(まずい、止められた)
千尋以下九名、足が止まってしまっている。
何もなかった場所から唐突に軍勢が出現する──とはいえ、目の前の軍勢、二十名ほどしかいない。これまで二千名を通り抜けてきたことを思えば、戦って切り抜けられない数ではないはずである。
だが、
(
あの指揮官、恐らく全軍指揮官。用兵を知っている。
こちらの動きは早い段階でつかんでいたのだろう。
だが、慌てて二千名の軍に注意させるという愚を犯さず、こちらが先頭を抜けるまで待ち伏せていた。
おそらくあの二十名は精鋭。青田コヤネの意のままに動く近衛であろう。
そして、
(勢いの重要さを知っている)
勢いというのは戦局を有利にも不利にもする。
そして千尋らが駆け抜けることができていた理由、勢いである。
それを止められた。
唐突な登場。おそらくは、神力の特殊な用法によるものであろう。
そして巨大武器で地面を叩くという、一見なんの意味もない行動。……だが、『力を見せつける』ことは、少数の勢いを止めるのには極めて有効な手段である。大地を揺らし、割る、あの巨大な
軍勢が使うような槍にはあれぐらいのものもある。戦いというのは間合いである。弓の射程、
だが、個人の武器としては馬鹿の長さ。
そして、長巻なのだ。長巻というのは簡単に言えば『柄の長い刀』である。
三間槍をはじめ、槍というのはだいたい、『木か竹の柄の先に穂先を装着するもの』であり、金属部は先端だけ。それゆえに、長くともさほど重くない。
だが長巻は当然ながら刃物の長さの部分は金属であるゆえに重く、
そんな三メートル超の物体を振り回すなどと、正気の沙汰ではあるまい。
だが、青田コヤネはやってのけた。
これは『女だから』というだけでできることではないのだろう。千尋とともに戦った荒くれどもの反応が言っている。
青田コヤネ。
軍を隠しおく不可思議な神力の使い方に加え、肉体性能も、女の中で上澄み。
こういった時、千尋は舌なめずりをする。
コヤネは細めた瞳で千尋を見た後、視線を違う場所へ動かした。
その先は、
「あなたは
「……だったらなんだよ」
「天野の里には『男隠し』の罪があります。これはお尻ぺんぺんでは済まない罪ですが──過去、天女に認められたその鍛冶の腕をただ滅ぼしてしまうというのは、もったいないと思っておりますのよ?」
「……」
「ゆえに、天野の里の中でも腕利きの鍛冶師は、天女教への忠誠を誓い、その命じる刀だけを打つと約束することを条件に、助命してもいいと思っておりますの。素直に従ってくださると、わたくし、嬉しいなぁ、って思いますけれど?」
「返事はこうだ。『くたばれ』」
「では、悪いことを言う舌を落としてしまいましょうねぇ」
青田コヤネが長巻を構える。
そこに、千尋が飛び出した。
ぬるりと滑るような動作で、唐突にコヤネを間合いの内側に入れる。
問答無用で斬りかかれば、コヤネは長い柄で刃を受けようとする。
受けさせると同時に柄からコヤネへと力をかけ、相手の
これは人の反射を利用した『崩し』の技術である。力で返せるものではない。
だがコヤネ、これを力で踏みとどまる。
「ぬ、うっ!?」
たとえば合気道の見本などを見ると、『やられる側が自分から跳んでいる』と述べる者がいる。『だからこの技術はいんちきである』と。
ある意味で正しい。やられる側は確かに自分から跳び、自ら投げられるような行動をとっている場合もある。
ただしそれは、技術がいんちきだからではない。『跳ばなければ壊れるから、身を守るために跳んでいる』のだ。関節を利用して投げる技などは特にそうだが、踏みとどまると関節が破壊される。ゆえに『自ら跳ぶ』ことが故障を避けるための唯一の手段であり、合気道などの『受け手が自ら跳んでいるように見える技術』は、『自ら跳んで体勢を崩した姿を相手にさらす』か『跳ばずに関節を破壊される』かの二択を相手に迫る技法である。
千尋がこのたびしたのも、踏みとどまれば膝に力が加わり破壊される、そういう、相手を膝から崩れ落ちさせるような技であった。
それを、力で踏みとどまる。
(
技を凌駕する力。
間違いなくこの女、
「そぉれ」
柔らかい声。
だが、その時に千尋にかけられた力、熊のごとき、否、それ以上のものである。
柄で受けた千尋の刀を押す。
やったことはたったそれだけ。
だが、それだけのことに発生する力が大きすぎて、千尋、自ら三間も跳び、地面を転がって衝撃を殺さねばならないほどであった。
「久しぶりに崩されかけましたねぇ。悪い子」
コヤネの微笑は崩れない。
千尋の笑みが、深まっていく。
千尋は、その笑みのまま、そばにいる十子に向けて、ささやく。
「俺が引き付けてるうちに、里の中に逃げろ」
「……おい」
異論は聞かない、とばかりに千尋が再び、コヤネとの距離を詰める。
千尋の目論見は半ばまでは成功している。
こうして自分がコヤネに斬りかかってしまえば、その勝負が決しないうちは、周囲の者たちも傍観に徹するだろう、という目論見だ。
どうにも最近の天女教は『武』を重んずる組織である。
そしてこちらは九人、相手は二千人。
さらに大将を相手に一人で斬りかかる者がいるとくれば、『武人の誇り』として、この勝負が決着するまでは手出ししてこないだろうという分析である。
正しい分析であった。
そしてもう半分の目論見。
ここでコヤネを斬り捨ててしまえば、全軍瓦解とまではいかずとも、混乱を強いることが可能である、というものである。
が……
(ははは、まずい。実にまずいぞ)
千尋は内心で冷や汗を掻く。
相手の柄で剣を受けられ、押し返された。
それだけのことで、手の中の剣が軋んでいる。
折れる一歩手前だった。
折れるのを避けようと思うあまり、衝撃の殺し方も半端になってしまった。今の千尋は、全身を巨人に踏みつけにされたがごとき痛みを抱えている。
今すぐ寝転がって悶え転がりたい、そういう痛みだ。
すべての『攻撃』がそうだが、たとえば木材を拳で割る時など、木材を割れてしまえば、拳はさして痛くない。
痛いのは割れなかった時だ。『硬いものに思いきり叩きつけた衝撃』がそのまま己に返ってくる。
今、千尋は『刃を起点に相手の体を崩そうとかけた力』と、『相手の力』とが己に返ってきている状態であり……
(血反吐の一つも吐きそうだ)
青田コヤネ。
『力』である。
単純に、『力』なのだ。技を凌駕する、とてつもない、力、なのだ。
赤子がどれほど力を籠めようとも、鋼の壁を砕くことはできない。
千尋がコヤネに攻撃を通すことができないのもまた、そういうことである。
ゆえにやはり思考は、『コヤネの力をどうコヤネに返すか』に帰結する。
……のだが。
(さぁて)
相手との距離を調整し、攻撃を誘う。
コヤネの戦いは単純だった。誘いを前に迷うこともなく、長巻が薙ぎ払われる。
三メートル超のほぼすべてが金属でできた武器である。
それが風を引き裂きながらとてつもない速度で迫りくる。
そもそもにしてこの
今回のコヤネの速度も威力も、予想済み。知覚より前に計画として対応は完了している。
(刃を受け、体を回し、間合いを詰め、喉を突く)
千尋の不安は──
第一段階。
コヤネの長巻に刃を合わせる。
この衝撃を利用して体を加速させ、威力を相手にそのまま返す心算。
……だが。
すべての衝撃を十全に返せるわけではなく、当然ながら、速度差ゆえの、いくらかのロスが存在する。
そのロスを受け止めるのが、刀の刃になるわけだが……
コヤネの一撃。
千尋が吸収しきれなかった、割合としてはわずかな力のみで……
千尋の刀を砕くに至る。
(ああ、くそ、すまぬ十子殿。もたぬと思っていた。だが、うまくやればあるいは、とも思った。……下手を打った)
行動の起点である刀。それが砕けないことに、千尋は賭けていた。
だが、賭けに負けた。刀が砕かれればその後の動きも綺麗にはつながらない。巨大な刃が千尋の上半身を吹き飛ばす勢いで迫り……
唐突に、刃が引っ込められる。
刃を引いたコヤネが何をしているのかと言えば、それは、背後を柄で突くといった行動であった。
その『背後』にいる者、
コヤネの突き出した柄を、はだけた着物で巻き取るようにして逸らしつつ──
細い剣で、コヤネの背を突く。
千尋の位置からでは見えないが、場所は心臓。一撃で殺す突き。
しかし刺さらない。コヤネは胴当てをつけているようには見えない。巫女装束の内側に武装を隠しているわけでもなかろう。
神力だ。防御の意思を込めた神力で、刃を止める。
だが、その刃は、コヤネが警戒心を抱くぐらいには刺さったらしい。
コヤネが、千尋に背を向ける。
「あなたですか。本当に、悪い子」
うんざりしたような声。
その向こう側にいた者──
「そりゃあ、そうでしょう。博徒が『いい子』なわけがないよねぇ?」
聞き覚えのある声で応じるその者は──
「はぁい千尋くん。
賭博船・
千尋らにしてみればまったく想定していなかった、援軍の登場であった。