「【炎が戦士と民とを分けた】」
詠唱魔法──
(今の俺の足では駆けても五十歩はあるか!)
障害となる『物』はないが、戦車の相手で散らばっているとはいえ、公爵軍の女どもがそこらにいる。
普通に走れば千尋の足だと十秒より長くかかるだろう。歩法を用いても五十歩を一瞬で詰めることは適わない。少なく見積もっても到達には六秒と少しはかかる。
だが、
「どけ」
と、同時、石造りの地面にヒビが入るほどの踏み込みで加速。
「【燃えろ、燃えろ、燃えろ。我ら戦士。我ら炎に向かう者。我ら傷と血を炎で洗う者】」
公爵ドーベラ・サラマンダーは詠唱を続けている。
その顔に浮かぶのは挑戦的な笑みだった。豊かな赤い髪を魔力によってふわりふわりと浮かせながら、燃え盛る剣を掲げ、その向こうからこちらを見ている。
犬系獣人。背が高く凛々しい女。砦めいた公爵邸を背後に詠唱をするその姿は、神々しささえある。
爆発的な加速により一瞬で最高速度に達した乖離がかすむような速度で突進する。
「通すかァ!」
その間に公爵兵が挟まる。鎧をまとった集団。しかも今回は主人がいきなり詠唱を始めたことに戸惑う様子もなく、使命感に燃えた目でこちらを止めようとしているのがわかる。
「チッ」
到達予定が少しばかり後ろにズレる。乖離は思わず舌打ちをしながら、避けようか蹴散らそうか逡巡。している間に動き出した己の体に決断をゆだねることにする。
乖離の肉体は『蹴散らすこと』を選んだ。
「【焼かれ果て、溶け果て、いつしか我らは形を失う】」
ドーベラ・サラマンダーの詠唱は空気の中で無数に反響し、思わず脳を揺さぶる気持ちよい響きを帯びている。
だが高まる『力』は、神力だの魔力だのに疎い千尋にもわかるほど。
「潰れろ!」
その声は千尋の後ろから発せられたものだった。
『
彼女の声と同時、サラマンダー公の頭上の空間がぐにゃりとゆがみ、そこから金属の塊が自由落下を開始する。
さらにサラマンダー公の周囲から大砲がその砲口をのぞかせた。
上にも周囲にも逃げ場のない一斉射撃が空気を震わせる。
だが迫り来る砲弾の中で、サラマンダー公はおかしげに笑い、剣を振った。
複数の砲弾がまとめて引き裂かれる。
その断面は赤熱しとろけ、いかなる業によるものか、運動エネルギーまでなくしてサラマンダー公の周囲に落ちた。
進路の邪魔になる。公爵兵を蹴散らした乖離が『お前、邪魔をするな』という顔で一瞬、『商人』を振り返った。
「【鎧は溶け落ちた。剣は鋼となり手から零れた。肉は墨となり、血は辺りに漂うのみとなる】」
サラマンダー公が炎をまとう。
彼女の周囲に熱のリングが形成されていく。
千尋もまた乖離のあとを追うように進む。
詠唱魔法。それは大破壊をまき散らす兵器のごとき禁忌の技術だという。
だがしかし、大破壊をまき散らすのだ。
すなわち、安全圏が存在する。
それは術者のそばである。
「【気付けば我らは、炎となっていた】」
間に合うかどうか、かなり怪しい。
ともあれ活路が『前』にしかないならば、進むのみ。
……詠唱を途中で止めなければ『組合』の者どもや
安全圏への避難と詠唱キャンセルのためにサラマンダー公を斬る。
二つの目的のために、千尋もまた駆けて行く──
「【意思なき、命なき、鎧なき、剣なき、肉体なき者どもよ】」
「ゼァァッ!」
乖離が間に合う。
だが、間合いに入れただけでは攻略出来ないのが、ドーベラ・サラマンダーという女の強さ。
炎をまとわせた剣をくるくると回すように操り、乖離の剣を絡めとり、受け流す。
流されたとて終わる乖離ではない。しかも詠唱中のドーベラは『反撃』をしない。詠唱というのはかなり集中力を使う様子であり、攻撃しようなどという欲を出すと途切れるのか、防御に徹している。
だから反撃を気にしない動きで乖離が斬撃を放つ。
それでも、回避・防御に専念すると決め、揺らがずそれを実行する手練れの防御は、なかなか抜けない。
「ねぇちょっと! 巻き込まれるわよ!? なんで止めないの!?」
キトゥンの叫びはサラマンダー公爵兵に向けられたものだった。
だが、答えはないし、迷いもない。
公爵兵は『組合』や『商人』に襲い掛かり、その足を止めんとする。
自分が巻き込まれて死ぬかもしれない──
「……狂ってやがる」
ジニが唾とともに吐き捨てる。
それは、公爵兵どもの顔に、『自分たちは無事に済む』という確信みたいなものが、まったく見えなかったからだ。
本当に『死も厭わない』のだ。何か言い含められていて、詠唱魔法が使われても巻き込まれないという安全の保証があるわけではない。この連中はドーベラの行動に命を懸けている。たとえ背中から焼かれることになろうとも構わない、そういう連中だった。
「【我とともに進め】」
サラマンダー公の頭上で太陽のごとき火球が建言する。
乖離は斬り合いをやめてサラマンダーから離れた。
素早く移動すると、こちらに向かってきていた千尋を背に庇う。
……当然の行動である。
あの火急は『技術』とか『覚悟』とかで及ぶものではない。アレを前に頼みに出来るのは、ただただ純粋な肉体の頑強さのみであり、それはどうしようもなく千尋に欠けているものだった。
だが……
「おいおい、カイリ──だったか? 私がそのようなつまらん真似をする女だと思われるのは心外だな」
サラマンダー公は、笑う。
笑って、
「詠唱魔法についての認識が古い。我が家はこの魔法を研究した。そして、新しい使い道を発見したのさ。──このような、な」
太陽と見まがうような、巨大な火球。
それを──
──己に落とした。
「……何?」
さすがの乖離も動揺していた。
サラマンダー公は戦いのたびに火をまとう。
だが別に、本人に『燃えない』というような性質があるわけではなかろう。人はどうしようもなく燃える。それはいかに精霊に寵愛を受けているサラマンダー公とて同じはず。
ただただ相手を燃やすためにまとった炎と、己を守るためにまとう精霊の力が均衡しているからこそ、彼女は燃えなかった。
だがしかし、多くを燃やし尽くすために詠唱によって形成された火球。それを受けるのは、防御のためにも詠唱魔法を使わねば出力が均衡しないはずだ。
そしてあの火の球に込められているのが殺意だと、乖離は看破している。……だからこそ、サラマンダー公の行動は、自分で生み出した炎で、自分を焼き尽くす愚行にしか映らなかった。
……だが。
「詠唱の内容を現代語で意訳してやろう」
巨大な爆発を引き起こすだろうと予想された火球が、収束していく。
「これは覚悟を問い、覚悟ある者を
収束した火炎は人型に収斂されていく。
「詠唱魔法は大規模破壊を引き起こすという知識があったのだろう? だがな、研究し、研鑽し、磨き上げた詠唱魔法はそうではない。貴族の家に伝わる真の秘伝とは、大規模破壊の魔法を封じるものではなく──」
人型の炎が、歩み始める。
それは、燃え盛る女の姿をしていた。
炎をまとった──否。
鎧も剣も、肉体さえもなくし、炎そのものとなった、サラマンダー公。
火炎の髪をたなびかせ、炎を剣のようにしたものを手にし、そこに立っている。
「──現代魔法と同じだよ。つまりは
サラマンダーは、ニヤリと笑った。
「『精霊化』。それこそが、研究、研鑽された、公爵家秘伝の詠唱魔法。その最新の使い方さ」
アンダイン大陸における信仰対象。
精霊そのものと化した女が──
「では存分に斬り合おうか、『異国の手練れ』に、『男』!」
──火の粉を散らしながら、斬りかかって来た。