「
その声は
現状──
千尋の刀が砕かれ、あわや死ぬ寸前であった。
その状態で十子がもっとも気にするものはやはり、『沈丁花の登場』ではなく、『千尋の安否』なのであった。
千尋は知らず片膝をついていた姿勢から立ち上がり、十子に健在を示そうとした。
しかし、できなかった。がくりと膝が地に吸い寄せられる。……
膝から崩れ落ちた千尋。それを支えようとする十子。
それを背後においたまま、コヤネと沈丁花が言葉を交わしている。
「沈丁花、ですかぁ。今、初めて名前をうかがいましたわね」
「そりゃまあ、天女教の偉い人に名乗るほど立派な身分じゃないからねぇ」
「流れの博徒、沈丁花。百花繚乱で賭場を総ざらいにする勢いであったとうかがっております。……本当に、悪い子」
「あら、知られてたか。そいつは重畳。まさかそっちの耳に届くほどだったとは、博徒冥利に尽きるねぇ」
「……流れの博徒が力を貸す範疇を超えていると思いますが、どうでしょう? あなたは厄介ですから、今、この場所と縁を切れば、見逃して差し上げますよ?」
「はははは」
そこで沈丁花から上がった笑いは、聞く者の背筋を震わす、怒りを秘めたものであった。
「いやいや、いやいやいや。そいつはこういう意味だよ、天女教のお偉いさん。『お前は負ける。今なら賭け金を返してやるから、降りろ』ってね。そういうこと言いだすのはね、負けそうになってるヤツさ。それか……『親切』と『余計なお世話』の見わけもつかない、思い上がり者だよねぇ」
「……」
「だいたい、そんな情けをかけられちゃ、また別の賭場に顔を出すってのもできない。博徒としては廃業さ。乗れないねぇ」
「本当に、あなたがそこまで
「天女教じゃあ、博打で半に張ることを『入れ込む』って表現するのかな?」
「命が懸かっておりますよ?」
「それが?」
「……」
「博徒が博打に命張らないでどうするよ。それにね──賭けてる人が少ないほど、配当金は釣り上がるもんでね」
「なるほど。ようするに──わたくしには理解できないほど愚か、ということで?」
「理解できないことを認めてるのに、理解できない人のことを愚かと言っちゃうのは、やっぱり思い上がり者だよねぇ」
「後悔せずに死んでいけるというのは、とてもいいものだと思います」
「ありがとう。羨ましがってくれていいよぉ」
芯のないへらへらとした笑顔だが、沈丁花の心にはすでに、一本の筋が通っている様子であった。
博徒である。侠客である。渡世人でもある。見た目は軟派だが、生き様は硬派らしい。
……だが、彼女は剣客ではない。
コヤネと沈丁花の間で決戦の機運が高まっていき、二者の間に渦巻く、闘気としか呼べない熱、燃え上がらんばかりであった。
剣客であれば、『機』が合えば斬り合いが始まる。
だが、博徒はそうではないらしい。
「じゃ、そういうことで」
沈丁花──
踵を返して、逃走開始。
「………………はい?」
これにはコヤネも戸惑う。
何がしたかったんだあの女、という顔で周囲を見回せば……
いない。
今しがた戦っていた、神力の弱そうな女も、十子
これだけ全軍が見ている目の前で消え失せる、なんていうまねができるわけもない。
「……なるほど」
だが一瞬の呆けのあと、コヤネは何が起きたかを推察する。
軍の中に、連中の仲間が潜んでいたのだろう。
そいつらが、天女教の格好をして、二千人に突っ込んできた馬鹿九人を回収し、横の森へと抜けたのだ。
沈丁花という陽動を用いての隠形からの遁走。
意識が沈丁花に集中している中、自分たちと同じ装備をした者が、反逆者を取り押さえて連行する様子になど、誰もさしたる意識は割かないだろう。
……特に最近の天女教は尚武の気風が強く、一兵卒に至るまで強者としたせいか、兵の自任が『兵隊』より『武人』に依っている。
しかもこの大規模行軍、百年はなかったものである。
隙はあるのだ。この軍勢には。
ただし、その程度の隙で敗北するほど脆くはないが。
コヤネは、微笑む。
(……まあ、いいでしょう。天野の里襲撃はあくまでも、本番のための予行演習。こういった計算外を経験することで、我らはより強くなる。本番……)
その微笑みの中に、欲が混じる。
(天女、
欲を宿した女の顔は、花開くようにかぐわしかった。