傷はまだ癒えない。
『
そこには治療の跡があり、いまだに包帯が巻かれていた。
あれから一週間。
『強い女』であれば、頸動脈を裂かれる傷でさえも、とうに治っている頃合いだ。
それどころか、失った血も回復し、十全な行動をとれていることであろう。
だが、『商人』は、そういう女ではなかった。
……動けない。活動ができない。
だから、恨みばかりが、募っていく。
「……明確に、定まった。アレらは、私が倒す『強者』」
そもそも、その身に
アンダイン大陸人は、すべての精霊の遺骸を壊せば力を失う──男と平等になる。
だが、ウズメ大陸は
男女の。
……あるいは、弱者と強者の。
生まれ持った才能の差による差別・区別。可能性の途絶は、なくならないのだ。
「まずはこの大陸を蹂躙し、その後にウズメ大陸を『浄化』して差し上げましょう」
その手順には強いこだわりがある。
商人が『転移』や『収納』といった魔法を駆使してウズメ大陸に戦火を見舞う。
そのためにはアンダイン大陸の精霊たちが息づいている必要がある。どう考えても、『結果』にこだわるならば、先にウズメ大陸。あとからアンダイン大陸にすべきなのだ。
……けれど彼女は、あまりにもこだわりが強くて、この件に関して視野狭窄で、己が『経過』にこだわった手順をとっていることを自覚できない。
「次の聖骸は……」
『その空間』に浮かび、商人は地図を広げる。
彼女の四角い瞳孔を備えた目は、アンダイン大陸地図の南側を見ていた。
そこには、こう書かれている。
『サラマンダー領領都サラマンデル』。
◆
「んじゃこれ、シルフ領の通行手形渡しとくんだわ。目的地に入るまでは、それで行ける。その先は知らんけど」
ラヴィニア・シルフ直々のお見送りを受けながら、
行き先は……
「兵器を生産できそうなのは、その『サラマンダー領』だったか。……果たして工廠が本当に実在すればいいが」
千尋の懸念は、あの『転移』だの『収納』だのという力と同じく、『商人』がなんか不思議な力で、独力で兵器製造をしている可能性へのものである。
だがしかし、『商人』の魔法はラヴィニア・シルフ公爵をして未知のものらしい。
だから、もっとも兵器を製造できそうな場所を聞いたところ──
火の精霊サラマンダーの影響が濃い、サラマンダー公爵領が挙がった、というわけだった。
「けど、いいのかよ」発言者は
地図というのは機密情報の塊だ。
空撮や無線通信などの文明がないこの世界において、地形を描いた地図というのは軍事機密なのである。
それを惜しげもなく渡されてしまったものだから、今、千尋らはアンダイン大陸の大まかな地形と、各領地の位置を知ることができてしまっている。
これは何というか、非常にヤバいことだと、十子は察している。
だがラヴィニア・シルフは笑う。
「ま、もしなんか言われたら、『通行手形と地図を勝手に持ち出した』ってことにしといてほしいんだわ」
「おいおいおいおい……」
「何せゴタゴタしてるかんね。地図の一枚ぐらいなくなっても気付かないんだわ」
「結局よお、あたしらは、あんたにとってどういう感じなんだ?」
ふわっとした質問だが、これより具体的にたずねるのは、十子の勇気では出来そうもなかった。
千尋たちは、ラヴィニアにとって──
シルフの聖骸にとどめを刺した者どもである。
だが、そうしなければ、シルフ公爵領一帯が巻き込まれるほどの大破壊が起こったのは無視できない事実だ。
乖離に至っては途中までというか、最後の最後まで、水賊のテンペストに協力していた下手人である。
だが最後にはシルフの大爆発を止めた功労者でもある。
そもそもにして、いくら大爆発を目前にしていたとしても、シルフの聖骸に傷をつける行為、法に照らし合わせれば大罪である。
だがしかし、その大罪を犯してもらわねば壊滅的な破壊がまき散らされていたのは事実であり……
ようするに。
「扱いに困るんだわ、あんたら」
「えええ……」
「だからまあ、うまくやって欲しいって願ってるよ。あんたらの目的はまぁ……たぶんだけど、あたしのやりたいことと、そう差異はない」
「各地で『精霊の遺骸』を破壊する結果になる可能性もあるが」
そう語る乖離に十子が「お前なぁ!?」と叫ぶ。
シルフ公は楽し気に笑っていた。
笑って、笑いを鎮めて。
「……そこまでしても倒さにゃならんのが、あの『商人』だとは思うんだわ」
「ふむ」
「その結果としてこの大陸の女が、力を完全に失って『男並み』になったとしたら──ま、どうしようね? そん時はそん時考えりゃいいんじゃないかねぇ?」
「……ふ」
「シルフの聖骸は
「そう言っていただけるなら、私も『その時に考える』こととしよう」
「いや、そうならないようにしろ」
十子の言葉に乖離は微笑みだけ返した。
言い訳を嫌う正直な女にできる、精一杯である。
精一杯の、『笑って誤魔化す』であった。
「あまり話していても名残惜しくなろう。では、このあたりで俺たちは──」
「ねぇ!」
千尋が立ち去りかけたところで声を発する者。
青毛に猫耳を生やした者──
キトゥンである。
「本当にアンダイン大陸中を回るわけ!?」
「結果的にそうなるかもしれん」
「どれだけの広さがあるか知ってるの!? 軽い気持ちで考えてるなら後悔するんだからね!」
「いや別に、キトゥン殿とはここでお別れでもいいぞ」
「そうはいかないでしょ! アタシはね、友誼には応えるって決めてんのよ! あのミヤビのお願いなんだから、アタシに騎士道精神ある限り、最後まで世話するつもり!」
「騎士道精神にこだわるが、騎士なのか? だとしたら仕事などは大丈夫か?」
「そ、それはそのー……騎士じゃないし……仕事も……あるような、ないような……」
「……つまり無職で暇だからついてくる?」
「泣くわよ!?」
本当に泣きそうなので千尋は参ってしまう。
なんとか言い回しを考えて、
「……まぁ、詳しくは言えんが、『義によって』俺たちの水先を案内すると、そういうことか」
「ミズサキ?」
「まあ道案内だ」
「そうよ! 義によって、ね。いいじゃない、『義』。なんだか格好よくて、アタシにぴったりだわ!」
シルフ公と初めて出会った時、『貴族様との会話!?』という様子で縮こまり、借りてきた猫になっていた女とは思えない。
(なんとなく
調子が良いというのか。
……嘘をついてはいないが、真実を言ってもいない感じがする、というか。
本人も自覚していない、あるいはこの『義によっての同行』によって叶うとは思っていないなんらかの目標がある、といった様子だ。
(まあ、安全には気を配ろう)
役立つ・役立たないという指標で語ってしまえば、キトゥンは何か働きをしたわけでもない。
道案内とて、初日でシルフ公の世話になってしまったので、何も完遂できていない。
だが、懸命に、あふれる善意で行動する者は愛おしい。
「では四人旅といくかぁ」
千尋が気楽そうに言う横で十子がため息をついている。
……キトゥンは、千尋が男だということを知らないのだ。
千尋はガードが甘い。
それは本人の性質ゆえのことであり……
……このアンダイン大陸における、『男』の扱いを詳しく知らないがゆえの、危機感のなさでもある。
ここから先に待ち受ける者、すべてがシルフ公のような淑女ばかりではない。
サラマンダー公爵領領都サラマンデル。
千尋はそこで、この大陸における『男』への扱いを体験することになるのだが……
その未来は、彼らの進む先、何日も歩いた先あり、今はまだ、遠い。