イオルク・ブラドナーの最後の一年半――。
それは人生の中で身につけた技術が、一番強く輝いた時だったのかもしれない。イオルクは最高の武器をアルスと一緒に造り、知り得る技術を確かに伝えた。全力で駆け抜け、好きなことに情熱を傾けた。だから、死ぬ時は、満足したような笑顔だった。
アルスは、イオルクの言葉を思い出す。胸に残るのは悲しいではなく、イオルクの言った通り寂しいだった。墓穴を掘り、イオルクを埋葬し、墓石を建てても悲しいではなく寂しいという気持ちは変わらない。最後の最後まで、昨日の晩まで一緒に居た。もう会えないという寂しさが胸に残る。
でも、五年間を一緒に過ごして残してくれた大切なものは、そんな負の感情だけではない。胸の一番奥と身につけた技術に熱いものが確かにある。イオルク・ブラドナーは、アルスの中に居る。だから、アルスは旅立つことに決めた。イオルク・ブラドナーが最後に示した道を……。
そして、全てが終わった時、自分の居場所を見つけようと誓う。
家の中を綺麗に掃除して、鍛冶場は、いつでも使えるようにシートを被せる。イオルクが背負っていた大きなリュックサックに、今度は自分の私物を一杯に詰め込み、アルスは五年間住んだ思い出の残る家にしっかりと鍵を掛けた。
「お爺ちゃん……、行ってくるね。世界を見てくるよ」
アルスは旅人の着る丈夫な麻の服に外套を羽織る。腰の後ろには、イオルクから貰ったダガーとロングダガー。そして、専用のベルトから、しっかりと固定された大剣が腰の左横から下がり、背中には大きなリュックサック。
五年間、イオルク・ブラドナーに鍛えられた少年――アルス・B・ブラドナー。今、旅立ちの時……。
イオルクの墓の前では、一厘の桃色の花が凛としてアルスを見送っていた。
…
思い出の詰まるノース・ドラゴンヘッド最東の山をアルスは下りる。この山を一人で下りるのは初めてだった。隣には、いつもイオルクが居た。
「話し掛ける相手も、話し掛けてくる相手も居ない……。一人がこんなに寂しいとは思わなかったな……」
アルスは上を見上げ、木々の隙間から零れる光に目を細める。
「あの時、僕は一人になったはずなのに、ずっと、お爺ちゃんが居てくれてたんだ……」
居なくなって初めて分かる。あの怖かった夜も、再び領主に向き合った時も、一緒に武器造りをした時も、ずっと、一緒に居てくれた。
それが鮮明に心に焼き付いている。いつも笑っていた。いつも楽しかった。
「そして、一人で生きていくための技術……」
働いて稼げるように鍛冶屋の技術を仕込まれた。一人で出掛けて襲われても、戦える技術を仕込まれた。
「基本、逃げの一手を貫くつもりだけど……」
両親が教えられなかった分だけ、しっかりと教えて貰った。
「一人だけど、一人じゃない気がしてきた」
アルスは、しっかりと前を見る。『少し男らしくなったかな?』と思いながら、アルスは、山を下り切った。
…
目の前には、舗装されていない砂利道。次の町に続く、アルスとイオルクが歩いて出来た道だ。真っ直ぐ続く長い道は、遥か先で太陽の熱で陽炎が揺れていた。
アルスは黙々と道を進む。三つ先の大きな町で、やらなければいけないことがある。養父であるイオルクの死を報告しなければいけない。そして、それが終われば、王都を目指さなければいけない。
「お爺ちゃんの家族に知らせないと。ドラゴンウィングに行って、クリスさんにも」
五年の間に連れられて出会った人々に、アルスには伝える義務があった。
歩きながら、アルスの頭には色々と思い浮かぶ。次の町もイオルクと関わりがある。ドラゴンチェストから移民して来た人達の町だ。
「一言、報告を入れるべきかな?」
アルスが誰に報告すべきかを考えて歩いていると、遥か先の陽炎に影が見え始める。
「何だろう? 人?」
向こうから誰か歩いてくる。徐々に距離が近づいてくると、しっかり人だと認識できる。そして、アルスの視線の先で人影は突然倒れた。
「ええっ⁉」
アルスは足を止めると、暫くしてハッと我に返る。そして、倒れた影に走り出した。
…
件の人物は幼い少女だった。前のめりに倒れ、綺麗な金髪が腰まで覆っている。姿は寝巻き。朝起きて、今、来ましたという感じである。
そして、その少女は、倒れた時に打ちつけたのだろう。アルスの目の前で、盛大にドクドクと血を流し続けている。
「ど、どうしよう⁉」
アルスは慌てて、辺りを見回す。しかし、今、頼れるのは自分だけだ。うつ伏せに倒れている少女を抱き起こすと、出血箇所を確認する。
少女の鼻から血が出ている。
「鼻血か……。額とかが割れてなくてよかった」
アルスは右手の小指を少女の鼻の中に突っ込むと、小指に集中して回復魔法を掛ける。
「初めて会った女の子の鼻に指を突っ込むって……」
少し悪いことをしたような気分になるが、今は仕方がない。やがて、血が止まると、ゆっくりと右手の小指を引き抜く。
「…………」
ここからなら、家に戻るよりも川の方が近い。アルスは汚れた右手の小指を立てて、少女に着かないように腕に抱いて立ち上がる。
「旅立って一時間もしないでトラブル発生……。お爺ちゃんのトラブルを呼び込む習性が伝染したのかな……」
アルスは道を外れ、森の中を真っ直ぐに突っ切って川を目指した。
…
リュックサックを降ろし、中から簡易毛布を取り出す。丁寧に折って枕を作ると、少女の頭の下にそっと差し込む。森の木陰は強い日差しを遮り、少女を強い日差しから守ってくれている。
次にアルスはリュックサックから鍋を取り出し、川に向かう。立てたままの右手の小指を川で洗い、清流の水を鍋に汲み上げ、少女の所まで戻る。リュックサックからタオルを取り出し、鍋の水に浸して強く絞ると、鼻血で汚れた少女の顔を丁寧に拭いてあげる。
「僕よりも、ずっと小さい子だなぁ。十歳ぐらいかな?」
イオルクと暮らしていたため、アルスは子供と疎遠になっていた。比較対象は自分の子供の頃だった。
「何処から来たんだろう?」
少女を上から下まで見て、アルスは疑問符を浮かべる。
「寝巻きだけ? 靴は……」
少女は、何も履いていない。アルスが少女の足を取ると、足の裏には血が見えた。
「石が刺さってる……。なんて無茶をするんだ」
アルスがそっと足に刺さる石を引き抜くと、少女は小さく声を漏らす。しかし、起きる気配はない。
目に見える石をゆっくりと全て取り除き、今度はタオルで足の裏を丁寧に拭く。そして、再度、目につく小石を取り除くことを数回繰り返したあと、回復魔法を掛ける。
「レベル1じゃ、治りが遅いなぁ」
それでも丁寧に傷が残らないように回復魔法を掛けていく。暫く回復魔法を掛けると、少女の足の裏を確認する。
「うん。綺麗に治った」
アルスは、そっと少女の足を置く。
「少しでも先に進みたかったんだけどな」
アルスは、少女のおでこをそっと撫でる。
「起きる気配はなさそうだ……」
アルスはタオルを鍋に入れ、再び川に向かった。
…
夕方――。
パチパチと焚き火の爆ぜる音で少女は目を覚まし、ゆっくりと起き上がる。
「っ!」
体中が痛い。何度も何度も転んだことを思い出す。きっと、この寝巻きの下は痣だらけだろう。
「目が覚めた?」
少女は、声の方に顔を向ける。
「綺麗な青い目なんだね。エルフみたいだ」
少女は少し怯えて辺りを見回し、自分に視線を戻して掛かっていた毛布に気付く。目の前の少年が掛けてくれたことに思い当たる。
「あの……」
「道の途中で倒れちゃったんだ。覚えてる?」
少女は小さく頷いた。
「よかった。頭を打って、記憶が飛んでるってこともないみたいだ。体は、大丈夫?」
「……少し痛い」
少女は体中が痛かったが、『少し』と嘘をついてしまった。
「ひょっとして、お腹?」
思わず頷くと、少年は笑ってみせる。
「本当は、ところどころ痛いんだね」
(……どうして、分かったんだろう?)
少女は、きょとんと少年を見詰める。
「僕も子供の頃、痛い時は、みんなお腹だったから。なかなか言えないんだよね。打ち身に僕の回復魔法はあまり効果がないから、薬草の湿布にしよう。正直に言える?」
少女は頷くと寝巻きを少し持ち上げて、脛と膝を指差した。
「僕、アルスっていうんだ。アルス・B・ブラドナー」
「アルス……」
「うん。君は?」
「……リース」
「リースだね」
アルスは薬草を煎じて即席の湿布を作り始める。そして、煎じ終わると薬草をガーゼの上に載せる。
「ちょっと、冷たいよ」
そっと、少女の指差した幹部に即席の湿布を貼り付ける。
「他は?」
「服の下……」
「それは、僕がしちゃダメだね。一つあれば足りるかな?」
リースが頷くと、アルスは湿布を一枚作る。
「後ろ向いてるから、自分で出来るよね?」
リースは頷くと、アルスから湿布を受け取った。アルスが後ろを向くと、寝巻きを捲り上げてお腹の左側に湿布を貼り付けた。
「少し質問していいかな?」
「うん」
リースは寝巻きを下ろす。
「どうして、倒れてたの?」
「どうして……?」
リースは頭の中に記憶が蘇ると、震えながら自分を抱きしめた。
「リース?」
返事のないリースに、アルスは振り返る。
「リース!」
アルスは、震えるリースの肩を揺する。
「ま、街が……! お父さんが……! お母さんが……!」
涙を流して嗚咽するリースの姿に、アルスは覚えがあった。
(この反応……。昔の僕にそっくりだ)
リースがフッと目を閉じて意識を失うと、アルスは倒れ込むリースを慌てて支えた。
「町で、何かあったんだ……」
アルスは嫌な予感がした。しかし、今は気を失ってしまったリースをそのままに出来ない。再びリースを横にして毛布を掛ける。
「お父さん……」
リースの手が必死に何かを求めて彷徨うと、アルスはリースの近くに座り直し、そっと左手を差し出す。リースはアルスの左手を握り締めて安心すると、静かな寝息を立て始めた。
「この子……。僕と同じなのかな……」
アルスは空いている右手で、焚き火に枯れ枝を放り込む。
「兎に角、明日だ」
今日は、このまま終わりを迎えようとしていた。アルスは座ったまま、目を閉じた。