オラァ! お前ら、元気してるか!? 今日は俺が、日頃からムカついて仕方ねぇ、ある言葉についてブチかますから、しっかり耳かっぽじって聞けよな!
その言葉ってのは、そう、「自称」だ!
テメェらも聞いたことあんだろ? 「自称アーティスト」「自称インフルエンサー」「自称モデル」「自称意識高い系」…… ウゼェ! マジでウゼェんだよ、この枕詞! なんか知らねぇけど、この二文字が付くだけで、途端に胡散臭さマックス、中身ペラッペラな感じが漂ってくるのは俺だけか!?
「いやいや、謙遜して言ってるだけかもしれないじゃん?」とか「自分をそう定義してるだけなんだから、いいんじゃない?」とか、そういう甘っちょろい意見も聞こえてきそうだな。……甘いんだよ、お前ら! 全然わかってねぇ!
この「自称」って言葉の根っこにはな、「俺(私)、本当はそうじゃねぇかもしんねぇけど、そう名乗らせてくれや」っていう、なんかこう、セコくて、図々しくて、それでいて妙に弱々しい、ダッセェ根性が透けて見えんだよ! わかるか!? 周囲から認められてねぇ、実績もねぇ、でも肩書きだけは欲しい、みたいな浅ましさがプンプン臭ってくるだろうが!
大体な、「自称」しなきゃ名乗れねぇモンってのは、結局その程度なんだよ。本物はな、「自称」なんて付けなくても、周りが勝手に認めるんだわ。滲み出るオーラ、圧倒的な実力、疑いようのない存在感……そういうモンが、肩書きなんかより雄弁にそいつを物語るんだよ!
で、だ。こういう「自称」にまみれた現代社会に、俺はあえてコイツを叩きつけたい。そう、千数百年以上前の、ド直球な魂(ソウル)の叫びをな!
妹も我れも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる
いももあれも ひとつなれかも みかはなる ふたみのみちゆ わかれかねつる
どうだ、このパンチライン! これは『万葉集』に収録されてる、高市黒人(たけちのクロヒト)っていう、まあ奈良時代のイカした歌詠みのオッサンの歌だ。旅の途中で詠んだ「羈旅歌(きりょか)」ってやつで、愛知あたり(三河)の「二見」って場所で詠まれたって情報もある。ま、異伝(違う伝承)もあるらしいが、そんなこたぁどうでもいい。
重要なのは、この歌が持つ、一点の曇りもねぇ、ガチな感情の爆発力よ!
ちょっと読み解いてみようぜ。
「妹も我れも 一つなれかも」
お前(愛しい人)も俺も、まるで一つの存在みたいだな、マジで
どうよ、これ! 「自称・愛し合ってるカップル」じゃねぇんだぞ!? 「自称・運命共同体」でもねぇ! もうな、理屈じゃねぇんだよ。「なんか、俺らって一心同体じゃね?」って、魂のレベルで感じちまってるわけよ。疑いようもなく、ごちゃごちゃ説明する必要もなく、「一つ」なんだわ。ここに「自称」が入る隙なんて、ミジンコ一匹分もねぇだろうが!
現代風に言うなら、「俺とお前、マジでニコイチじゃね? 魂レベルで繋がってる感、ハンパねぇんだけど!」って感じか? いや、それでもまだ軽いな。クロヒトのこの言葉には、もっと重くて、切実で、どうしようもねぇ一体感が込められてる。
「三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる」
だからさ、ここ三河の、道が二つに分かれる場所で、どうしても別れるのが辛すぎるんだよ…!
「二見の道」。道が二股に分かれてる、文字通りの別れ道だ。当時の旅なんて、今みたいに新幹線や飛行機があるわけじゃねぇ。一度別れたら、次にいつ会えるかなんてわからねぇ。下手すりゃ、一生会えねぇかもしれねぇ。そんなリアルな別れの場面で、「俺たちは一つなんだから、別れるなんて無理ゲーすぎるだろ!」って、身を引き裂かれるような思いを、たった三十一文字(みそひともじ)に叩き込んでるわけだ。
どうだ? 感じるか? この歌に込められた、嘘偽りのない、本物の感情を。
クロヒトはここで「自称・悲しみに暮れる旅人」なんて言ってるか? 言ってねぇよな。
「自称・パートナーを深く愛する者」なんて名乗ってるか? 名乗ってねぇ。
「自称・離れがたい絆を持つ二人」なんて説明してるか? してねぇ!
彼はただ、己の内側から込み上げてくる、どうしようもない感情を、ありのままに言葉にしただけだ。その「ありのまま」が、千年以上の時を超えて、俺たちの胸を揺さぶるんだよ。これが「本物」の力だ!
考えてみろよ。もしこの歌が、「自称・恋人と一心同体の俺、この分岐点で自称・悲しみに打ちひしがれている」とかだったら、どうよ? ダサすぎて反吐が出んだろ! 感動もクソもねぇわ! 白けきって、そっ閉じ確定だろ!
「自称」ってのはな、結局、自分の中に確固たる「本物」がない奴が、それを誤魔化すために使う、安っぽいメッキなんだよ。実力不足を肩書きでカバーしようとする、姑息な手段だ。自分の存在意義を、他人にアピールしないと不安で仕方ないっていう、メンタルの弱さの現れでもある。
「私は自称〇〇です」って言ってる奴を見ると、俺はこう思うね。
「あー、コイツ、まだ本物じゃねぇんだな」って。
「自分で自分をそう言ってないと、心が保てねぇんだろうな」って。
「周りからの評価が欲しいけど、実力が追い付いてねぇから、とりあえず名乗っとけってか? ダッセェ!」って。
もちろん、中には本当に謙遜で使ってる殊勝な奴もいるかもしれねぇ。駆け出しで、まだ自信がないから、そう言ってるのかもしれねぇ。それはまあ、百歩譲って分からんでもない。だがな、問題は、その「自称」が免罪符みたいに使われてることだ。
「自称〇〇なんで、クオリティ低くても許してね?」
「自称だから、責任は取れませーん」
「自称なんで、批判されても『いや、自称なんでw』って逃げられまーす」
こういう、逃げ道としての「自称」が、マジで気に食わねぇ! やるなら、腹くくって「俺は〇〇だ!」って名乗れや! その看板に見合うだけの努力しろや! 実力磨けや! 文句言われようが、笑われようが、胸張って「これが俺だ!」って言えるようになれや!
「自称」ってのは、そういう覚悟から逃げてる奴の、甘ったれた自己弁護なんだよ。
クロヒトの歌に戻ろう。「妹も我れも 一つなれかも」。これは断言じゃなくて、「~なれかも」っていう推量、というか詠嘆に近い。だがな、ここには微塵の不安も、誤魔化しもない。確信に近い、魂からの実感なんだよ。「もしかしたら、俺たちは本当に一つなのかもしれない……いや、きっとそうだ!」っていう、揺るぎない想いが根底にある。
彼が感じているのは、「自称・一体感」なんかじゃない。あまりにも強烈で、疑いようのない繋がりなんだよ。だからこそ、別れが耐え難い。「別れかねつる」ってのは、「別れられない」んじゃなくて、「別れるのが、マジで、マジで辛くてできねぇ……!」っていう、苦悶に近い感情の吐露だ。これもまた、嘘偽りのない本音。
この歌には、テクニックとか、上手い言い回しとか、そういう小賢しいモンを超えた、剥き出しの「真実」がある。現代に蔓延る「自称」の薄っぺらさとは、対極にある存在だ。
じゃあ、俺たちはどうすりゃいいんだ?
まず、「自称」はやめろ! 今すぐやめろ!
もしお前が何かを目指してるなら、「俺は〇〇になる!」って、未来への決意を語れ!
もしお前がすでに何かを成し遂げたなら、堂々と「俺は〇〇だ!」って名乗れ! 実績がそれを裏付けてくれるはずだ。
もしお前がまだ何者でもないなら、「今はまだ何者でもねぇけど、見てろよ!」って、牙を剥け!
高市黒人のように、自分の内なる声に耳を澄ませろ。 自分が本当に感じていること、信じていること、譲れない想いを、誤魔化さずに見つめろ。
愛なら愛、憎しみなら憎しみ、喜びなら喜び、悲しみなら悲しみ……どんな感情であれ、それがお前の「本物」なら、胸を張れ。それを、こねくり回さず、ありのままに受け止めろ。場合によっちゃあ、それをストレートに表現しろ。
クロヒトの「ひとつなれかも」という感覚。これは、言葉で説明できるようなもんじゃねぇかもしれねぇ。でも、そういう理屈を超えた「確かなもの」を、人は持てるはずなんだ。それは、恋人との絆かもしれねぇし、仲間との友情かもしれねぇ。仕事への情熱かもしれねぇし、譲れない信念かもしれねぇ。
そういう「本物」は、「自称」する必要なんてねぇんだよ。それはお前の中に、どっしりと根を下ろしてるはずだから。
「自称」の代わりに、お前だけの「本物」を育てろ。時間をかけろ。汗をかけ。涙を流せ。歯を食いしばれ。そうやって育て上げたモンは、誰にも「自称」なんて言わせねぇ、お前の揺るぎない一部になる。
高市黒人は、旅の別れ道で、どうしようもなく込み上げる愛しさと、離れがたい想いを詠んだ。そこには一片の「自称」も入り込む余地のない、純度100%の感情があった。その歌は千年以上も生き残り、今も俺たちの心を打つ。
テメェらがSNSで垂れ流してる「自称キラキラ生活」や「自称意識高い発言」は、百年後、いや、十年後、いやいや、一年後だって残ってるか? 怪しいもんだぜ? 中身がなけりゃ、風化して忘れ去られるのがオチだ。
薄っぺらい「自称」に逃げるな。誤魔化すな。安住するな。
もっと腹の底から湧き上がる「本物」を大事にしろ。 高市黒人の魂(ソウル)を見習えとは言わねぇが、彼が歌に込めたような、剥き出しの真実と向き合え。
「妹も我れも 一つなれかも」
このレベルの繋がり、このレベルの確信を、お前は人生で感じたことがあるか? もしねぇなら、これから見つけろ。育てろ。
「三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる」
お前には、別れがこれほどまでに辛いと思えるような、かけがえのない存在がいるか? 大切なモンがあるか? 失いたくないと心の底から願うモンがあるか?
そういう「本物」こそが、お前を形作るんだよ。「自称〇〇」なんていう、借り物のハリボテじゃなくてな。
わかったか、コラァ!
今日から「自称」は禁止だ! テメェの看板は、テメェの実力と魂で勝ち取れ!
それができねぇうちは、黙って気合入れて努力しろ!
以上だ! 解散! ……と言いたいところだが、最後にこれだけは言っとく。俺? 俺は「自称」文筆家じゃねぇ。「自称」コラムニストでもねぇ。ただの、思ったことをブチまけねぇと気が済まねぇ、熱い魂(ソウル)持った……まあ、何者かはテメェらが勝手に決めやがれ! 俺は俺だ! それ以上でも、それ以下でもねぇ! じゃあな!