昼休みが始まった直後、席で伸びをする一坂へ日南隆二は声をかけた。
「あの、一坂さん」
「何ですか?」
と、彼女が視線を向け、日南は立ち上がりながら言う。
「この前、言ってましたよね。思い出ごと消してほしいっていう話」
「ああ」
一坂はピンときた顔をしてから笑った。
「忘れてください」
「え?」
戸惑う日南を置いて、一坂はがたっと席を立った。逃げるようにさっさと部屋を出て行き、日南は慌てて追いかける。
「あの、もしかしたら協力できるかもしれないんです!」
彼女は足を止めなかった。
「知人にアカシックレコードを解読できる人がいて、彼に頼めば見つけ出してもらえるかも!」
廊下の途中でふと一坂が立ち止まる。
「それ、本当ですか?」
たずねた彼女の顔は半ば泣き出しそうに見えた。
日南はすぐそばに立ち、はっきりと返す。
「ええ、消したい記憶について教えてもらえれば、きっと見つけ出せます。そうしたら管理部に持っていって、消去してもらえるように頼みましょう」
にこりと微笑する彼をしばらく見つめてから、一坂は不安そうに言った。
「馬鹿にしませんか?」
「いえいえ、しませんよ」
「もしも同情されてるなら、お断りします」
「ど、同情なんて……」
日南はギクッとして返答に惑ったが、彼女がそれだけ本気であることを悟って言い返す。
「ごめんなさい、たぶん最初は同情でした。俺にも消したい記憶は少なからずあるし、小説を書いていたことも忘れたかった。だから、一坂さんも同じような気持ちでいるのかもしれないって思ったら、どうしても気になっちゃって」
一坂がふと顔をそらす。
「でも、一坂さんが望んでいることは、たぶん俺よりもずっと重いものだと思うんです。だって思い出ごと消すって、よっぽどじゃないですか。どんなに嫌な記憶なのか、それが消えたらどれだけ気持ちが軽くなるのか。だから、その……」
言葉が続かなくなった日南へ、一坂は言った。
「私のこと、助けてくれようとしてるんですね」
日南ははっとして、背筋を伸ばしながら返した。
「はい、そういうことです!」
「ありがとうございます。助けが来るのが遅すぎるような気もするけど、信じてみようと思います」
泣き笑いの顔で彼女が言い、日南の胸が高鳴った。
「あ、ありがとうございます! よろしくお願いします!」
と、熱くなる頬を隠すように頭を下げると、一坂はくすくすと笑った。
「それはこっちの台詞です。よろしくお願いします、日南さん」
三十歳を過ぎてから恋愛に縁のなかった日南だが、無性に彼女を守りたい気持ちが芽生えていた。どうにかして彼女の心を救いたいと、本気で思った。
頭をそっと上げながら、日南は彼女の様子をうかがった。
「そ、それじゃあ」
「ええ。今日は一緒にお昼ご飯、食べましょう」
「はいっ」
日南は歩き出した彼女に歩調を合わせ、にぎわう食堂へ向かう。
夕食の後、日南梓は昨晩と同じように西園寺の部屋にいた。北野は考えるのに飽きたのか、左手の人差し指に着けた指輪を先ほどから退屈そうにながめている。
「そういやさ、日南」
ふと西園寺が口を開き、日南は横目に彼を見る。
「何だ?」
「燈実から聞いたんだけど、静さんや元夢さんとは、前の世界にいた時からの知り合いなんだって」
北野が宝石から視線を外して西園寺を見た。
「同じ世界から来たってこと?」
「うん、どうやらそうらしい。三人とも同じ組織に所属する仲間で、ここへ来たのもだいたい同じ時期だって言ってた」
同じ世界からほぼ同時期に――それはいったい、何を意味するのだろうか?
日南は考えを巡らしながら言語化しようと試みる。
「昨日は群像劇なんじゃないかっていう話だったよな。でも、燈実たちにも元になった物語がありそうだ。ということは、クロスオーバー作品か?」
「ありそう! でも、それなら消えた人たちも、何かしらの作品の登場人物だったってことだよね? その物語は残ってるのかな?」
北野の疑問に日南はうなる。
「ここで消えたというだけで、どこかにはあるのかもしれない。だが、殺人事件が起こった理由までは分からない」
「そうだよな。どうして殺されなくちゃいけないんだろう」
西園寺が沈んだ表情をし、北野も口を閉じる。
日南はため息をついてからたずねた。
「たぶん無理だと思うけど、ここで『最初の一行』を与えることはできないのか?」
北野は首を横へ振った。
「無理だよ。だってここはゆらいでないし、登場人物によって登場人物が殺されてる。『最初の一行』は物語を再生させるための呪文だから、ここでは何の効果も発揮しない」
「……くそ」
日南はたまらずに毒づいた。「幕開け人」の限界を見たような気がした。
翌朝は穏やかだった。新たな被害者はおらず、比較的落ち着いた状態で朝食をとることができた。
ひとまずほっとしたのも束の間、日南たち三人を除いて、全員が元夢のことを思い出せなくなっていた。遺体もまた食堂から消えていた。
「まるで最初からいなかったみたい」
皿洗いをしながら北野がつぶやき、カウンター席に座った日南も同意する。
「オレもそう思う。どいつもこいつも、いないことが自然だったみたいな顔をしてやがる」
「忘れたことは自覚できても、不自然だとか異常だとか、危機感みたいなものを感じてるようには見えないんだよね」
「こっちからしたら、違和感しかねぇのにな」
カフェの外では、また西園寺が燈実に魔法を教わっていた。まったく無邪気なものだ。
北野が皿洗いを終え、タオルで両手を拭く。それから棚を開けた。
「ここにある紅茶、いくつか持っていっていいかな?」
「部屋にか?」
「うん。フィーちゃん先生が、お湯をわかす道具をくれたの。だから部屋でも紅茶が飲めるから、カップと茶葉だけ
「……別にいいんじゃねぇの」
と、日南が返すまでもなく、北野は茶葉を物色し始めていた。
「あ、これアッサムだ。ダージリンもちょっともらおうかな」
どこか楽しげに袋を取り出しては匂いをかぐ彼女から視線を外し、日南はため息をつく。
蛹ヶ丘魔法学校は森に囲まれた広い敷地で、かつてはさまざまな世界から人がやってきていた。現地の人は彼らを歓迎し、親切にしていた。誰にでも魔法が使える世界だ。国同士の争いなどは存在したものの、近年は穏やかだった。
そう、穏やかな世界だったはずなのに、急に人が減り始めた。残りは七名、次に誰が殺されるかは分からない。西園寺の言うように、全滅して終わってしまうのかもしれない。
「どこまでが作者の想像で、どこからが異常なのか、はっきりするといいのにな」
日南はぼそりとつぶやいた。