船──
港街シルフィアには海からつながった無数の水路が走っているが、水賊が通れる水路となるとさほどの数はない。
この街で素早く移動しようと思えばそのあたりの水路に停まっている小舟を借りる(現代日本におけるタクシーのようなもの)という方法がとられるわけで、こういった小舟はどこの水路にもほぼ常駐している。
しかし現代日本の道路がそうであるように、シルフィアの街の水路にも狭い場所、広い場所がある。
そして水賊の乗る船というのはある程度の海戦にも耐えられる、白兵戦に備えてそこそこの人数を収容できるものであるので、大きな水路しか渡れないのだ。
もっとも、その『母船』から小舟を出して上陸することはかなりあるので、小舟であればどの水路でも入ることはできる。
しかし小舟の遅さ、そして『魔法』というものがあるアンダイン大陸で、丈夫でもない船に乗っている水賊が領主軍に見つかれば遠方から狙い撃ちされるので、隠密行動や潜入行動以外の、『我ら、水賊です!』という様子でどこかを襲いに行く時は、やはり広い水路しか使えないのである。
……というのが常識だが、もちろん、例外はある。
少数で、武装もそこそこで、遠方から狙撃されることを織り込み済みで──
強者のみを、狭い水路の先に送り届けるという場合。
通常『そんなことしてなんになる』と思われるこの行為を、覚悟と狙いがあって、リスクを呑んだうえで行う際には、水賊は小舟で移動することもあった。
ちょうど、今、この瞬間のように。
「……
そう語るのは、垂れた兎耳を備えた純白の女性、
乖離と並んで小舟に乗っている。小舟とはいえ女が船頭も含めて四、五人乗ることのできるものであるはずだが、アリエルも乖離も大柄な女なので、二人が乗るだけで船はその喫水線を縁に近くし、動きもなんとなく重々しくなってしまっている。
夜の闇の中に潜みながら水路を行くとはいえ、迫力があり、目立つ二人である。
ここに船頭がいれば縮こまって震えあがっていたであろうと思われるが、この船、乖離とアリエルの二人しか乗っていない。
船頭もいない。二人が漕いでいるわけでもない。
この船は今、アリエルの操る風によって、水の上を進んでいた。
襲撃のためだ。
どうしても小舟でしか入れない場所を、襲撃する
……水賊『テンペスト』の襲撃は、歴史上数ある水賊がしてきたような営利目的──ようするに食糧だとか金目の物だとか、男だとかを狙った風紀
この水賊には目的がある。それも、おおよそ水賊らしからぬ、目的が。
乖離は、アリエルの言葉に応じる。
「いや。あなたは、私に力を貸す気を起こさせた。それに──私自身の目的のためにも、あなたのそばでいろいろやるのがよかろうと、こう考えるわけだ」
『商人』。
テンペストの水賊らしからぬ装備の数々。食料や金品の奪取を目的としない襲撃を成り立たせる補給線。
そして『襲撃すべき地点』の指示──
それらをしている『後援者』は、どうにも、話を聞く限りにおいて、乖離が追っている『商人』らしいように思われた。
「……もっとも、その『私自身の目的』、すなわち『商人を殺す』というものを考えれば、あなたたちとは徹底的に敵対するべきではあるのだろうが」
「今からでも領主ラヴィニア・シルフの元へ参りますか?」
アリエルの微笑は暗闇の中でほのかに輝いて見えた。
それは彼女の胸元で、服の下に隠された『
アリエルという大柄な女性は、おのずから輝くような魅力を持った淑女なのだ。
乖離は顎を撫でた。
「アリエル殿、あなたの口から語られる『ラヴィニア・シルフ』というのは、あなたが打倒を願っている相手。つまり、この街の領主にしてアンダイン大陸三大公爵のうち一人で間違いないな?」
「ええ、そうですが?」
「それにしては、その名を呼ぶあなたの顔と声に、敵意がない。尊敬さえ、見える。……あなたにとって、ラヴィニアというのは、どういう人物なのだ?」
そこでアリエルは困ったような微笑を浮かべた。
しかし、周囲を少し探る様子を見せたあと、ため息とともに答えを吐き出す。
「……立派な領主だと思います。シルフ家というのは代々、当主自らが陣頭指揮をとり水賊と戦ってきただけあり、庶民との距離が近い。その中でも特に庶民寄りの価値観を持ち、人に愛される、勇猛果敢なる女性。風の精霊の寵愛を受けるすべての貴族が手本とすべきお方でしょう」
「思ったよりずいぶん評価が高いようだな。……その立派なお方のお膝元で、水賊などやっているのか」
「家の再興は当主一族の責務ですので」
アリエルの抱える事情──
それは、『家の再興』である。
王の乱心、と呼んでしまえる政治的急変のあおりを受けて
なるほど現政権を担う三大公爵家を立派だと認めつつ、これに復讐心を燃やしていても無理のない出自である。
しかし、乖離はこう思えてならないのだ。
「それは、あなたの願いではなかろう」
「……」
「あなたは必要性を認めておらず、やりたいと思ってもいないことに、命を懸けているように見える」
「これは恐らく、貴族ではない者にはわからぬ感覚なのだと思います」
「……『目的地』までしばらくあるか。可能であれば、拝聴したい。貴族の感覚で語るなら、あなたはどういった方法で、やりたくもないことに命を懸けられている?」
「そもそも、貴族というのは、特に当主は、
「……書物にもない表現だな」
「その存在は精霊のようなもの──つまり、下々に力を貸し、家人のために力をふるうのが当たり前。そして家人とは家に付くもの。それゆえに、家の再興は貴族としての責務なのです」
「責務、というだけで命を懸けられるものか?」
「表現が難しい問題ですね。……責務、というのは少し違った表現であったかもしれません。わたくしを突き動かすものは……『願い』です」
「願い?」
「……あなたに失礼を働いた者たちがおりましたね」
「ああ」
テンペストのアジトにおいて、乖離の力をあてこんだ言動をした者。
乖離という外部協力者が、神から自分のために遣わされたかのように受け止めていた者ども。
乖離という『人』を見ず、『自分たちは正しいことをしているので、神が見てくださっている』と確信するための依り代として、乖離を見ていた者ども──
アリエルは、乖離があまりに迷いなく『失礼を働いた』ことを肯定したためか、わずかに笑った。
「貴族というのは人々の願いによって存在しております。我らは、我らの意思で力を振るうのではなく、民の願いを叶えるべく力を振るうのが当たり前であり、我らの血肉、生活、そのすべては民の絞り出し、捧げた血で出来ているのです」
「……」
「であるから、家を失い、迷う民がいるならば、その願いを叶えるべく力を振るうのは当たり前なのですよ。これは『報恩』なのです」
「とはいえそれは、家の受けた恩だ。……あなたは見事な体つきだが、だいぶ若いな? あなた自身の受けた恩ではない」
「ですから貴族は『人間ではない』のです。『家』という脈々と続いたもの。その……端末。『家』の口であり、目であり、鼻であり、頭。それこそが貴族ですから。貴族に『個』はありません」
それは乖離も頭ではわかる。
だがそれでも、少女がその責務を背負い、自分自身にそう多くを与えてはくれていないであろう家というもののため、『そうするのが当たり前。報われるのが当たり前』と思っていそうな人たちのために、命と人生を懸けるというのは……
「……貴族の家で教育を受ければ、人間というのはそこまで立派になれるもの、なのかな」
「お褒めいただいた──と思ってよろしいのでしょうか?」
「半々だな。……我々のような者は、斬り合いそのものが目的であり、強者との戦いの中に楽しみを見出している。だが、あなたはそういった楽しみもなく、ただただ『家の化身』として命と人生を懸けている。……うむ、そうだな。『立派すぎて想像がつかない』というのが正直なところだ」
「……」
「だが、純粋だ」
乖離の隻眼が水路の先へ向く。
……そこはちょうど、二人が目指した目的地──襲撃予定地点である。
乖離は長刀を片手に、立ち上がる。
小舟がぎしっと揺れた。
「私が力を貸したくなる人だよ、あなたは」
「……ありがとうございます」
「これが貴人に仕えるということか」
一瞬目を閉じた乖離の中に浮かぶのは、ウズメ大陸の天女、ミヤビのことだった。
あの少女も力を貸したくなるようなところがあった。そして、あの少女のもとで力を振るうのは──打算と『権力者を敵に回さずに人斬りができる』という下心があったにせよ、心地よかった。
「アリエル、しばらくはあなたの刀になろう。……我が銘は『乖離』。あなたの行為が法や道義に反するとて、私は決してためらわない」
「……そこまで言わせてしまっては、『ありがとう』と述べるわけにもいきませんね」
立ち上がったアリエルの顔には、貴族の厳しさと、超然とした様子があった。
「
「承知した」
二人の女が小舟から飛び降りる。
この果てにあるのが混沌と破滅だと理解してなお、二人の女は止まらない。