翌日、記録課のオフィスに一坂の姿があった。
「おはようございます」
と、日南隆二が元気よく声をかけると、彼女が顔を向けて微笑んだ。
「おはようございます、日南さん。昨日はごめんなさい」
「いえ、気にしないでください」
返しながら自分のデスクへ近づき、椅子を引いて腰を下ろす。始業にはまだ早いが、パソコンを起動させてから日南は気がついた。
「そういえば、課長がいませんね」
「ええ、まだ来てないみたいです」
と、一坂も少し不思議そうに返した。
いつもならもう出勤している頃だ。課長のデスクに長尾の姿がないと、どうも落ち着かない。
「何かあったんでしょうか」
「さあ」
自然と室内が沈黙し、数十秒ほど経ったところで扉が開いた。
「おはよう、二人とも」
長尾課長だ。
日南と一坂はそれぞれに「おはようございます」と、挨拶を返した。
いつもと変わりない様子でデスクへ向かいながら、課長が一坂へたずねる。
「体の方は大丈夫かい、りっちゃん」
「ええ、少し疲れがたまってたみたいで」
と、一坂は少し申し訳なさそうに返した。
「辛ければ早退してもいいからね」
「はい。ありがとうございます」
課長はにこりと笑ってウインクをし、席へ座った。
三人そろうのが久しぶりのような気がして、日南は無性にほっとした気分になる。やはり記録課はこうでなければ。
日並梓は枯れた大木の根本にそっと北野を寝かせた。また彼女が意識を失ってしまったのだ。
「ったく、どうなってんだよ……」
ぼやきながら彼女のそばに座り込む。
西園寺もその場に腰を下ろして息をついた。
「心配だな。これまで北野ちゃん、こんなことなかったのに」
「そうなんだよな」
突然倒れるようになった北野のことを、日南たちは心配せずにいられなかった。
日南は幹にもたれるようにして頭上を仰いだ。
「けど、原因が分からない」
「医者がいるわけでもないもんなぁ。延々荒野だし」
と、西園寺が見つめるのは先の見えない荒れた土地だ。
「なぁ、西園寺」
「何だ?」
「北野は現実世界の情報をどうやって入手してるんだろうな」
西園寺が黙って日南の方を見る。何も無い空を見上げたまま、日南は続けた。
「さっき目を覚ました後、オレたちの知らない情報を話してくれただろ? あれはきっと現実世界でのリアルタイムの情報だ。じゃあ、それをどうやって入手したのか、気にならないか?」
「うーん、言われてみれば……」
「現実世界の人間なら、現実世界へ戻るはずなんだ。つまり、一時的にここから消える。でも、北野はずっとここにいた」
「……何か引っかかるな」
と、西園寺は首をかしげる。
「ああ。オレの考えでは、おそらく北野は意識を失っている間に現実世界と、何らかの方法でコンタクトしてる」
「どうして? 現実世界の人なのにか?」
「たぶん、設定なんだ。北野は現実世界から来たという設定なだけで、おそらくオレたちと同じ」
西園寺が
「まさか」
日南はゆっくりと姿勢を戻し、真剣な目を彼へ向けた。
「蛹ヶ丘魔法学校でのこと、覚えてるか? あの時、現実世界から来た『幕引き人』の女性が言ってたよな。北野のことを偽物だって」
「偽物……」
「彼女と北野がどういう関係かは知らない。でも、偽物だと断じるだけの根拠があちらにはある。その根拠になるのが、想像された北野響だとしたら?」
西園寺が悟った様子でわずかに頬を引きつらせる。
「『幕引き人』の彼女を知っている、という設定がなければ、知らないことになる。でも、現実世界の北野ちゃんと彼女は知り合いで」
「そうだ。だからオレたちの知ってる北野は偽物で、現実世界にいるであろう北野響とは別なんだ。それが、北野が虚構であることを示す根拠になる」
言い終えてから日南は表情をゆがませ、うつむいた。膝を立てた足の間にうなだれ、両手で覆うようにして頭を抱える。
「くそ、何がどうなってやがる……」
信じていたことの一部が剥がれ落ち、整理しきれない感情に苛まれる。
西園寺は何も言わずに視線をそらした。
食堂で向かい合って昼食をとりながら、一坂は日南に話してくれた。
「気持ちが楽になったのはたしかなんです。でも、急にどっと疲れが出ちゃったというか、何でかすごく気持ちが沈んでしまって」
「それって、大丈夫ですか? たしか、前にも鬱になったことがあるって話でしたよね?」
心配になってたずねる日南へ一坂は笑う。
「いえ、鬱だと診断されたわけではないので。大丈夫です」
「そうですか? でも、本当に辛ければカウンセリングとか……あ、そういえばここにも設置されてましたよね」
終幕管理局には常勤のカウンセラーがおり、予約を取ればカウンセリングを受けることができる仕組みだ。
しかし一坂は腑に落ちないような顔をして言う。
「いえ、そこまでしなくても……本当に私は大丈夫なので」
そう言われてしまっては、日南もこれ以上強くは言えない。
「それならいいですが、一応、頭の中に入れておいてください。何が原因か分かりませんけど、俺にできることがあればいつでも協力しますし、遠慮なく頼ってください」
そう返した日南へ一坂は泣いたような顔で笑った。
「優しいんですね、日南さん」
少し前にも見たことがある表情だった。
彼女にとって、誰かを信じるにはその度に勇気がいる。裏を返せば、それだけ人に裏切られ続けてきたのだと日南は思う。
自分にも多少の苦労はあった。辛い経験だって何度もしてきた。しかし、だからこそ彼女に強く親近感と安心感を覚える。
日南は考えた末、正直に告げようと決めた。
「実は俺、すごく一坂さんのことが気になってるんです」
一坂が目を丸くした。
「本当に守りたいって、そばにいたいって思ってるんです」
そっと手にしたフォークを置いて、一坂がうつむく。
「でも、もし迷惑ならそう言ってください。俺、もうよけいなことしないので」
「……」
日南は黙って器を持ち上げると、少し冷たくなった牛丼を口の中へかきこんだ。
しばらく考えていた様子の一坂が、そっと顔を上げて日南を見つめる。
「あの、こんな私でよければ」
日南は一瞬動きを止めた後で盛大にむせた。
「あっ、すみません!」
申し訳なさそうに謝る彼女を片手で制しつつ、日南はどうにか平静を取り戻してグラスの水を飲み干した。なんとか息を整えて彼女へ言う。
「すみません、俺の方こそ……それで、えっと」
「あ、はい。こんな私でよければ、よろしくお願いします」
顔を赤くして一坂が小さく頭を下げ、日南も心臓を高鳴らせながら返した。
「ええ、こちらこそ」
二人の間に流れる空気が少しやわらかくなった気がした。