渡と東風谷が同時に「え?」と、動きを止めた。
二人の興味を惹くことができたのを感じ、日南隆二はさらに言う。
「『幕引き人』として現場仕事をしているだけでなく、終幕管理局のパソコンの仕様設計にも関わったらしくて、開発部から相談に乗ってほしいと言われるくらいの、いわゆる天才っていうやつで」
「天才!?」
東風谷が期待のまなざしでテーブルへ両手をつき、気づいた渡が彼をにらんだ。
「おい、純人」
「いやぁ、だって俺だけじゃ解読できっこないんだよ」
と、東風谷が情けない顔で笑う。
「やっと半分くらいは読めるようになったけど、いちいち時間がかかる。でも、その天才が協力してくれたら……」
日南は手応えを感じて、話を続けた。
「彼はアカシックレコードにおける専門的な知識を持っているし、とても知的好奇心の旺盛な人なんだ。犯人探しの時なんて、前から気になって事故のことを調べてたんだよ。俺が犯人のデバイスをハッキングした時だって、目をつぶってくれるくらいには
今度は渡がごくりとつばを飲んだ。
「料理が上手……」
「俺たち、この生活を始めてから、まともなもの食べてなかったな」
と、東風谷も言う。
しかし、渡は首を振らなかった。まだ迷っている様子だ。
どうしたものかと考えて日南は言う。
「実は、駅前の喫茶店で待っててもらってるんだけど……」
はっと渡は顔を上げ、東風谷を見た。東風谷が「ぜひ会いたい」と返し、渡も言った。
「会いに行きましょう。最終決定はそこでします」
窓際の席で電子ブックを開いていた千葉は、店の扉が開く音で顔を上げた。
入ってきたのは見知った顔だが、後ろに見たことのない青年を二人連れていた。千葉は少々怪訝に思いつつ、彼らが来るのを待った。
千葉のテーブルへやってくるなり、日南は二人を紹介した。
「君に会いたいって言うから連れてきたよ。北野くんと東風谷くんで、こっちは千葉くん」
互いに「どうも」と会釈をしたが、北野と東風谷には千葉を探るような雰囲気がある。会いたい、というのはそういうことだろう。
それにしても北野は虚構世界で見た北野響にそっくりだった。身長は少し違うようだが、中性的で整った顔立ちはまるで瓜二つである。
二人は隣のテーブルへ着き、三人の注文を済ませてから北野がにこやかに言った。
「日南さんからお話、聞かせてもらいました。すごい方なんですね」
千葉はとっさに愛想笑いを返した。
「ええ、アメリカの大学に通っていたもので、経験だけは豊富と言えます」
東風谷が小声で「
千葉は聞かなかったことにして無視し、北野もかまわずにたずねた。
「ちなみにご年齢は?」
「六月で二十四歳になりました」
「へぇ、それじゃあ僕たちと同学年ですね」
「ああ、そうなんですか。じゃあ、敬語はなしにしよう」
千葉の提案に北野は何も言わず、東風谷へ顔を向けた。そして声をひそめて話し合いを始める。
「オーラが全然違う。純人より圧倒的に使えそうだぞ」
「うん、俺も自分の存在意義失っちゃいそうでびくびくしてる」
「どうする? 仲間に入れるべき?」
「それは分からないけど……」
東風谷が視線をやったのは、千葉の手元に開いたままの電子ブックだ。
北野もそれを見るとたずねた。
「何の本を読んでいたのか、聞いてもいい?」
「ああ。森絵都の『カラフル』だ」
二人が小さく息を呑むのが分かった。
千葉は画面を操作して表紙を表示させる。
「一番好きなのはミステリーなんだけど、小説なら何でも読む。児童書や絵本なんかも、気になったら読むようにしてるんだ」
東風谷が北野の耳元に口を寄せ、そっと何かをささやいた。北野はうなずき、千葉へ言う。
「物語が好きなんですね」
夜の喫茶店に静寂が響いた。従業員が日南と東風谷の前にアイスコーヒーを、北野の前にアイスカフェラテを置き、去っていった。
北野の言葉を千葉は複雑な思いで受け止めていた。物語が好きなのはたしかだが、ただそれを肯定するのではなく、裏付けるエピソードを伝えるべきではないか。
静かに電子ブックを閉じると、一度日南を見てから口を開いた。
「実は日南さんと出会う前、仕事でとんでもないやらかしをしたことがある。消すべき物語を、消したくないと言って放棄したんだ」
北野たちは黙って話を聞いていた。
「その物語はシャーロック・ホームズのパスティーシュだった。原作者への愛と敬意にあふれた素晴らしい世界で、僕はその物語を読みたいと思ってしまったんだ」
千葉はあの時の自分を思い返して自嘲する。
「幸いなことに口頭注意だけで済んだけど、馬鹿なことをしたと思ってる。でも、あの物語を読みたかったという気持ちも、まだ心の奥に残ってるんだ」
胸にあるのは後悔だ。消すべきではなかった。消したくなかった。あの物語を千葉は、どうしても読みたかった。
北野はうつむくと、小さな声で言った。
「受け入れたいし信じたいけど、すぐに僕らの領域へ入れるわけにはいかない」
「……ああ、それでいいよ」
千葉は電子ブックから視線を北野へと移した。
「僕は君たちのやろうとしていることの、確実性を高めたいと考えている。研究者として、科学的に君たちをバックアップしたいんだ。それは僕のためにもなる」
すると東風谷がおそるおそる言った。
「あの、解読できるってマジ? よければ教えてもらいたいことがいくつもあるんだけど……」
千葉は彼に視線を向けてたずねた。
「変換表はないのか?」
「あるけど、英語だから分かりにくくて」
彼らの置かれた状況をそれとなく察して千葉は返した。
「それなら、日本語で書かれてるやつを送ろう。あと、自分用に解読のコツをまとめた文書もあるが、どうする?」
「いいの!? ガチ助かる! ありがとう、千葉くん!」
と、東風谷が感激のあまり大きな声を出し、日南がくすりと安心したように笑った。
千葉はさっそくデバイスを操作し始め、北野は頬杖をついて呆れた視線を東風谷へ向けるのだった。