人、であった。
その者、黒い、のっぺりした、影を立体にしたかのような質感。
しかして体つきから判断すれば、男である。
髭を生やした、老年の男である。
身の丈は
着流しに刀を帯び、丸太のように太い手足をした老人。
ざんばらの髭と髪が風もないのに流れるように揺れ、しかし立ち姿は一本の軸が地の底から通っているかのように揺らぎなく、同時に空から蜘蛛の糸で釣られているかのように軽やかであった。
その老人が腰の剣を抜き、構える。
なんの変哲もない中段正眼。
瞬間、生じた圧力は、幻ではあるまい。
千尋は思わず半歩下がっていた。……気圧される、という経験、実に久々である。
思わず笑ってしまう。
『塔』の最奥。
『
「……はは、なるほど、これは──
──前世の千尋である。
向かい合ってみれば、なるほどとんでもない圧力であった。
まず、大きい。そして、分厚い。さらに、隙がない。
向かい合った瞬間、体が警鐘を鳴らしている。
武術とは生存術でもある。その術を極めた千尋が、先ほどからずっと、『逃げる道』を探していた。本能が言っているのだ。『アレ』と向かい合うこと、すなわち死である、と。
千尋は……
「ミヤビ殿」
真横で立つミヤビに、声をかけた。
……ミヤビはどうにも、自失していたらしい。
武における『気で呑む』という技術。
向かい合った者を、その緊迫感、闘気のみで自失させる。
もちろんただの武人が凄んだところでそんなことは起こらない。積み上げた術理が、絶え間ない修練が、その果てに身に積み上がる『力』が、圧力となって向き合った者の呼吸と思考を止めるのだ。
「ミヤビ殿、そのまま構えずに聞いてくれ。構えた瞬間、アレが動き出す」
「……あれ、は、なん、ですか。この、『塔』の最上階は、わたくしほど強くなくとも突破できるはず。だというのに、アレは……アレは、あんなのに、勝てるわけが」
「落ち着け。恐らく、アレが出たのは俺のせいだ」
「……」
「……アレはまぁ、古今無双の剣豪……ははは……あるいは、剣神というヤツよ。向き合った瞬間、いや、向き合うまでもなく、敵対の意思を奪う。なるほど自然災害である。刀がひと振りなのが救いか。二刀を持たれては勝ち目がなかった」
「……勝つつもり、ですか?」
「一人では無理ゆえ、協力をお願いしたい」
「勝てるつもり、ですか?」
「これは俺の体験に基づく話なのだが……」
「……?」
「アレなる者、強壮無比。されど……肉は肉なり、骨は骨なり。すなわち──斬れば殺せる」
千尋にとってどちらがやりにくい相手かと言えば、
「確かに強いが、斬れば血が流れる。刃を入れれば刺さる。そういう、普通の人体しか持たぬ者よ。そう考えてみれば、随分と楽ではないか? 相手も己も、いい場所に一撃もらえば死ぬ勝負とは、なんと公平なことか」
千尋が今生で経験した戦い、基本的に『こちらは一撃で死ぬ。相手には最大の、相手の力を利用した一撃でないと通じない』というものであった。
それが今、目の前にいる敵は、『互いに一撃で死ぬ』といった性質の肉である。
しかも、だ。
「アレは恐らく、意思がない。戦いの技だけしかない、影のごとき者よ」
「それがなんですか」
「意思のこもった人間が、意思なき影に負ける道理はなかろう」
「根拠は」
「そういうものだぞ、人生は」
「…………ムカつく!」
ミヤビは叫び、
「……いいでしょう。やってあげます。千尋、足を引っ張らないように」
「気を付けよう。……色々戦術でも練ろうかと思ったが、自由にやった方がいいな。うむ。ミヤビ殿、嬉しいな」
「何が」
「あれなるは──意思なき影なれど、至上の『敵』に相違なし」
「ばーか、と言ってやります」
構える。
薙刀の切っ先が己を向いた瞬間、『影』は動き出す。
……ミヤビの視点で語れば、『いつの間にか、動いていた』になるだろう。
瞬きなど、断じてしていない。
だというのに、いつの間にか目の前にいるのだ。
ミヤビは背筋に走った悪寒に導かれるように、横へ倒れこむ。
ごろんと転がりながら不細工に回避をする。
地面が遮蔽物のない土であったことは救いだった。全身を土にまみれさせても転がってなんの痛みもなく、何かにぶつかって距離を思ったより離せないということもない。
だが、それでもまったく逃れられていなかった。
またいつ動いたかわからない動きでミヤビに追いすがった『影』は、すでにミヤビの胴のすぐ横まで剣を動かしている。
(この巨体で、この動きの静かさ……おかしい!)
妖術。
神力はまったく感じない。だというのに、相手が速すぎる。しかも、これだけ速いのに、動きになんの音も伴わない。静かすぎるのだ。
ゆえにこそ、ミヤビの視点では妖術としか思えない。
だがもちろん、断じて妖術などではない。
その静けさの理由、生みだした力をロスなくすべて速度に回すことができているから。
そして六尺の筋骨隆々の巨体が生み出す力というのは、すさまじいものである。
そのすさまじき力を止める『技』が、影の背後から。
影はミヤビへの横薙ぎを止め、腰をひねりつつ剣を引く。
胴を浅く薙いで血を流させながら、柄で背後から迫る者に対応する。
影の背後から迫る者、もちろん、千尋。
強烈な柄打ちがほとんど唐突に顔面へ飛んでくる。
だが、同じ技量を持つ者同士。動き出しの読めぬ特殊な動きとはいえ、千尋にはそれに対応が可能。
突き出される柄に軽く手を添えて力を流し、相手の体を崩そうと試みる。
だが簡単には崩れない。影の足腰は長年地に根を張り続けた神木のごとく安定している。
「千尋!」
ミヤビが叫びながら、薙刀を振る。
千尋が汗を浮かべながら、今までの殺し合いの中でさえ見せなかった真剣な顔で、柄による攻撃をさばいていく。
『影』は前後をミヤビと千尋に挟まれながら、前のミヤビには刃で、後ろの千尋には柄や肘を用いて応戦する。
ミヤビがその剛力で振るう薙刀は鎬を合わせて逃がし、ミヤビの体を崩して刃を突き入れようと油断なく狙う。
同時、後ろの千尋が絡みつき、絡めとるような動きで『影』の体勢を崩そうとするのを防ぎながら、肘や柄で致命的な一撃を加えようとする。
凄まじいのはこの『影』、ひと振りの刀で前後のミヤビと千尋に対応しているところであった。
単純な身体性能はもちろん高い。だが、それ以上に、身体運用がすさまじく、さらに、空から己とその周囲を見下ろすがごとく、背後へ対する動きまでもが正確無比。
ただ一人、ただ一つの刀しか持たぬ相手に、前後から挟み撃ちをして、その防御を抜けない。
それどころか、流され、崩され、危うく両断される場面さえ増え始める。
ミヤビが歯を食いしばり、後退する。
狙いに気付いた千尋が横に避けると同時、ミヤビが薙刀を強く振るった。
薙刀から、光の
空飛ぶ巨大な四つ足の化け物をも一刀両断した光の刃である。
それが『影』にぶつかる──直前。
『影』が両脚を揃えるように立ち、手にした剣を下から上へ、動かした。
その瞬間、千尋は驚愕する。
(まさか、神力の刃を相手にも、『それ』を使えるのか!?)
『それ』。
流派形成にあたって、さまざまな技術に名前をつける必要性が生じた。
その時に特有の技法についてはあらかた名前をつけたものの、どうにも名付けが難しい技がいくつかあった。
なぜ難しかったかと言えば、それら技法はあらゆる神髄、あらゆる技法を包括的に含むものであり、含む技法の名すべてをつなげるのでは長すぎるからだ。
それゆえに、あらゆる神髄・技法を包括的に含む技法──
いわゆる『奥義』には、その象形から名前をつけるしかなかった。
その技法。
刀を下から上へと、動かす際、切っ先が描く
──半月。
何もわからぬ者が見れば、ただ『刀を振り上げてから袈裟懸けを放つ』というだけの技。
しかし身体運用と技法の詰まったこの技、その最も重要な点は、後ろ足を下げながら斬るところにある。
この技の使い道──
前から進んでくる者を、その者の進む勢いまで利用し、下がりながら斬るといったものである。
刀と光の刃が激突する。
金属同士がぶつかった、というより数段甲高い音が響く。
ミヤビの放った光の刃が砕かれ、消え失せていく。
「な──」
ミヤビの驚いた顔、を見ている暇さえ、千尋にはない。
半月は
ようするに、『斬ると同時に後ろに一歩踏み込む』技。
半月によって前方から突っ込んでくる敵を一撃で斬り伏せ……
その後、背後にいる者へ、半月の退歩の踏み込みを利用し、攻撃を加える。
予備動作である下から上へ振り上げる際も、体の右側で半月を描くように切っ先を動かす。
その後、前の敵を斬り伏せてから背後の敵をそのまま斬る際にもまた、切っ先で地面を撫でるような半月を描く。
ゆえに必然、千尋に迫るのは、下から上へと向かう斬り上げである。
なおかつこの技、二連撃ではない。
前の敵を唐竹割にする勢いのまま、後ろの敵に
その速度、まさか光の刃への応手として使うとは思っていなかったこともあり、完全に──
千尋の回避を凌駕する。
肉が斬れる。
血が舞う。
剛剣が千尋の肉体を引き裂き──
「千尋ぉ!」
ミヤビの悲鳴が、響き渡った。