そのアジトたる入り江で、
船は大きすぎて入り江に停まることは出来ず、遠い洋上にある。
だが、それだけの距離があってもなお、大きい。大きいし──
(船の側面に何か、金属の筒のようなものがあるな。……『金属の筒』か)
……この世界における飛び道具は、女の
石なんかも、立派な武器になる。『弾丸のような速度』で飛ばすことができるからだ。
原始的──と言ってしまえばその通りなのかもしれない。
しかし、それで事足りるのだ。人類は、事足りるうちには新たな道具を開発しようとはしない。中には開発しようという者がいたとして、多くの者がその必要性を求めている状況でなければ、文化・文明として定着しない。
だから乖離は、知らなかった。
あの船の側面に並ぶ金属の筒──『火砲』について。
しかし、乖離はすでに、天女教総本山で、『攻撃を放つ金属の筒』について知っている。
そこからの予想はできる。……口径がかなり異なるので、威力もかなり異なるのだろうけれど、あの船の横に並ぶ金属の筒と、天女教総本山で自分たちを襲った、音と煙を発しながら金属
つまり──
(あの船に乗っているのか、『
距離を測る。
到達できるかを考える。
……不可能ではないだろう。
船を使うか、泳ぐか。泳いでたどり着くまでには迎撃があるだろう。そのうえでたどり着いたら、あの船の側面をよじ登って乗り込む必要があるだろう。
だが、自分ならできる。『乖離』であれば、斬って見せる。
……だが、その前に逃げられるだろう。
(『商人』を殺すためには、目立つ方法での接近はできない。背後から一撃で首を斬り落とす、暗殺が必要になる。あるいは──あの『転移』をどうにかしなければならない、か)
その上で、乖離はこう考える。
(この大陸で使われる『魔法』。その力を女たちに与えているとされる『精霊の遺骸』──そのうち一つ、『シルフの
乖離は、アリエルの目的を聞いている。
それがアンダイン大陸で暮らすすべての女にとって、大変な事件を引き起こすものであることも、知っている。
だが、アリエルの手伝いをやめることはない。
乖離は、腹部をさすった。
(
乖離は入り江の中で騒ぎ立てる老人たちを眺める。
巨大船が向こうに見えてから、大変なはしゃぎっぷりだ。
もう勝利でもしたかのような喜びよう。これでようやくシルフ家を倒してテンペスト家を再興できる──などと騒ぎ続ける姿が見えた。
その中心でアリエルが微笑を浮かべている。
老婆たちにはその微笑が『自分たちの言葉を肯定してくれているもの』に映っていることだろう。
テンペスト家の再興というのが、アリエル自身の──アリエル個人の望みであるものとさえ、思っているのだろう。
だが、乖離には、そういう微笑には見えない。
(……どうにも、高貴な女性というのは悩みを抱え、相談も出来ず、それでいて一人で思い詰めて突き進んでしまうもののようだ。あるいは、私がそういう女性に縁があるというだけか? ……『貴族』か)
乖離はため息をついた。
「……彼女も、何も考えず斬り合いに興じることが出来る性分であればよかったのだがな」
どう考えても不幸な結末しか用意されていないような性分。
アリエルのたどり着く結末をなんとなく予想して、少しばかり、気分が重かった。
◆
「報告! 水賊『暴風』どもがすさまじい人数で水路を進み、その……『シルフの聖骸』を目指しております!」
シルフ公爵家領主屋敷、軍議の間。
そこにはラヴィニアとその側近、千尋らのみではなく、本来この軍議の間にいるべき全員がいた。
集められた女どもがざわめく。
その女どもはすなわち、『シルフの聖骸の破壊が敵の目的であるとラヴィニアが言えば、その正気を疑う者ども』──このアンダイン大陸における、『常識的な』考え方をする女たちであった。
だからこそ、水賊が確実に行動を起こすまで、ラヴィニアは備えることが出来なかった。
……あるいは、ラヴィニア自身もまた、明晰な思考能力と、柔軟な事実認識能力によって『シルフの聖骸が狙われている』とたどり着きはしたけれど、それでも、信じたくない気持ちがあったのかもしれない。
だが、状況はもう、言い訳の余地のないところまできてしまっている。
だからラヴィニアは、居並ぶ女どもに向けて、声を発した。
「聞いての通りだ。連中は『精霊の血管』を潰して回って……聖骸で『最後のひと刺し』を行うつもりでいる」
「しかし、本当に聖骸が破壊されれば、連中も確実に巻き込まれるのですぞ!?」
「正気とは思えない……」
「やはり何かの間違いなのでは」
現在はシルフの聖骸から力が流れるための経路を破壊して力の流れを留め、聖骸に力をため込んでいる状態だ。
この状況で避難誘導をしなかったのは、やはり『言っても誰も信じないから』という理由はある。
だが、それだけが理由ではない。
ラヴィニアが乱心を疑われてでも断固として避難と聖骸の守護を命じなかった理由は、それだけではないのだ。
何せ……
「シルフの聖骸を今の状態で刺激すれば……アンダイン大陸の東側が滅亡しますよ!?」
破壊の規模が大きすぎて、避難が間に合わない。
気付いた時点ですでにどうしようもなかった。女の足で全速力で駆けてもどうしようもない。破壊の規模が甚大すぎて、そもそもシルフィアのみならず、アンダイン大陸の危機である。
なのでラヴィニアは、自分の指示に従い、全員が──
住民まで含む全員が、大陸の危機を実感し、自分が指揮できる状態になるように、事実を発表しなかった。
そちらの方が生き残れる目が高いと踏んでのことである。
……当然ながら、はなはだしい重責が、ラヴィニアの小さな肩にのしかかっている。
それでも沈黙を続けたのは、彼女の優れた胆力なくして不可能な偉業である。
「わかってる。だから、特例法を適用するんだわ。……全軍、全住民、総力体制で『暴風』を止める。戦士は武器をとり鎧を身に着けろ。『詠唱』の使用も許可する」
詠唱。
アンダイン大陸において、禁じられた技術。
ただし貴族家にはその方法が伝承されており……
『いざという時』には、使用も許可される。
……まき散らす破壊が甚大になる技法である。だからこそ、それだけの破壊をしてでも、達成しなければアンダイン大陸と民が滅ぶ、そういう危機でなければ決して許されない。
軍議の間にいる者どもも、ようやく、実感出来たらしい。
『この事件は、詠唱が許可されるほどのものである』と。
……軍議の間の隅で壁に背をあずけるようにたたずみ、話を聞く者がいる。
千尋だ。
彼は目を閉じてラヴィニアと貴族たちの言葉を聞きながら、かすかに笑う。
(男であれば誰もが夢見る大一番か。……ははは。『国家を救え』『大陸を救え』という戦いが始まろうとしている。しかも、敵は信念も覚悟もある手練れ)
この状況で千尋は震えた。
……もちろん、恐怖や緊張、重圧のせいではない。
(楽しみだなァ)
不謹慎であることはわかるので決して口には出さないけれど、心はどうしようもなく、これから始まる斬り合いを期待してしまっていた。
アンダイン大陸、港街シルフィア。
ここでの決戦が、今、目前に迫っていた。