手に想像を膨らませて信じてくれます。そして社会的に高い地位にいる人が言っているからという理由で、その人物が発した言葉の全てを受け入れるのです」
一々、説明されなくても分かる。自称医学博士は母が経営するスナック店にやって来る酔っ払い客と同じだ。彼らは自分の過去を偽り、誇張する。必要以上に自分を大きく見せたがるのだ。実体は酷く、人を欺き、時には蹴り倒して地位を確保してきた人たちばかりだ。生き残った者こそが有能なのだと信じて疑わず、この世は騙した者勝ちだとすら思っている。その陰で人生を狂わされた心優しい有能な人たちがいることには気づきもしない。
実力とは関係のないところで勝敗が決している。よくある話だが、とても納得できることではない。
さらに教祖は饒舌に語っていく。
「経歴は良いとして、演説の方はどうでしたか。見抜くことはできましたか。彼は『妻を亡くした』『私は妻に苦労をかけた』『そのことで自分も苦しんだ』彼は聴衆に向けて矢継ぎ早に語っていました。きっと多くの人が彼に同情したことでしょう。しかし、これも全て嘘なんですよ。そもそも、あの男は結婚したことすらないのですから」
教祖は顔を崩して笑った。一体こいつは何なんだ。何がしたいんだ。