急いだとはいえ時刻はすでに夕刻になっている。
赤々と燃え広がるような日の光を受けて居並ぶ『軍』──
千尋の予想をはるかに上回る数であった。
(いやはや。百名以上はいると思っていたが……これは下手すると、数千人規模の軍勢ではないか?)
この世界はそもそも人口が少ない。
その中でも天女教は最大の組織である。宗教的権威であり、なおかつ、各地の領主から年貢を取り立てる立場──と、天女であるミヤビが言っていた。
そういった性質を持つのだから当然、兵力はあるだろう。
しかし千尋の前世にいた一揆衆のような『その教えを信仰している農民が武装して集まり蜂起する』といった属性の兵力ではなく、『揃いの武装をして列を整え指揮官に従う軍勢』という兵力が、果たして全部で何名いるだろうか?
天女教という組織の巨大さを考えても、全部で一万にはのぼらなかろう。
だがここにいる軍勢、二千は超えているように見える。
千尋らの立ち位置から見えない場所まで考えれば三、四千はいそうだった。
大規模動員どころの騒ぎではない。全軍出陣と言えそうな有様である。
(ミヤビの差し金か? ……まぁ、あの潔癖さ、何か琴線に触れる行為を天野の里がしているならば、この出兵もありえるか。しかし、妙だな。ここまで兵を遣わすのであれば、本人が出てきそうなものだが)
天女教的に、天女というのは人前に姿を現さないものであるらしい。
が、それはそれとして、ミヤビならば、ここまでの大規模出兵を決意したのであれば、無理を言ってでも当人が先陣を切りそうなものである。
(ま、そのあたりの意図は終わってから分析すればよかろう。ともあれ──)
千尋は、軍を遠目に見たまま、背後の荒くれどもへ声をかける。
「怖気づいた者、引き返すならここが最後だぞ」
鼻で笑う声がする。
充分な返事であった。
「そうか。では──」
千尋が刀を抜く。
背後でも、次々、武器を抜く音がする。
「──突っ込めェ!」
千尋以下、七名の荒くれ、および
二千名に突撃。
馬鹿馬鹿しい人数差である。
いくら軍の警戒が天野の里を向いているとはいえ、二千名の前で九名は豆粒にも等しい。
十子もまた冷静ではなかったが、千尋の行動には違和感を覚えていた。
というのも、千尋は戦いを好むが、無謀な挑戦を好むようには思われないからだ。
強者へ挑むことに命を懸ける。そのことに迷いはなくとも、二千名を相手に九名で突っ込むことが『戦い』にもならないことぐらいは、もちろん理解しているはずだと、十子には思えてならない。
(『突っ切るだけ』なら勝算がある、っつー話か? それとも、あたしには想像もできない何か秘策がある? ……あるかもしれねぇな。けど……一番、この行動の動機としてありそうなのは……)
荒くれども。
……おそらくだが、隠密行動をしようと思えば、できたのだろうと思う。
敵は二千名である。天野の里は一方向を除いて森に囲まれた地だ。軍勢を広く展開できそうな場所はここだけであり、ぐるっと回りこめば森の方に抜けられる。
地形については十子の方がもちろん知っている。とはいえ、千尋はそういうところに目鼻が利く方であると思う。
それでも迷いなく突撃を選んだのは……
(荒くれどもが望む『戦い』がこうだったから、なんだろうな)
千尋は十子からすれば、わけのわからないところで博打をする。
だが、付き合いが長くなるにつれ、だんだん、基準みたいなものも、わかってきた。
千尋は、命を懸ける者の心に寄り添う。
非合理な比べ合いに付き合ったり、勝利ではなく勝負を志すような行動を選んだりと、それが敵であれ味方であれ──というかだいたいの場合は敵なのだが──命を懸ける者たちが、最大限に
ぐるっと回りこんで森に潜んで抜けることの方が、たやすいだろう。
だが、勢いに乗った破落戸どもが、それでは満足すまい。
ここは間違いなく、命を懸けるべきところではない。
だが、それでも千尋は、この危険な手段を選んだのだ。それが一番、気持ちよく命を懸けられるから──
……というように、十子は思っていたのだが。
(…………ん? なんか、これ……)
敵は強い。
武装も整っている。
指揮するための序列もきっと整備されているのだろう。
だが……
背後から斬りかかる千尋らに、対応できていない。
千尋が先頭を走り、『軍』の体勢を崩していく。
それに続く荒くれどもが、体勢の崩れた者を斬り、千尋に続く。
進路は軍の内部を掘り進むようなものであり、危険極まりない。四方八方から槍の穂先がこちらを狙っている。
狙っている、のだが。
突き出せない。
薙ぎ払えない。
……十子の千尋に対する分析は正しい。
一方で、千尋の方には、十子の知らない行動の合理性がある。
そもそも──
二千人の軍隊、たった九名の暴徒と戦う想定をしない。
もちろん相手が距離をとって包囲し、槍の穂先をこちらに突き付けるような場を用意されてしまえば、九名などあっけなくすりつぶされる豆粒である。
だが、列を成してどこかに注目を向ける軍勢の、列の中に入り込んで駆け抜ける。この動きを続ける限り、この九名、すりつぶされる豆粒ではなく、引っかかってなかなかとれない魚の小骨へと変わるのだ。
ゆえにこそ拙速が求められる。
九名の馬鹿がこっちに突っ込んで来ます、と準備されてしまえば勝てるわけがない。
だが、まだこちらを相手にする準備を整えていない相手を背後から襲い、軍隊が包囲している先へと突っ切ろうとする行為、愚かすぎて対処が難しい。
九名は二千名を倒すことはできなくとも、二千名の間を通り抜けることはできるのだ。
ゆえに千尋は先陣を切り、自分たちの進路にいる者の体勢を崩すことのみをする。七名の荒くれどもも、千尋を追いかけ、邪魔な者を斬るのみ──自制とか、戦術意図の理解とかではなかろう。ただただ単純に千尋の背を追いかけているだけ、結果的にそうなっているだけ……
千尋がそうするように誘導しているから、それに無意識に従っているだけ、である。
(……いや、怖ァ)
最後尾にいる十子、意図を察して身震いする。
何が一番怖いって、いくらそういう計算があったとして、『こうすればできるんで、実際に武装した二千名に突っ込んでみてください』と言われて実際にできる者、この世に一体何名いるというのか。
千尋は迷いなくやってのける。……剣客という生物はやはり、何かが壊れているのだ。
(それに続くあたしも、染まってんだろうなぁ)
こんな状態で走りながらあきれる余裕さえあるのだから、相当に染まっている。
『塔』での経験が役立っているのは大いにあるだろう。千尋についていけばとりあえず間違いない、というのが刷り込まれている。
「先頭が見えたぞ!」
千尋の声に、荒くれどもが沸き上がる。
ここまで進めば相手も『背後から何かが来ている』ことを察して構える。
だが、こちらは足を止めれば死ぬ。ゆえに、同士討ち覚悟の槍の穂先が来ても、腰の剣を抜いて斬りかかる者がいても、服を裂かれても皮膚をかすられても、肉を斬られても、とにかく止まらず進む。
(すげえな、なんだろう、この感覚。……本能的なモンかなぁ)
十子は刀鍛冶であり、侠客でもないし、剣客でもない。
だが、体を刃物がかすめて、血が流れても、痛みも恐怖も感じない。
それはきっと……
(男についてくってのが、なんかあたしらの根底に刻まれた『喜び』なのかもしれねぇな)
この世界において、男というのは、女を狂わす存在である。
発言、行動、そして、命。男の存在によって道を誤る者、誤っていた道を正す者の数は知れない。
現天女、ミヤビでさえも、その苛烈な行動方針の根底には『兄の死』がある。
加えて、
(千尋ってぇやつが、どうしようもなく、女たらしなんだよな)
迷っていた者の迷いを晴らし、弱い者を強くする。
敵味方問わず、千尋の言動で思い切った者は数多い。
そうして、千尋を追って走っているうちに──
軍を抜ける。
先頭を突破する。
その先に天野の里が見える。
あとは中まで走りこんで行けば、もはやそれは勝利であった。
……だが。
「
慈愛に満ちた、笑むような声が、千尋たちを出迎えた。
その声とともに目の前から唐突に軍勢が出現する。
本当に唐突であった。
今の今まで、確かにそこには何もなかった。
だというのに、湧くように、あるいは、唐突に焦点が合ったかのように、出現した。
穂先をそろえた
その軍勢の中央に立つ──
淫靡にはだけた巫女装束を着た、豊満な肢体の女。
瑞々しい唇が特徴的な、なんとも色香にあふれた顔立ちをした、波打つような紫の髪を持つその女は──
「はぁい、これより先は、わたくし、
巨大な、柄と刃が同じぐらいの長さの刀──
「──お尻ぺんぺん、してあげましょうねぇ」
ゆるいしゃべり方に見合わない剛剣を振り下ろし、大地を震動させる。
それはまぎれもなく絶大な
青田コヤネ。
千尋の見立てでは──この軍勢の指揮官に、違いなかった。