ようするに、
戦いを求めていた。命の比べ合いを切望していた。
それがゆえに『敵』を求めた。魂と魂がぶつかり合う時に散る火花を求めていた。
だが、『敵』などいなかった。
最強であった。
無敵であった。
死して仏になる剣客は数あれど、生きて神になる剣客など、千尋を除いて他にいなかった。
ゆえに、前世の千尋は、このように妄想したのだ。
『もし、俺自身が敵として現れたならば、どうするか?』
千尋が流派を興す際に、奥義と定めた七つの技法。
もしも自分自身との戦いの中で、その奥義を使われたら、いったいどのように対応するかを考え続けた。
だが答えは出なかった。
千尋は座りながらうんうん唸っていれば技が閃く方ではないのだ。
千尋が流派を興す際に整理した技は、すべて実戦の中で編み出されたものである。
……だが、悩む時間も、考える時間も。
もうわからん! と腐って、投げ出して、逃避する時間でさえも。
無駄な時間など、なかった。
人が人として生き、人として悩む時間に、一秒たりとも『無駄』はない。
積み上げたそういう時間は、過ごしているうちにはなんの意味もなく、ただただ浪費しているだけにしか思えない。
……けれど、いざ、実戦で、命が絶たれそうになった時。
それまで悩んだ時間が凝縮し、一粒の輝かしい宝となる。
──半月。
千尋の脳裏によぎるのは、
現在の千尋では対応不可能な超剛剣。
それに応じたのは、体が頑強であった時には考えもしなかった応手である。
千尋……
股から首まで裂かんと振るわれる剣を前に、
振り上げられる刃へと飛び乗った。
身体操作──
中国拳法で言うところの『
これを極めた者は、降り積もる雪の上を歩いても、足跡をまったく残さぬと言う。
とはいえ剣、それも峰ではなく刃を踏むのだ。前世の体では重すぎて足から真っ二つにされるがオチであろう。
しかし、今の千尋は、弱かった。
細く、脆く、軽かった。
大人が飛び降りたら骨折するような高さから、子供が飛び降りても平気というケースはままある。
それは体重が軽いからだ。
当時の自分ではできなくとも……
(今の俺ならば、
草履が斬られる。
足裏に刃を感じる。
このまま乗せていては斬られる。
ならば、どうするか?
(勇気を持って、踏み切る!)
千尋、刃により深く足を喰い込ませるかのように勢いをつけ、刃を踏んで、跳ぶ。
それから、宙で一回転。
体を回す勢いで、『影』の肩口へ刃を差し入れる。
肉が裂ける。
血が舞う。
千尋が、着地する。
「わっはっはっは。……ははははは!」
わけのわからない笑い声が喉奥から漏れて止まらない。
知っている。これは、致命の関を越えた歓喜を、体が勝手に発しているのだ。
すなわち、
「我、『死』を踏み越えたり!」
刃を踏んだ左足、かなりの血が流れている。
しかし歩ける。刃は深く食い込んだが、骨は無事。筋も無事。問題は出血と痛みであるが、この心躍る戦いだ。痛みは忘れ去られ、闘争心が血を止めるゆえ、問題はまったくない。
影の様子──
飛んで回って斬った勢いで、いつの間にか『影』を飛び越え、ミヤビの横まで飛んでいたらしい。
かなり距離が離れているところでこちらを振り返る『影』、左の鎖骨にいいのが入ったようで、左腕が利いていない。
千尋は、笑いが止まらない。
「おおい、おおい! なんだ、鎖骨が断たれた程度で、弱みを見せるのかよ! まったく、情けない限りだ! これだから『意思なき影』は! 貴様も男なら、意地と強がりはどうしたァ!?」
あれが自分なら、鎖骨を断たれても、意地と筋肉操作でなんでもないように振る舞って見せる。
戦いの最中に弱みを見せない。それは、兵法であると同時に、己に傷をつけた強者に対する礼儀であると考えているから。
「ミヤビ殿、行くぞォ!」
死の関を越えた高揚のまま、千尋は『影』に斬りかかる。
ミヤビから抗議らしき声が聞こえたが、構わず突っ込んでいく。
斬り合い──
「おいおい、おいおいおい! なんだその腑抜けた様は! まさか本当に左腕を使わんつもりか!?」
鎖骨が断たれた。
ならば、左腕は動かない。
意地で動かそうとすれば大変な後遺症が残る。
だが、それでも動かさねば、死ぬ。
そういう状況ならば千尋は、痛みも骨の分断も、神経の裂傷も、筋肉の断裂も、出血も気にしない。
肉体が壊れる恐怖に抗うのが意思の力であり、動けないから動かないのではなく、ここで動かさなければ先がなくなるならば動かすのが人の思考である。
影。
それは、技のみを宿しただけのモノ。
斬り合う。
右手一本のみでも、『影』は強壮であった。
だが、ミヤビと千尋の攻撃は波濤のごときものである。いかに剣神と言われる技術と肉体であろうとも、剣一本でさばき斬れるものではない。
傷が増える。
裂傷が増える。
だんだん、影が使える部位が減っていく。
(ああ、やはり、やはりだ! ──人を斬った返り血は、魂にこびりつく)
ゆえに。
千尋は、すっかり足さえ使わなくなった『影』の攻撃を打ち払い、
(肉体でも技術でも、ましてや手にした剣でもない。──俺の魂が望むゆえ、俺は、人を斬るのだ!)
『影』の真横を通り抜けるように、一閃。
それは『影』の胸の横、肋骨の隙間を通り抜けるようにして、心臓を斬り裂く。
千尋が振り返り、中段の構えで残身。
すでに千尋の身にも大小様々な傷が刻まれ、全身から血が流れていた。
特に深いものは足裏の傷と、脇腹、それから右前腕であろう。
だが、構えにはふらつきも震えもない。
残身する視線の先で……
『影』が、花吹雪が散っていくように、無数にわかれて、ひらひら、消える。
しばらく周囲警戒をしたのち、千尋は刀を納め……
ふらりと、倒れ込んだ。
「千尋!」
ミヤビが駆け寄ってくる。
千尋は片手を突き出して、止めた。
……そこからしばらく、呼吸を整える時間が必要であった。
ようやく、千尋は口を開く。
「治療は自分で行う。あまり他者の血に触れぬ方がいい。それで死んだ者を多く知っている」
「でも」
「お互いに、だ」
そこでようやく、ミヤビは自分もまた傷だらけ、血まみれであることに気付いた様子だった。
ミヤビはしばらく何か言いたげにしたあと、「ムカつく」と一言述べて、その場に座り込む。
「……人生で初めて、死ぬかと思いました。男の、しかも老人っぽいくせに、なんですかあの化け物」
「いやァ、あれはなぁ。うん、惜しい。今一つ、化け物には足らぬ」
「足りないわけあるか!」
「いいや、足らぬのだ。技があった。体があった。しかし、心が欠けていた。……実に惜しいなぁ。とはいえ」
千尋は胸を押さえる。
そこには、脈動する鼓動があった。
「心は、どうやらここにある。ならば、あの影に心がないのも、仕方なかろう。……なるほど。俺は生きているのだな」
いつ死んでもおかしくない戦いの果て、ここに生きている。
久方ぶりの充足感だ。
まだまだ、この世界では、このような充足感を味わうことができるのだろう。
何せ、この世界には、心ある、刃の通らぬ、女がたくさんいるのだから。
だから、千尋は、目を閉じ、手を合わせて、こう言った。
「天女よ、感謝申し上げる。この
心からの感謝を述べる、その少し離れた場所で……
ミヤビが、首をかしげていた。