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第18話

「もう思い出したくもないんですが、簡単に言えばそういうことです。運営するのやめたらって、フリー素材にしたらって……」

 日南隆二は黙って一坂を見つめた。

 千葉が静かな声で問いかける。

「主催者のあなたに対して、参加者が、ですか?」

「はい」

 肯定した一坂に、千葉は驚きを隠せない様子だった。

 事前にある程度話を聞いていた日南だが、あらためて聞くとまるで理解ができない事態だった。部外者ならまだしも、参加しておきながらというのが腑に落ちない。

「私、ショックで……それでも冷静に対処しようとして、ちゃんと注意したんです。そうしたら、何故か私が悪いみたいになって……」

 一坂は呼吸を整えるように息をつく。

「誰も助けてくれなかったんです。嫌になってしまって、企画そのものを閉じました」

 その一言は、彼女がどれだけ心を痛めたかを雄弁に物語っていた。

 助けが来るのが遅すぎると、昨日、一坂は言っていた。日南も本当にそう思う。この件に関して、一坂はきっとずっと孤独だったはずだ。

「それから私、創作ができなくなりました。鬱みたいになって、本当に辛くて、仕事も手につかない日々でした」

 テーブルに彼女の涙がぽとりと落ちる。

「だから、消したいんです。思い出ごと、全部……」

 千葉がキーボードをたたきながらため息をつく。

「そう思われるのも当然ですね。日南さんはどう思いましたか?」

 はっとして日南は苦虫を噛みつぶしたような顔で言う。

「ひどい話だと思う。たとえ企画でも、作った世界は一坂さんのものだ。それに参加しておきながら、失礼なことを言える神経が分からない」

「ええ、僕も同感です。無神経だし失礼だし、何より感謝や尊重の意思が見えない。誰も助けてくれなかったことも含めて、腹立たしくてたまりません」

 千葉もまた物語を愛する一人だ。日南はそれをありがたく思うと同時に、黙って涙を流す一坂へ視線を戻す。

「消しましょう、一坂さん。大丈夫です、きっと千葉くんが見つけ出してくれます」

 しかし一坂は首を振らなかった。泣き顔のまま顔を上げて日南へ言う。

「でも、私にはすごく、大事なものだったんです。とても気に入っていて、本当に大好きで……っ」

 日南は言葉を失った。かつての自分がそうであったように、彼女もまた未練を残している。

「でも、だからこそ辛くて……あんな、ひどいこと言われて……許せなくて」

 一坂は泣きながら悔しさをにじませた。

 単純に記憶を消せばいいという話でもなかった。一坂の抱える問題の根はもっと深いところにある。

 すると千葉が口を開いた。

「一坂さん、ここで全部吐き出しちゃいましょう。きっとこれまで、このことを誰にも話すことなく、ずっと胸に秘めてきたんじゃないですか?」

 一坂がはっとして、ぼろぼろと涙をこぼす。

「だって、誰も理解してくれない……私が悪いんだって、ずっとそう思って……」

 一坂の味方をしたい気持ちが先走った。

「それは違う。あなたは何も悪くないです」

 日南は無意識に口走っていた。言ってしまってからはっとしたが、一坂は変わらず涙を流すばかりだ。

「そうですよ、一坂さん。僕もあなたは何も悪くないと思います。悪いのは乗っ取ろうとした参加者であり、見て見ぬ振りをした人々です。あなたはただ、運が悪かっただけです」

 千葉もなぐさめるように言い、一坂が泣きじゃくりながら言う。

「でも、だって……私、どうしたらよかったの……」

 まだ彼女はあの日にいる。誰も助けてくれず、自分の愛した創作を直視できなくなったあの日に。何人もの人々に突き放されて、孤独になったあの日に。

「大丈夫です、俺たちは味方です。一坂さんの味方です」

 日南は彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、勇気が出なくてできなかった。ただ、彼女の涙が一秒でも早く止まるように願いながら、優しい声をかけ続けた。


 朝食の後、日南梓は森の中にいた。

「壁がある……」

 リエトが話していたように、森の外側に壁があった。はっきりと目に見えるわけではないが、触るとそれ以上先に行けないのが分かる。

 まるでパントマイムをするように、手探りで壁を確かめてから、日南は左右へ顔を向けた。

「どこかに切れ目でもあったんだろうか。だとしたら、オレたちが入ってこられたのも分かるんだが」

 依然として謎は多いが、日南たちが何故この世界に入って来られたのかだけでも解明したかった。

 日南は片手を壁に当てたまま、端を探して慎重に歩き始めた。


 千葉の住むマンションから出たところで、日南隆二は隣を歩く一坂へ言った。

「あの、よければこれから、どこか行きませんか?」

「え?」

 目を丸くしてこちらを見上げる彼女へ、日南は少し緊張しながら返す。

「あの、気分転換っていうか、このまま帰るのもなんかあれですし」

 一坂は視線を前へ戻してから言った。

「ありがとうございます。でも、そこまで気を遣ってもらわなくて結構です」

 と、歩く速度を少し上げる。

「別に気を遣ってるわけじゃ……ああ、いや、その」

 うまく思いを言葉にできない。日南は曲がりなりにも作家志望だったはずなのに、と苦く思いながら、洗いざらい言うしかないと覚悟した。

「すみません、一坂さん。正直に言うと、俺がもう少しあなたと一緒にいたいんです」

 思いきって告げると、一坂の足が止まる。

 日南は彼女の小さな背中を見つめながら言った。

「このまま別れたら後味が悪いですし、たぶん、一坂さんも嫌な思いを抱えたままになっちゃうと思うんです。だから、もう少しだけ一緒にいさせてください。お願いします!」

 と、頭を下げる。

 日南は自分でも、自分が何を言っているのかよく分からなかった。ただ、やたらと心臓がドキドキして、妙に不安な思いが胸に渦巻いていた。

 一坂はゆっくりと振り返ると、呆れまじりに小さく笑った。

「もう、お願いされたら断れないじゃないですか」

「それじゃあ……っ」

 ぱっと頭を上げた日南へ彼女は穏やかに返す。

「ええ。どこかお店にでも入って、一緒にお昼ご飯、食べましょう」

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