目を覚ました北野は思うところがあったらしく、日南梓から視線をそらして小さくつぶやいた。
「二回もやっちゃったら、もう隠しておけないよね……」
起き上がり、木の幹へ背中をもたれて息をつく。
日南と西園寺は黙って彼女が話し始めるのを待っていた。
「あのね……スパイの捜査、進んでるって。警察の方ではもう、だいたい絞り込めてるみたい。だから、そろそろ潮時かもしれないって」
たずねたい気持ちをこらえて日南は相槌を打つ。
「そうか」
「バレる前に終幕管理局を辞めた方がいいって提案してるけど、まだ答えはもらえてないみたい。でもね、後を継いでくれそうな人がいるんだって。二代目のスパイになってくれるかも。そうしたら、わたしたちはまだ活動を続けられる」
北野の話し方はこれまでと違い、自信の感じられない口調だった。
「けど、もうしばらく様子見。ここでわたしたちにできるのは、ひたすら落ち着ける場所を探すだけ」
しかし日南たちの空気を感じているのだろう、北野は立ち上がろうとしなかった。
日南は西園寺に軽く目配せをしてから口を開いた。
「今の情報、どうやって手に入れた?」
「……夢でね、教えてもらったの」
「眠っている間にってことか? お前は現実世界の人間なのに?」
日南の真剣な目を見返して北野は言う。
「騙すつもりはなかったの。でも、わたしは厳密に言うと現実世界の人間じゃない。そういう設定の、虚構の存在なの」
「やっぱりな」
と、日南が息をつくと彼女はきょとんとした。
「気づいてた?」
「ああ、そうなんじゃないかって西園寺と話してたんだ」
西園寺もため息をつき、言う。
「ちょっとショックだな。でも、それでどうやって現実世界の情報を?」
北野は座り直してから答えを返す。
「さっきも言ったように、夢の中でリンクするの。現実世界で起こっていることや、今後どういう風に行動したらいいかを相談して決めるんだ」
「誰と?」
すかさず日南が詮索すれば、北野はわずかに視線を泳がせる。
「……弟」
「弟? 現実世界の北野響じゃないのか?」
「ごめんなさい。本当に騙すつもりはなかったの。わたしは……現実世界での北野響は、もう死んでるの」
金曜日になると、一坂はまた仕事を休んだ。
「昨日は元気そうだったのに……」
心配になる日南隆二へ長尾課長がたずねる。
「仕事の後、りっちゃんと一緒にいたのかい?」
「ええ、一緒に映画を観に行ったんです。昔流行ったアニメで、二人とも好きだってことが分かったので」
「へぇ、映画デートか。仲良くやっているようだねぇ」
にやにやと笑う長尾を見て、日南ははっとした。まだ付き合っていることを課長には話していなかった。
「あ、いや、その……」
「ごまかさなくていいよ。二人ともお似合いだもの」
「そ、そうでしょうか」
お似合いだと言われると嬉しくて、日南は頬をじんわりと熱くしてしまう。
すると長尾は話を戻した。
「けど、それならなおさら心配だよねぇ。りっちゃんが短期間に何度も休むなんて初めてだし」
「……そうなんですか」
記録課の主任を務める彼女のことだ。きっとこれまで目立った欠勤もなく、真面目に仕事をしてきたのだろう。
長尾はデスクに頬杖をつき、彼女の席を見つめながら言った。
「まずかったのかもしれないなぁ」
「何がですか?」
日南が怪訝な顔で聞き返すと、長尾はちらりと視線を寄越しながら短く答える。
「物語を消したことだよ」
「えっ」
思わぬ答えにびっくりして肩を揺らした。
長尾は日南を粘着質なまなざしで見つめた。まるで心の奥まで観察されているようで、日南は居心地が悪くなる。
「隆二くん、君は律子ちゃんを助けたいと思うかい?」
唐突な質問に戸惑いつつも日南は返す。
「……は、はい」
「そのためなら秘密も守れる?」
日南は背筋を伸ばしてはっきりと返した。
「はい、守ります」
二人きりの記録課に静寂が訪れる。長尾は無言で手招きをした。
席を立ち、日南は彼の前まで移動する。
「記憶にはね、核があるんだ」
と、真剣な顔をして長尾がややひそめた声で言う。
「消去されてもそれだけは残っている。核は情報をぎゅっと圧縮したようなもので、量子だ。しかし核さえ取り戻せれば、記憶を復元することも可能だとされている」
「記憶の核……」
「律子ちゃんの物語の核も、きっとどこかにあるはずだ。それを見つけて復元できれば、彼女は元気になるかもしれない」
しかし、日南には腑に落ちなかった。
「本当に物語を失ったことが原因だと?」
「ああ、僕はそう思うね」
「前例か何か、あるんですか?」
長尾はふと微笑むように両目を細めた。
「あるよ。ただし、科学的な裏付けがあるような話じゃない。それでも、失くしたものを取り返すことで、安定することは確実だろうと考えている」
しかし、物語の消去は彼女自身が望んだことだ。それをなかったことにするのもどうだろうかと日南は思う。もしかすると、苦しい思いも同時に復元されてしまうのではないか。
迷った末に日南は言った。
「参考のために聞きますけど、その記憶の核を取り戻す方法っていうのは、あるんですか?」
長尾はにっこりと笑ってうなずいた。
「ああ、アカシックレコードを破裂させるんだ」
日南は驚くと同時に気持ちがしらけてしまった。
「ここ、終幕管理局ですよね?」
「そうだよ」
「どうしてそんな、不吉なことを言うんですか?」
元々長尾のことはよく分からない人だと思っていたが、ますます分からなくなってしまった。課長という立場にそぐわない言動をするのは知っていたものの、さすがに今回の発言は看過できない。
すると長尾は怖気づいたのか、「何でだろうねぇ」とはぐらかそうとした。
日南は目付きを鋭くして問い詰める。
「答えてください。秘密を守れるかどうか、というのと関係してるんじゃないですか?」
真剣な日南を見て、長尾は白状する気になったようだ。深々とため息をついてから言った。
「娘が世話になったんだよ、『幕開け人』の彼らにね」