『
そう呼ばれる存在がいる。
角のついたアンダイン人。
そもそもアンダイン人の女は獣の特徴をその身に備えた人間である。……だが、否、だからこそ、『ふわふわとした毛の生えた獣耳』『尻尾』という特徴を持つ大多数は、『角』という異物を生やした、自分たちに姿の近い、しかし、姿の違う者を受け入れられなかったのだろう。
角の生えたアンダイン人は、精霊伝承において、四大精霊によって滅された存在になぞらえて、こう呼ばれた。
『悪魔』。
それは『悪』である。それは『敵』である。それは、多くの人にとって、怒りを、憎悪をぶつけてもいい絶対悪。縛り付けて石を投げても誰からも咎められない人類の敵。
それになぞらえられて呼ばれた角付きの種族もまた、当時の王の決定と、それを歓迎した人々によって排斥され、一人残らず『浄化』されかけた。
だが、生きている。
生きて、先祖の復讐を──
「……ふふ」
──考えてなど、いない。
過去だの血筋だのといったものを、誰もが望んで背負うわけではない。
自分の不遇を血筋だの歴史だののせいにしたり、自分の幸運を出自だの家柄だののおかげにしたりという者はもちろんいる。
だが、自分に得をもたらさずただぶら下がるだけの者どもを『この歴史の上に立っているから』というだけの理由で背負えるような立派な者がほとんどいないように、『我が一族の恨み』というやつのために人生を捧げられるような、これもまた逆の意味で立派な者も、ほとんどいない。
『商人』の行動は、あくまでも利己的なもの。
自分の欲望を満たすためだけに行われるもの──
「ふふふ」
暗闇の中で、『商人』はほくそ笑む。
そこはぎし、ぎし、と揺れる暗闇だった。
よくよく耳を澄ませば、波音も聞こえるだろう。
そこは──
海を渡る、巨大な船の中だった。
「もうじき、ですねぇ」
暗闇の中で『商人』が撫でる木箱。
その中身に思いを馳せる。
彼女の『魔法』であれば、これだけの物量を『空間』に収納しておくことも可能だ。
そしてわざわざ船になど乗らずに、一瞬で目的地にたどり着くこともできる。
だが、そうしない。なぜか?
それは、『演出』のためだった。
これから始まる最高のショウを、より鮮烈に人々の記憶に焼き付けるために、巨大な船での登場を企図している。
彼女が『商人』と名乗るのはその輸送能力ゆえだ。……シルフ家当主ラヴィニアが看破したように、この『商人』は『商人』でありながら、利益を度外視する。ただ、このアンダイン大陸にも、隣のウズメ大陸にも、『多くのものを運送する人』を指すにもっともふさわしい言葉が『商人』しかない。だから彼女は自らを『商人』と定義しているに過ぎない。
だが、そう己を定義し、あらゆるところで『商人』と呼ばれるうちに、どうにも商人としての自覚みたいなものが芽生えてきたようだと彼女は感じている。
「人を変えるのは人からの扱い、ですねぇ。ワタクシもどうやら、『商人』扱いがまんざらでもなかったようで。いやはや、いい勉強をさせていただきましたよ」
それは独り言のようでもあり、誰かに語り聞かせているようでもある。
暗闇の中に彼女以外の者がいるかどうかは、誰にもわからない。
「……で、あれば。『これら』も相応の扱いをしていただけるように、しっかりとアピールし、演出してあげなければなりませんね。ワタクシの自慢の商品。この世界の在り様、天女だの精霊だのという者らに撃ち込むべき、『銀の弾丸』」
銀の弾丸──
銃弾どころか銃さえその存在を広くは知られていない、というよりこの商人が扱うものしかないこの世界において、『銀の弾丸』などという表現は当然、存在しない。
銀の弾丸。
それは、銃弾がある世界において、狼男などの強大な者を殺しうる必殺武器。
悪魔、化け物、妖魔鬼神を撃ち滅ぼす、力なき者の必殺の一撃──
その弾丸を持つ間だけ、化け物と弱者とは、平等になれる。そういう夢のようなアイテムである。
「……待っていてくださいね。きっと、この世界を
『商人』は語りかけている。
だが、この暗闇の中には、誰もいないのだ。
話しかけている相手は、彼女の想像上にしか存在しない。
……思い出の中にしか、存在しない。
「誰もが夢を見られる世界を願って。……特別な才覚も、生まれも、すべて問われない。ただそれを手にしただけですべてが平等になる兵器。『砲火』が世界を震わす。その第一歩を、港街シルフィアから始めましょう」
彼女は男性と女性が平等になることを夢見ていた。
……だが、彼女は自覚できていない。
男も強くていいと述べながら、強い男を『あり得ない』と思う。
彼女の平等を志す気持ちは、男が弱いという絶対に動かせない前提ありきのものであり……
例外を認めないものである。
彼女は世界の男女の平等を願う。
失われた人の願いを叶えることを願う。
だからこそ、自分が何かをする前に、女と並ぶ男など、認められない。
自分の願いを叶えるのは、自分でなければならない。
『あの人』が努力不足だから夢を叶えられなかったという可能性など認められない。この世界はどうしようもなく男が弱くて女が強い。そういう間違った不平等を自分の兵器が塗り替える。
だから、
『商人』は、頬を撫でる。
そこには何もない。綺麗な肌があるのみだ。
だが、そこには、いまだに鋭い痛みがうずいている。
──
「……シルフィアから、始めるのです。そこが、初めて──『男女が並び立てる地』に、なるのです」
認めない。
天女教総本山にいた、あの男を認めない。
『商人』を乗せて船は進む。
その海路は穏やかだけれど、遠くの方には黒雲も見えた。