じゃんけんで負けた日南隆二は、一人で三人分の昼食を買いに行くことになった。二人に頼まれた内容もしっかり頭に入れてある。
マンションの階段を下りて歩道へ出ると、穏やかな空気が流れていた。そう言えば今日は土曜日だったことを思い出し、日南は少々複雑な気分になる。
渡たちとつるむようになってから一日の充実度が変化した。終幕管理局での仕事は表向きだけで、日南にとって大事なのはその後の彼らとの時間だ。変わったことがなかったか互いに報告し、計画について話し合う。最近では具体的な計画が見えてきたため、適度な緊張感とやりがいを覚えていた。
コンビニの看板が五十メートルほど先に見えた頃、日南は思わぬ人物と遭遇した。
「あれ、日南さんじゃないっすか」
向かいから歩いてきたのは業務課の田村だ。
「田村くん、こんなところで何を?」
途端に緊張する日南だが、可能な限り平静を装って問いかけた。
田村はにこりと笑い、日南の前まで来ると足を止める。
「この辺りに猫がいるっていう噂なんです。迷子の猫かもしれないんで、たまにはボランティアもいいかなと」
「へ、へぇ……」
彼の口からボランティアなどという言葉が出てくるのは意外だった。
しかし、彼が見た目ほどに悪い人ではないことも知っている。日南はとりあえず話を合わせることにした。
「どんな猫なの?」
「成猫のサバトラです」
「うーん、サバトラか。俺は見たことないけど」
と、言ってしまってからはっとする。
しかし田村は千葉ほど察しがいいわけではないようだ。すぐに首を左右へ回し、声を上げた。
「あっ」
「えっ?」
思わずびくっと肩を上下させる日南へ、田村が近くの路地をさして言う。
「今、あそこに猫っぽいものが入ってった」
「マジで?」
日南はとっさに振り返った。右へ曲がった先に薄暗い路地があり、記憶がたしかなら、マンションの駐輪場の裏手に接していて行き止まりになっている。
「ちょっと見てきてくださいよ」
「えぇ……まあ、いいけど」
首をかしげながらも日南は路地に足を踏み入れた。日陰のためによく見えず、中腰になりながら動くものがないかと目を
「猫ちゃん、いるかー?」
と、薄闇へ向かって声をかけた直後だった。背後で何か異様な気配がし、はっとして後ろを向く。千葉が田村の右手をひねり上げていた。
「何しようとしてた、お前」
冷静ながらも低い声で千葉が言い、田村の手からひものようなものが地面へ落ちる。
「っ……離せよ!」
田村は苦しげな声を上げ抵抗を試みるが、千葉の腕力にはとうていかなわない。
「答えろ。今、日南さんに何をしようとしていた?」
その時になって日南は状況を理解した。田村はあのひもで日南を絞め殺そうとしていたのだ。
途端にぞっとして、目撃者のいない路地に誘い込まれていたことを知る。
日南はあまりのショックに言葉を失い、田村がわめき出す。
「だってあいつが! あいつがいるから、航太はオレから離れてったんだ! あいつさえいなければ!!」
「ちゃんとお前には話したはずだ」
「じゃあ、あいつと何やってんだよ!? あいつのせいなんだろ!? 全部、あいつが……っ」
「日南さんは関係ない。これは僕の意思でやっているんだ。勘違いするな」
千葉の目付きが一段と鋭さを増し、田村は怯えた顔で半歩後ずさる。
その様子を見て、千葉はようやく右手を解放した。外壁にぶつかった田村はその場にずるりと座り込み、千葉は無視してひもを拾い上げる。
それをしっかりと鞄の中へしまってから、呆然としている日南へ言った。
「大丈夫でしたか?」
「う、うん……」
なんとか返事をしたものの、日南はまだ恐怖から抜けきれていなかった。
「あいつの代わりに謝ります。申し訳ありませんでした」
「そんな……助けてくれたのは、千葉くんだし」
と、言ったところで日南は気づく。
「あれ? でも、今日は午後からこっちに来るって話だったよな?」
「ええ、先方の都合が悪くなったので予定がキャンセルになったんです。なので、早めにこちらへ来たのですが……そうして正解だったようですね」
言いながら千葉は、しゃがみこんで泣いている田村をちらりと見やる。
「……そうだね」
日南は苦い顔をした。
千葉がいなければ、今頃自分は殺されていただろう。そう考えると、先ほどまであったはずの食欲も失せてしまう。
重々しくため息をついてから、千葉は言った。
「とりあえず、あいつは帰らせます。その後であらためて――」
「やだ、帰らない」
小さな声が抵抗し、日南と千葉は同時に田村を振り返る。
「家に帰って頭を冷やせ。話ならあとでいくらでも聞いてやる」
「やだ。航太といる」
まるで駄々っ子のようだ。
千葉は困惑し、彼の前で片膝をついた。
「我慢してくれ。事が済んだら戻ると話したじゃないか」
「やだ、離れたくない」
田村が顔を上げ、懇願するように千葉を見る。
千葉は少し考えると、鞄からポケットティッシュを出して彼の顔を拭ってやった。
「楓、秘密は守れるよな?」
様子を見守っていた日南は目を瞠った。千葉が何をしようとしているのかは分かったが、真意までは読み取れない。
田村が小さくうなずき、千葉は言った。
「実はもう一人、パラサイトドリーマーが必要なんだ。楓にはその素質がある」
千葉から事情を聞いた渡と東風谷は、愕然として田村を見つめた。
「なんてことを……」
「犯罪者じゃん。響みたいにならなくてよかった」
東風谷のつぶやきに渡と日南がはっと息を呑み、それもそうだとうなずいた。
「で、何で連れてきたんですか? 警察に突き出すのが先では?」
と、渡は嫌悪感をあらわに千葉へ問う。
「申し訳ないが、楓は僕の彼氏なんだ。それだけは勘弁してほしい」
「身内だからって、それはさすがに」
と、東風谷も苦々しい顔をしたが、千葉は言う。
「状況から見れば、未遂にすらなっていないと思うんだ。それに楓はただ僕と離れたくないだけで、日南さんを殺そうとしたのはいわば逆恨みだ。だが、僕の目が届く範囲にいてもらえれば、害はないと思う」
渡たちは顔を見合わせた。首をひねり、腑に落ちない顔をする。
「もしも秘密を守れなければ、その時こそ警察に突き出すつもりだ。もちろん、僕とも二度と会うことはないだろう」