ジニは語る。
それは彼女の防衛本能がゆえに続いた言葉だった。
すぐそこにいる
言葉の意味次第では斬ると、視線で言っている。
だからジニは慌てて、『アンタ、王様になってみねぇか?』という言葉の意図を解説する必要性にかられた。
「いや、ほんと、脅迫とか強制じゃねぇよ! そんなことは出来ないの、わかってんだ! ……でもよ、オレは……うーん、わかった、正直に言う。キトゥンさん、アンタに王様になってほしいんじゃねえんだ。今の王様以外なら、誰が王様でもいいと思ってんだよ。だって──今より悪くなることだけは、絶対にねぇからな」
そこで乖離がこんなことをつぶやく。
「もしや、元貴族か」
「……『詠唱魔法』について口を滑らせたのはまずったか」
詠唱魔法──
それは破壊が大規模に及びすぎるため、禁忌とされ、封印され……
一部貴族家の中だけで伝わっていた、禁術である。
一般の女は『詠唱魔法』というものが存在すること自体を知らない。
よしんば、サラマンダー公の魔力のふくらみから、あの文言を唱えながら行使した魔法がヤバいものであると感知し、慌てて千尋を助けただけだとしても──『詠唱魔法』という単語がすっと出て来た時点で、貴族の禁術を名前だけでも知ることのできる立場であることは明白だった。
しかし、乖離はジニの全身を上から下まで見る。
くすんだ緑色の髪の毛の、小柄で痩せた女。
体格に優れない者を『男のよう』と表現することもあるのだが、ジニは不思議とそう表現したくならない。卑屈そうで、猫背で、『華奢』なのではなく『単純に肉付きが貧しい』ように見えるのだ。
だが貴族というのは血を受け継ぎ、もっとも魔力に優れた──『精霊の寵愛』を受ける者を当主に据え、貴族ゆえの選択肢の多さから優れた男との間に子を成し、そうして力を継がれてきた者。
であればジニにはそれらしい強さがあるのかと言えば……
「元貴族の割にはまったく強そうではないな」
「……ハッ、よく言われるよ。オレは紛れもなく出がらしさ。だからこそ、使用人に紛れて生き延びちまったってわけだが」
「……」
「困ってるヤツをほっとけねぇのもな、貴族時代の『呪い』だよ。
「確かに、最悪だろうな」
「わかるか、くそったれめ。……わかってんだよ。人助けなんつうのはさ、自分で自分を助ける余裕があるヤツにだけ許された贅沢さ。オレみたいな弱っちい女が……クズみてぇな小物を売って小銭を稼いでるような女がだ! 人助け!? 最悪だな! ああ、最悪だとも!」
「……」
「……だがな、別に、王を倒そうとか、実際にオレの家をぶっ壊したサラマンダー公を殺そうとか、んなこと思っちゃいなかった。そんな気高い志はねぇんだよ。……だがな、目の前に『新しい王』が転がってたら、声ぐらいはかけてもいいだろ。ダメ元だよ。でもな、オレの一声で、ちょっとでも、ちょっとでもだ。……指先でもつまめねぇほどの小さい小さい可能性でもあるんなら、声ぐらいかけたっていいだろ……」
そこで乖離がキトゥンを見たのは、紛れもなく彼女の意思をたずねてのことだった。
乖離はミヤビのもとで過ごすうち、貴人のそば仕えとしての仕草が板についている。
こうして視線を向けて決断を待つのもまた、そういった仕草のうち一つで……
貴人の決断次第では、今、ここで、『無礼なことを言った』ジニを斬る。
そういう方針の決定もゆだねた、視線での問いかけだった。
……キトゥンは、この視線の重さに気付くことが出来た。
目の前でやさぐれる、やせぎすの女の命が懸かっているのだ。
紛れもなく戦いである。
……キトゥンは、これまで、差し迫った状況になると、緊張から恐慌を起こし、わけのわからない何かに任せるまま余計なことを口走り、結果として『とてつもない行動力を持っている』かのごとき人生を送る羽目になってしまった。
この勝手に動く口も、一度口に出したことを曲げられない性分も、自分にかけられた『呪い』だと思っている。
だから──
(『呪い』。……決別したいと思ってた。今なら、なんか、不思議と落ち着いてるし……きちんと考えて、ものを言えるかもしれないわね)
キトゥンは悩み、目を閉じ、目を開く。
そして、ジニに言葉をかけた。
「アタシは実感がないんだけど……今の王様って、そんなにひどいの?」
貴族家を改易していることは、知っている。
だがキトゥンが直接被害に遭ったことはなかった。また、キトゥンの自認は『町民』であるため、『上の方は大変だな』ぐらいの感覚でしかなかった。
生活は──どうだろう、苦しいというほどではなかった気がする。もちろん、無駄飯喰らいを養えるような余裕はどこにもないけれど、そんなの、いつの時代、どこの町だってそうだろう。
だから『今の王様の酷さ』がわからない。
キトゥンは今だって、自分が王族であるのは何かの間違いだと思っているし、あの頑固な母親が元騎士団長かもと言われても、『確かに強いけど……』みたいな、首をかしげたくなる気持ちだ。
騎士団長が、第七王女を連れ出し、『その時』に備えて育てた──
わからない。そこまでするほど酷い王なのか。実感がさっぱりない。
だから、話を聞きたいと思った。
ジニは──
「……想像してくれ。あんたは家に住んでる。ボロくて雨漏りもするが、自分の家だ。母親の、そのまた母親から、一緒に住んでる、そういう家だ。明日からも住んでいく、ここから出て、仕事に行って、また帰ってくる。そういう家だ」
「……ええ」
「仕事でクタクタんなってその家に帰った。そしたらだ。家の周りをよくわかんねぇ連中が囲んで、家をぶち壊してる。母親も、ばあさんも、袋叩きにされてる」
「……」
「そいつらは高らかに叫ぶんだ。『この者たちは
「……」
「まぁ、そういうこと言い出したのは大家だっていう話だ。だからな、もしかしたらこっちがなんか、とんでもねぇ無礼を働いちまったのかって思うよ。だって、少し前までの大家はいい人で、仲良くしてたんだからな。ところがある日豹変して、理由も言わずに家から追い出す、家を取り壊す、そのついでみてぇに人を殺す。こうなった。こうなって、事情も説明しねぇ。こっちの話を聞こうともしねぇ」
「……」
「まぁ、今回は『オレら』だったよ。周りのやつらは『災難ねぇ』なんて言いながらも他人事だ。てめぇが家に住んで、飯食えてるからな。……ところがだ。次は、二軒隣。その次は、三軒隣。隣町でも、遠くの街でも、一斉に同じことが起きてるらしい」
「……」
「次に家を奪われるのは自分かもしれないし──もっと狭い家に住んでる誰かかもしれねぇ」
「……」
「この国は今、そういう状態だ。大家──王が、急に癇癪起こしたせいでな」
キトゥンはその話を──
なんとなく、理解できた。
『今はまだ』貴族なのだ。
だが理由もなく、前触れもなく、豹変としか言えない様子で、説明もなく、話も出来ず、そうなった。
そして王とは、この国家すべての『大家』である。
今は、三軒隣かもしれない。
だが、いずれ自分のもとに来るかもしれないし──
『ノブレスオブリージュ』。
……なんて、気取った言い回しをしなくても。『優しさ』がある人ならば、『もしかしたら次は、自分たちより蓄えもない、力もない誰かが、同じ目に遭うんじゃないか。そうなった時にもう、自分たちは、その人たちを守れない状態だ』と不安を抱くだろう。
キトゥンは──
今、初めて。
自分の人生の中で何気なく聞き流された数々の言葉が。
母の──育ての母の厳しい教えが。
学校で習った『騎士道』という
……つながった、気がした。
弱きを守る道とは、『そこを格好よく歩くこと』ではなかった。
道を敷く努力、なのだ。
そして今の王は──
人々が連綿と敷いてきた道を、片っ端から壊して回っているのだ。
「……わかった。本当に……すごいことが、起きてるのね」
「ああ、そうだ。王は──乱心していなかったころの王は、こう言っちゃなんだが、愚鈍なお方だった。だが、善良だった。……つってもオレも、善良だったころの王は大して知らねぇが」
「……」
「急変したって母さんが嘆いてたよ。……改易された貴族家の土地がどうなってるか、知ってるか?」
「……いえ」
「『工廠』にされてるらしい。ああいや、なんだったか、もう少し別な呼び名だった気がするが……ともあれ、兵器を作る場所、らしいぜ。ひでぇ話だろ? ……必要ねぇだろ。オレたちは何とも戦ってねぇ。戦うとしたら、今の王の暴政に対して……」
「……」
「いや、悪い。そこまでの勇気も力もねぇんだ。……これがただの大家の横暴なら、追い出されたみんなで集まって石でも投げりゃあいい。けどな、オレたちの力で投げた石じゃあ、王宮の綺麗な透明ガラスの窓さえ割れねぇし、反撃のひと撫でで全員死ぬ。……『力』になれねぇんだよ。弱すぎて」
「……………………」
「あーなんだ、その、あれこれ言ったが、本来、あんたが責任を感じるようなことじゃねぇよ? 出自は確かに王族かもしれねぇが、別に、生まれた血で歩む道を決めることもねぇ。オレなんか、貴族家の三女だぜ。このへんの貴族家の、あーまあオレはノーム方面に近い場所の生まれだが……とにかくサラマンダー領の貴族家の三女なんてな、軍人になるぐらいしかねぇ。でもこの弱さだ。……はは。自分で言ってて嫌んなるぜ。とにかくまあ、アレだよ。……気に病むな。気に病むべきことなんか、一つもねぇんだからさ」
「……アタシは……」
キトゥンがその時何を言おうとしたのかは、キトゥン自身にさえわからなかった。
言葉はまったくまとまっていなかった。でも、何かを言いたかった。だから、口を開いた。
それは『変わろう』と思っていた昔の自分だ。重圧と緊張に耐えきれずとにかく行動しようとしてしまって、行動をあとから後悔する。後悔しても、過去の自分の行動を『誤り』だと認める度胸がないから、あれこれ理屈をつけて正当化してしまう。そういう、自分。
変わろうと思った。
でも、なかなか変われるものではない。
……だから、キトゥンの言葉を止めたのは、キトゥン自身の心ではなかった。
「たたたたた大変! 大変だじょ!」
言葉を噛みながら転げるようにアジトに入ってきたのは、細工師をやっている小柄な女だった。
シルフ公の領にゆかりがあるらしい兎耳のその女は、アジトの壁にぶつかりぶつかり、ジニの方まで寄ってきて──
「さ、サラマンダー公が! めちゃくちゃ兵を集めてる!」
──その報告だけで、キトゥンにはまだ、何が起きているのかを正確に把握することは出来ない。
大変なことが起きているのが雰囲気でわかるだけだ。
……けれど、深刻そうに青ざめるジニの顔を見て……
(『誰かの敷いた道』が無遠慮に、気まぐれに、壊されようとしてる──のね)
そういうことが起こりつつあることだけは、わかった。