荒木が教祖の顔色を窺いながら言った。
「何だ」
「香流甘のことです。何故、この者たちが嗅ぎ回っているのか気になりまして」
嫌な言い方だ。まるでこちらが非常識なことをしているとでも言いたげだ。
「私の予想ですけど、たぶん、この人たちは母に頼まれたのだと思います。だけど私は帰るつもりはありません。母には余計なことをしないで欲しいと伝えて下さい」
香流甘が俯き加減で言った。香流甘には香流甘なりの事情がある。無理に連れ戻すことはしない。だが、本心ではないような気がする。
「分かりました。そのように伝えておきます」
「やけに大人しく引き下がるんだな」
荒木の言葉には冷嘲が込められている。こんな奴、一々相手にしていられない。
「だけど、いつの日か何かに依存するのではなく、自立したいと思う日が来ると思います。その時は迷わずここから離れて下さい」
「何言ってんだ、お前。こいつは親元を離れて生活しているんだ。どこが依存なんだよ。自立だろうが!」
「荒木さん、あなたには言ってませんよ。関係ないので、少し黙っていてもらえませんか」
弥生が冷ややかに言い放った。
「お前だって関係ねえだろうが。こいつは自分の意志でここに来ているんだ。人を人形かロボットのように言うんじゃねえよ。お前ら頭がおかしいのか」
荒木が感情を露わにした。歪みきった人間性が全面に出ている。
「出て行きたくなったら、その時は出て行けば良いさ。誰も無理に引き留めはしない。ここはそういう所だ」
教祖が口を挟んだ。
「私は出て行くつもりなんてありません。安心できる唯一の場所なので」
「そうだ。ここにいれば安全だ。人は助け合って生きて行くものだからな」
荒木が勝ち誇った顔をした。この男は物事を上下でしか見ることができない。
「せっかくの夜食会なんだ。そういがみ合わず楽しんでくれ。では、そろそろ私は部屋に戻るとするよ」
教祖に倣って、ウエイトレスなど教祖に従事していた信者たちも退出して行き、立ち替わるように絵蓮が部屋に入って来た。手に何かを持っている。
「これ、荒木さんが飲みたがっていたお酒です。入手しておきました」
絵蓮は荒木に向けて、瓶を見せつけた。
「気が利くじゃないか」
絵蓮が棚に近づいて、グラスを一つ手に取った。
「このお酒は荒木さん専用なので、申し訳ありませんが、他の方々にはお出しすることができません」
絵蓮は軽く会釈した。今この場で酒に酔いたい人なんているわけがない。好きにすれば良い。だけどアルコールは理性を失わせる。絵蓮は荒木を落ち着かせるつもりでいるのかもしれないが、逆効果になりはしないか。素行不良の荒木が更に暴走するなんて考えたくもない。
「あっ、今あいつ……」
絵蓮を凝視していた由香里が呟いた。声が小さくて全てを聞き取ることができなかった。隣にいる弥生と何やら話している。
お酒が注がれたグラスを手に持ち、絵蓮がテーブル席に近づいてきた。乱反射した光がグラスを怪しく輝かせている。
「そこの女に注いでもらいたかったんだがな」
咲良は咄嗟に視線を逸らした。荒木はぶつぶつと文句を言いながらも、グラスに口をつけて一気に飲み干した。
「二杯目もどうですか」
絵蓮は瓶を咲良の前に置いた。咲良に注がせるつもりだ。
「すみませんが、お願いできますか」
絵蓮に言われ、咲良が渋々頷いた。この状況では断ることはできない。
荒木が満足そうに笑みを浮かべている。どこまでも下衆な野郎だ。その笑みは好きな酒が飲める喜びからくるものではない。好みの女を自分の意のままに動かしているという優越感と支配欲からくる笑みだ。荒木は咲良が注ぐお酒を次々と飲み干していった。
「うめーな、さすがに名のある酒は違うな」
「荒木さん、どんどん飲んで下さい。さあ咲良さん、注いで」
絵蓮は荒木の背後から、咲良に目で合図を送った。これは何かありそうだ。由香里と弥生は絵蓮の意図に気づいたのか、呆れと感心が入り混じった目で絵蓮を見ている。
予想に反して荒木は上機嫌になっていった。自分がいかに教会に貢献しているか、教会にはなくてはならない存在なのかを説いている。滑稽なことに自分のことを天才か何かだと思っているようだ。誰も言ってくれないから、自分で言うしかないのだ。なんて哀れな奴なのだろうか。
話の内容がエスカレートしていく。しかし、どうも様子がおかしい。僕と咲良は顔を見合わせた。荒木が酩酊している。あの程度の酒量でこんなにも酔うものだろうか……。
「あの人、お酒が飲めないのですか」
咲良が弥生に聞いた。
「いや、あいつかなり強いよ」
「じゃあ、アルコール度数が高いお酒ってことですか」
「ううん。あのお酒はそこまで高くない」
弥生は視線で導いた。視線の先には絵蓮がいる。
「絵蓮がお酒に何か入れたのよ。たぶん薬だと思う」
荒木が部屋から出て行く時、椅子を蹴り上げた拍子にアレルギー薬が入った小袋を落としている。あの時に絵蓮は荒木を眠らせることを思いついたのだろうか。
突然の睡魔に襲われて、荒木が首をもたげ始めた。テーブルに触れそうになる直前で首を持ち上げ、そしてまた下げていくといった動作を繰り返している。眠りにつくのは時間の問題だ。
香流甘が答えを探すようにキョロキョロと目を動かしている。何が起きたのか、よく分かっていない。ついに荒木の上体が崩れ落ち、テーブルの上に倒れ込んだ。全員がこの事態を引き起こした絵蓮に注目する。
「心配するほどのことではないわ。ただ眠っただけよ。香流甘さんは部屋に戻って」
香流甘は腑に落ちないといった素振りを見せたが、促されるまま部屋を出て行った。
「この時間なら、まだ表玄関の扉は開くはずよ。早く行って。私の方から教祖には上手く説明しておくから」
そう言い残して、絵蓮が部屋を出て行った。
このチャンスを逃すわけにはいかない。僕らは階段を駆け降りた。玄関口に『人間愛』と大きな文字で書かれた額縁が掲げてある。この手の人たちが好んでやることだ。自分たちから、もっとも遠い位置にある言葉を掲げて悦に浸るのだ。