二人の間に細い糸のような緊張が張り詰める。少しでも触れてしまえば壊れてしまいそうな
息をするのさえためらわれるような空気の中、日南たちは土屋と北野のやりとりをじっと見守っていた。
北野は困惑した表情で、恐る恐るといった風に首をかしげる。
「ご、ごめんなさい……分からない」
土屋の目付きが一段と鋭くなった。苛立った様子で彼女は北野を問い詰める。
「覚えてないのに、北野響を名乗ってるの? いったいどういうつもり?」
日南たちにはまるで何が起きているのか分からなかった。しかし、田村と千葉もまた、状況を飲み込めていない様子だ。
北野は視線を落として深く息をつくと、覚悟を決めたように顔を上げた。土屋の鋭い視線を真正面から受け止め、堂々とした態度で言葉を返す。
「わたしは北野響。あなたが何を言いたいのかまったく分からないけど、それでもわたしは北野響なの」
と、手にした剣を強く握り直す。
土屋は呆れた風にため息をつき、腰に装着したホルスターから黒い拳銃を取り出した。
「もういいわ。今ここであなたを消して、現実世界へ戻ってから解析すれば、欲しい情報はすべて明らかになる」
銃口を北野へ向けた土屋へ、千葉が席を立ちながらたずねる。
「土屋さん、話はもう済みましたか?」
「ええ、さっさと消しちゃいましょう」
「分かりました」
千葉が立派な長弓をかまえ、先ほどの緊迫感が戻って来る。
日南はすかさず口を開いた。
「もうこの世界は壊れかけてるんだろ? お前たちがわざわざ消去する必要はないんじゃないか?」
返答したのは千葉だった。どこからか取り出した矢をつがえながら、冷静に言う。
「それはそうですが、作者からの強い希望なんです。自然に消えるのを待つのではなく、今この場で僕たちが消さなければなりません」
「偽者の正体を暴くためにもね」
と、土屋が引き金に指をかける。今度こそ戦闘が開始されようとしていた。
「くそ、どうする……?」
じりじりと後退し、彼らと距離を取りながら日南がつぶやく。同じように下がりながら二人は返した。
「戦うしかないよ」
「ああ、こっちには魔法だってあるんだ」
北野と西園寺に言われてはどうしようもない。日南がナイフを握る手に力を込めた直後、「幕引き人」が先制攻撃に出た。
「死ねぇ!」
田村が勢いよく鎌を振り上げながらテーブルへ跳び上がると同時に、千葉が矢を放ち、土屋が引き金を引く。
西園寺が魔法を使おうとするより早く、両者の間を強風が吹き抜けた。矢と弾丸が軌道をそらされ、田村がよろける。
「逃げろ!」
はっとして見ると、リエトが日南たちへ向けて叫んでいた。
「ここは俺たちに任せて逃げるんや!!」
日南の腕を北野がつかみ、すぐに扉へ向かって駆け出した。
「ありがとう!」
精一杯の声で返すと、日南の胸が途端に熱くなる。リエトたちを生んだ作者は、きっと彼らのように優しくて強い人なのだと感じた。
追いかけようとする田村に静が殴りかかり、イニャスの土魔法が千葉と土屋を襲う。
「くそ、虚構のくせに生意気な!」
田村の叫びを背後に聞きながら、日南たちは図書館から飛び出した。
定時後の食堂で日南隆二は一坂とともに、千葉から事の始終を聞いた。
店はすべて閉まっており、隅にある自動販売機が稼働しているばかりだ。昼間にはない静けさの中で、一坂は安堵したように微笑んだ。
「そういうことだったんですね。ありがとうございました」
頭を下げる彼女に千葉は「いえ」と、返してから視線をそらす。
「虚構記憶が自ら崩壊しようとするなんて、初めて目にしました。きちんと研究してみないと分かりませんが、もしかすると虚構の住人には、いくつか種類があるのかもしれません」
一坂の隣に座っていた日南は口を開く。
「犯人は作者の声を聞いた、って話したんだよな。でも、一坂さんの意図したことではなかった」
「ええ、もっとも興味深いのがそこなんです」
と、千葉が目付きを鋭くして返す。
「虚構の住人は作者の想像した範囲でしか動けないはずなのに、今回は住人自らの意思で動いていました。まるで現実世界の人間のように、です」
一坂は何も言わずにテーブルの一点を見つめる。
「でも、普通だったらありえない、考えられないことなんだよな?」
「もちろんです。悪意ある第三者の可能性も考えられましたが、介入された痕跡は現時点で発見されていません。虚構の住人が告白したように、自らの意思で行動し、他の住人を含む設定を書き換えた、と考えるしかない状況です」
千葉が困ったように息をつき、日南も口を閉じて少しばかり考えてみる。
物語の墓場にあったのは、作者にすら忘れ去られた虚構だった。そこに「幕開け人」が入ってきたことで、虚構の住人が意思を持ち「幕開け人」になった。
しかし、今回の蛹ヶ丘魔法学校に「幕開け人」はいたけれども、異変そのものには関与していない。あくまでも一坂の想像した虚構の中で、虚構の住人が意思を持った。考えてみると恐ろしい気がする。
ふいに千葉が「先ほど、種類があるのではないかと言いましたが」と、口を開いた。
「もしかすると一坂さんの想像力が豊かで、設定の細かな部分にまで、想像が行き届いていたのではないでしょうか?」
一坂は気づいた様子でまばたきをする。
「言われてみれば、けっこう細かく考える方でした」
「そうですよね。そうした想像力の豊かさが、虚構の住人に意思を持たせた可能性もあるのではないかと、僕は考えています」
一坂は言葉を失い、千葉は苦笑する。
「ですが、今の時代において、想像力の豊かさは邪魔になるだけですね。早くアカシックレコードの掃除を終えて、また誰もがクリエイティビティを自由に発揮できる時代が来るように、頑張りましょう」
一坂は何故かちらりと日南を見てから、にこりと笑みを返した。
「ええ、そうですね。私も記録課の一員として、できるかぎり頑張りたいと思います」