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第3話

 翌日、記録課のオフィスに一坂の姿があった。

「おはようございます」

 と、日南隆二が元気よく声をかけると、彼女が顔を向けて微笑んだ。

「おはようございます、日南さん。昨日はごめんなさい」

「いえ、気にしないでください」

 返しながら自分のデスクへ近づき、椅子を引いて腰を下ろす。始業にはまだ早いが、パソコンを起動させてから日南は気がついた。

「そういえば、課長がいませんね」

「ええ、まだ来てないみたいです」

 と、一坂も少し不思議そうに返した。

 いつもならもう出勤している頃だ。課長のデスクに長尾の姿がないと、どうも落ち着かない。

「何かあったんでしょうか」

「さあ」

 自然と室内が沈黙し、数十秒ほど経ったところで扉が開いた。

「おはよう、二人とも」

 長尾課長だ。

 日南と一坂はそれぞれに「おはようございます」と、挨拶を返した。

 いつもと変わりない様子でデスクへ向かいながら、課長が一坂へたずねる。

「体の方は大丈夫かい、りっちゃん」

「ええ、少し疲れがたまってたみたいで」

 と、一坂は少し申し訳なさそうに返した。

「辛ければ早退してもいいからね」

「はい。ありがとうございます」

 課長はにこりと笑ってウインクをし、席へ座った。

 三人そろうのが久しぶりのような気がして、日南は無性にほっとした気分になる。やはり記録課はこうでなければ。


 日並梓は枯れた大木の根本にそっと北野を寝かせた。また彼女が意識を失ってしまったのだ。

「ったく、どうなってんだよ……」

 ぼやきながら彼女のそばに座り込む。

 西園寺もその場に腰を下ろして息をついた。

「心配だな。これまで北野ちゃん、こんなことなかったのに」

「そうなんだよな」

 突然倒れるようになった北野のことを、日南たちは心配せずにいられなかった。

 日南は幹にもたれるようにして頭上を仰いだ。

「けど、原因が分からない」

「医者がいるわけでもないもんなぁ。延々荒野だし」

 と、西園寺が見つめるのは先の見えない荒れた土地だ。

「なぁ、西園寺」

「何だ?」

「北野は現実世界の情報をどうやって入手してるんだろうな」

 西園寺が黙って日南の方を見る。何も無い空を見上げたまま、日南は続けた。

「さっき目を覚ました後、オレたちの知らない情報を話してくれただろ? あれはきっと現実世界でのリアルタイムの情報だ。じゃあ、それをどうやって入手したのか、気にならないか?」

「うーん、言われてみれば……」

「現実世界の人間なら、現実世界へ戻るはずなんだ。つまり、一時的にここから消える。でも、北野はずっとここにいた」

「……何か引っかかるな」

 と、西園寺は首をかしげる。

「ああ。オレの考えでは、おそらく北野は意識を失っている間に現実世界と、何らかの方法でコンタクトしてる」

「どうして? 現実世界の人なのにか?」

「たぶん、設定なんだ。北野は現実世界から来たという設定なだけで、おそらくオレたちと同じ」

 西園寺が愕然がくぜんとして目を大きく見開く。

「まさか」

 日南はゆっくりと姿勢を戻し、真剣な目を彼へ向けた。

「蛹ヶ丘魔法学校でのこと、覚えてるか? あの時、現実世界から来た『幕引き人』の女性が言ってたよな。北野のことを偽物だって」

「偽物……」

「彼女と北野がどういう関係かは知らない。でも、偽物だと断じるだけの根拠があちらにはある。その根拠になるのが、想像された北野響だとしたら?」

 西園寺が悟った様子でわずかに頬を引きつらせる。

「『幕引き人』の彼女を知っている、という設定がなければ、知らないことになる。でも、現実世界の北野ちゃんと彼女は知り合いで」

「そうだ。だからオレたちの知ってる北野は偽物で、現実世界にいるであろう北野響とは別なんだ。それが、北野が虚構であることを示す根拠になる」

 言い終えてから日南は表情をゆがませ、うつむいた。膝を立てた足の間にうなだれ、両手で覆うようにして頭を抱える。

「くそ、何がどうなってやがる……」

 信じていたことの一部が剥がれ落ち、整理しきれない感情に苛まれる。

 西園寺は何も言わずに視線をそらした。


 食堂で向かい合って昼食をとりながら、一坂は日南に話してくれた。

「気持ちが楽になったのはたしかなんです。でも、急にどっと疲れが出ちゃったというか、何でかすごく気持ちが沈んでしまって」

「それって、大丈夫ですか? たしか、前にも鬱になったことがあるって話でしたよね?」

 心配になってたずねる日南へ一坂は笑う。

「いえ、鬱だと診断されたわけではないので。大丈夫です」

「そうですか? でも、本当に辛ければカウンセリングとか……あ、そういえばここにも設置されてましたよね」

 終幕管理局には常勤のカウンセラーがおり、予約を取ればカウンセリングを受けることができる仕組みだ。

 しかし一坂は腑に落ちないような顔をして言う。

「いえ、そこまでしなくても……本当に私は大丈夫なので」

 そう言われてしまっては、日南もこれ以上強くは言えない。

「それならいいですが、一応、頭の中に入れておいてください。何が原因か分かりませんけど、俺にできることがあればいつでも協力しますし、遠慮なく頼ってください」

 そう返した日南へ一坂は泣いたような顔で笑った。

「優しいんですね、日南さん」

 少し前にも見たことがある表情だった。

 彼女にとって、誰かを信じるにはその度に勇気がいる。裏を返せば、それだけ人に裏切られ続けてきたのだと日南は思う。

 自分にも多少の苦労はあった。辛い経験だって何度もしてきた。しかし、だからこそ彼女に強く親近感と安心感を覚える。

 日南は考えた末、正直に告げようと決めた。

「実は俺、すごく一坂さんのことが気になってるんです」

 一坂が目を丸くした。

「本当に守りたいって、そばにいたいって思ってるんです」

 そっと手にしたフォークを置いて、一坂がうつむく。

「でも、もし迷惑ならそう言ってください。俺、もうよけいなことしないので」

「……」

 日南は黙って器を持ち上げると、少し冷たくなった牛丼を口の中へかきこんだ。

 しばらく考えていた様子の一坂が、そっと顔を上げて日南を見つめる。

「あの、こんな私でよければ」

 日南は一瞬動きを止めた後で盛大にむせた。

「あっ、すみません!」

 申し訳なさそうに謝る彼女を片手で制しつつ、日南はどうにか平静を取り戻してグラスの水を飲み干した。なんとか息を整えて彼女へ言う。

「すみません、俺の方こそ……それで、えっと」

「あ、はい。こんな私でよければ、よろしくお願いします」

 顔を赤くして一坂が小さく頭を下げ、日南も心臓を高鳴らせながら返した。

「ええ、こちらこそ」

 二人の間に流れる空気が少しやわらかくなった気がした。

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