夜も更けてきた午後八時、日南梓はダイニングで北野と夕食をとっていた。
「物語のことは虚構記憶とも呼ばれててね、いくつか種類があるんだ」
温かいスープを飲みながら北野が言う。
「誰もが知ってる有名な物語。書籍化されたけどそこまで有名ではない物語。書籍化されていないけれど、知ってる人が大勢いる物語。それと、作者にも忘れ去られた物語」
「それで、ここは?」
「書籍化されてないけれど知ってる人がいる物語、だと思う。というのも、ここはゴミ箱の十四番の端っこなんだ」
思わず日南は苦い顔になる。
「何日も歩き続けたような気がしたが、まだ抜けてなかったのか」
「うん。一度消されたけど、誰かがまた
「ヤツグとユイの物語、か」
と、日南は複雑な思いで口にする。
「調べた感じだとけっこうファンがいたみたい。二人の登場人物がミステリーについて話をしているだけなのにね」
少し皮肉っぽく北野が笑い、日南は手にしたビスケットをかじる。
「愛されてるんだな」
「うん……」
北野は伏し目がちにうなずき、日南は小さく「理不尽だ」とつぶやいた。
日南梓は作家としてはまだ新人で、デビュー作はあまり売れなかった。担当の編集者には評価してもらえていたが、世間とのずれは確実にあった。
「有名になれる作品はほんの一握りだ。大勢の人の目に触れても、評価されずに埋もれていく作品なんて数えきれないほどある。どんなにいい作品でも、見つけてくれる人がいなくちゃどうにもならねぇ」
北野は黙ってスープをすする。
口に入れたビスケットを飲み下してから日南は吐き捨てた。
「運だと言われればそれまでだけどよ、そんなもんで決められたくねぇよな」
「どの物語も平等に素晴らしいはずなのに、ね」
空になったスープ皿をテーブルへ置き、北野が日南へ微笑みかける。
「時間は有限だから、わたしがどれだけそう思っていても、結局わたしの目に入らない物語がたくさんある。すくおうとしても指の隙間からこぼれ落ちて、価値がないとみなされてしまうの」
人間である限り、みんな同じだ。物語は増えすぎた。だからこそアカシックレコードは破裂の危機を迎え、終幕管理局や「幕引き人」たちができたのだと日南は今になって理解した。
翌朝、日南隆二は始業前に長尾へ告げた。
「データ入力の自動化プログラム、完成しました」
「思ったよりも早かったねぇ」
と、長尾は少々驚いたように返し、日南は真剣な表情のまま言う。
「ええ、くわしい人に助けてもらったので」
「そうか。それで、問題なく動くんだろうね?」
長尾がにこりと笑ってたずねると、日南はうなずいた。
「もちろんです。人がやるよりも早いですし、補助AIが優秀なので、エラーが出ても自動修復してくれます」
「それならもう、人は必要ないね」
「ええ、タイマーを設定することも可能なので、誰もいなくても問題ありません」
「素晴らしい」
満足気に何度も首を振り、長尾は一枚のメモをポケットから取り出した。
「行っておいで」
「はい」
しっかりとメモを受け取って、日南は背筋をピンと伸ばし丁寧に頭を下げた。
「探偵っていうのはな、頭がいいだけじゃダメなんだ」
図書室に設置された椅子に座り、ヤツグが一席打っていた。
「知的で頭の回転がよく、天才的なひらめきをするのは前提条件であって、そこにプラスしてこそ個性が生まれる。それが魅力的な探偵ってもんだ」
「けど、それだとヤツグの好きな神津恭介はどうなるのさ?」
向かいでユイが首をかしげ、ヤツグはすぐに言い返す。
「ああ、作者の高木彬光も盛りすぎたと言ってたな。だが、その盛りすぎこそが個性だろう」
「現実味がないよ」
「それは……うーん」
腕組みをして考え込んでから、ヤツグは近くで聞いていた日南梓へ意見を求めた。
「アズサ、お前はどう思う?」
「そうだな。探偵にもいろいろあるが、何がどう魅力的かっていうのは、結局読者の好みだろう。安楽椅子探偵もいれば、現場に現れて隅から隅まで調べるようなやつもいる」
「僕はねぇ、どっちのタイプも好き」
にこにこと笑いながらユイが言い、ヤツグは呆れたように笑う。
「結局それじゃないか。ユイは何でも好きだって言う」
「だって好きなんだもの」
「やれやれ。で、アズサの推し探偵は?」
と、再び視線を向けてくる。
「うーん、やっぱり火村英生かな。っていうか、有栖川有栖が好きなんだよな」
そう言って笑う日南を見てヤツグがたずねた。
「新本格か。じゃあ、綾辻行人は?」
「ああ、館シリーズは全部読んだ」
ヤツグが感心したように首を振り、さらに日南へ問う。
「法月綸太郎は?」
「そっちも好きだ。あと我孫子武丸も」
「僕は岡嶋二人かなぁ」
ユイが口を挟み、日南はヤツグの椅子の背もたれへ肘を置く。
「井上夢人なら西園寺が好きだぜ」
「え、そうなの?」
目を丸くしてからユイはそわそわし始めた。
「だったら、さっそく話しに行っちゃおうかな?」
「ああ、きっと喜んで乗ってくれるぞ」
「分かった!」
ユイが席を立ち、いそいそと図書室から出て行く。
日南は空いた席へ腰かけ、ヤツグへ顔を向けながらにやりと笑った。
「あいつ、子どもみたいでおもしろいな」
ヤツグが目を細めてくすりと笑う。まるで保護者が愛おしそうに子どもを見る時のような、やわらかい表情だ。
「そうだろう? 可愛いから一緒にいて飽きない」
その言葉に日南は、彼らの間にある深い愛情と信頼を垣間見る。恋愛とは違う家族や兄弟のような関係に、少しだけ憧れを覚えた。
新東京エリア二区を縦断するバスの中、窓際の席で日南隆二は静かに目を閉じていた。
脳裏に浮かぶのは、もう消えたはずの「理不尽探偵」だ。当時の自分をそっくりそのまま自己投影し、少しだけ美化した存在だった。
小学生の頃にシャーロック・ホームズと出会い、中学生になってからはミステリー小説を読み漁った。特に日本の新本格にのめり込み、有栖川有栖や法月綸太郎らに感化され、自分もペンネームを主人公に与えた。
物語の中でさまざまな事件に遭遇させて、自分ならどうするか考え、文章に落とし込むのが楽しかった。しかし「理不尽探偵」は
公募に出しても一次通過すらできなかった。かといって、自分の作品の何がどうダメなのか、分からなくて迷走した。そのうちに嫌気が差して、物語の中にいる彼をまともに見ることができなくなった。
今となっては申し訳なかったと心から思う。もっとちゃんと向き合っていたら、きっとこんなことにはならなかった。