「我が炎は悪を滅する。──では、悪とは何か?」
空気の中にサラマンダー公の声が響いている。
出どころは『熱』だった。
あたりに漂う『熱』そのものが、今やもう、彼女自身だった。
「王は悪である。剣を振るう男もまた悪である。弱い女も悪である。強い女のみが、正義だ。──なぜか?」
きらめく熱があたり一帯に満ちていく。
「半端だからだ。半端とは、すなわち悪である。ゆえにこそ、『商人』よ、王に私の言葉を、私の姿を伝えるがいい。『暴君とはこうやるのだ』と」
『何か』が形を成そうとしている。
それは炎だった。だが、ただの炎ではなかった。
目抜き通りは広い。しかし、それ以上に大きな何かが、周囲の建物を炎でなめ尽くして押しのけ、顕現しようとしている。
「迷うな。誰かの顔色をうかがうな。目的のために誰を犠牲にしても止まるな。そして、失敗したならば、さっぱりと死するべきだ。中途半端に迷う暴君とは、ただの暗君である。我が暴政を手本とせよ。アンダイン王プリムナよ。──ここはお前の国だろう。お前がはっきりしないのならば、私が獲ってしまうぞ」
巨大な──
巨大な、炎の犬が、現れていた。
「精霊サラマンダー……!」
公爵兵の誰かがつぶやく。
声には驚きがあった。歓喜があった。そして畏敬があり、わずかな悲しみがぬぐいされずにこびりついていた。
公爵兵は敬愛すべき主人が敗北し、その命を死した精霊に捧げたことを理解したのだ。
ずっと死していた精霊そのものが、ただ一人の命を捧げられただけで、こうして息を吹き返している。その事実に──敬愛すべき主人の命の価値、重さに、誇らしさを覚えていた。一方で、それだけの重い命が失われたことに、愕然ともしていた。
ただ一人の死が芳醇な感情を喚起する。
ドーベラ・サラマンダーは暴君であった。
唐突かつ急進的な徴兵によって自領を自身で追い詰めた。『組合』の奮起を促した。己の滅びの要因を己自身で作り、今、二人の人斬りに斬り捨てられた。
だが、気高い。
敗北はしているはずだった。
だというのに、斬ったはずの千尋さえ、勝った気になれない。
真に偉大な者は、意味ある死を遂げない。
その死に他者が勝手に意味を見出し、物語を感じるものだ。
ドーベラ・サラマンダーは暴君であり、偉大なる君主であった。
その命を捧げられ蘇生した精霊サラマンダー。
要塞であるはずの公爵邸よりなお高く、顔を上げて遠吠えをすればその声は領内どころか隣の公爵領にまで響き渡る。
熱くきらめく炎で出来た精霊。
その精霊は確かに理知的な瞳をしていた。
だが、その精霊は、理知的な目をした上で、千尋や乖離を見て、四つ足を突っ張らせるように開く。
攻撃の準備態勢。
精霊サラマンダーは、千尋と乖離を『敵』とみなしていた。
そして──
もちろん、その『敵』の中には、『商人』もいるようだった。
「どう斬る?」
千尋が乖離に問いかける。
乖離は火傷跡の残る顎を掻き、
「まぁ、首を落としてみるしかないだろう」
その会話の最中、耳をつんざく
『商人』だ。
彼女はマスケティアーズを展開し、戦車を遣わし、精霊サラマンダーへ攻撃を開始していた。
だが銃弾は蒸発し霧になって消えた。戦車は近寄ることも出来ずにとろけて地面へ広がった。
精霊サラマンダーが吠えるだけで、その音圧で兵たちがごろごろと転がる。
乖離の背に守られた千尋が、『商人』へと叫ぶ。
「おおい、アレを壊す気ならば、俺の話を聞かんか!?」
「……」
『商人』は舌打ちした。
だが、話を聞くつもりはあるらしい。……彼女は精霊の遺骸の破壊が目的である。そして、『遺骸の破壊』という勝利を目指すゆえに優先順位を心得ている。
今はどう考えても、千尋や乖離と反目するより、協力して精霊の破壊にあたるべきだ──そういう判断が出来るぐらいには、冷静だった。
「何か強烈な『風』を起こして欲しい。尋常な炎には見えんが、まあ、風で弱らせるぐらいは出来よう。弱ったならば、そこを斬る」
「『水』ではなく『風』を求める理由を聞きましょう」
「あんな巨大な熱の塊に水などぶっかけてみろ。逃げる暇もなく全員死ぬぞ」
いわゆる水蒸気爆発である。
……とはいえその手の科学知識が千尋にあるわけではない。ただ単に、経験と想像力からの分析だ。焚き火に水をかけて消した経験ぐらいはある。その時に水が一瞬でお湯になり弾けて、それがかかって熱かったという経験がある。
それがあの、『要塞』と呼びたくなる屋敷よりも巨大な炎の塊で起これば、『あちち』程度で済まない尋常ならざる被害が出るに決まっていた。そういう想像だ。
「千尋、来るぞ」
乖離がつぶやく。
千尋が『商人』に背を向けて構える。
『商人』は、その二人の──憎き『強者』の背中を見て、
「……チッ」
舌打ちし、空間の中に姿を消した。
乖離が問いかける。
「気配が消えたな。逃げたか?」
「いやあ、そういうタマではなかろう」
「どうかな。旗色が悪くなると逃げ出す前科が二回もあるぞ、あいつは」
「だからこそだ。『今度こそは』というやつだな。何、働いてくれるさ。俺のカンはそう言っている」
「ではお前のカンを信じよう」
精霊サラマンダーが、とびかかってくる。
引っ掻くでも噛み付くでもなく、ただ、まっすぐ前に突っ込んでくる。
だがしかし、金属をとろかす炎の化け物。しかも建造物をしのぐ超巨体ときている。
そんなもの、当たっただけで死ぬ。あそこまで巨大で、あそこまで熱いモノは、いちいち『攻撃』などする必要がないのだ。ただ真っ直ぐ素早く進むだけで、通り過ぎた地面は赤熱しとろけ、衝撃で周囲の建物が吹き飛び、人などついでのように蒸発させる。
巨大さと速度ゆえに避けることも出来ない。
だから乖離は、力いっぱい込めて、その突撃を受け止めた。
「この後のことは考えない! 全力を出す! 私が保つ間に『商人』が働いてくれることを願おうか!」
乖離の全身が白い輝きに包まれる。
神力だ。今この一瞬を確保するためだけの全力。呼吸三回ぶんも持てばいい全開の全開。
剣術を使う余裕はない。ただ全身の力を漲らせ、力で力を受けるだけの行為。相手が剣術を扱うドーベラ・サラマンダーであればこんなことをすれば冷静に力の切れるのを待たれて殺されただろう。だが、よくも悪くも相手はただの獣。獣であれば、後先考えない全力で留めることが可能。
乖離が食いしばった歯の間から、息を吐く。
呼吸が一つ。
吸う。
また、吐く。
呼吸が二つ。
また吸う。そして──
サラマンダーのはるか上空から、何かが落下してくる。
『黒い粉』だ。
それが空を曇らせるがごとき量、落ちて来る。
千尋はその正体に気付いた。
「『黒色火薬』──爆発するぞ!」
火薬がサラマンダーという巨大な熱に触れ、弾けた。
轟音と震動。それから光。
その中で千尋は己の動きを決めていた。
爆発──『風』が起こった。
サラマンダーの巨大な体が、爆風に吹き付けられ、ゆらめき、そのサイズを小さくする。
光と音と震動。男の身で耐えるのが難しい『勢い』。そのすべてを体中で受けて、己の推進力に変える。
(首は遠く、近い。堅く、脆い。……初めての感覚だ。斬れるか、斬れないか、さっぱりわからん)
走馬灯が流れている。
あるいはこのまま死ぬのかもしれないし、すでに爆発の時に死んでいるのかもしれない。
今、精霊サラマンダーに向けて駆けているのは死後の夢かもしれない──そう、千尋は思う。
だが、夢だろうが、死後だろうが。
斬ると決めた。ゆえに、斬る。
(死力を尽くし、限界を尽くし、己が死んでいるのか生きているのかわからん精神の淵で、それでも首に向けて剣を振るう──生き延びていれば、思い返して耽溺しよう。これこそが、『敵との立ち合い』であった、と!)
千尋の剣が、精霊サラマンダーの首に入る──
一瞬。
夢を見た。
目の前には、ドーベラがいる。
千尋の剣は精霊サラマンダーの首に入っていたはずが、今、ドーベラの首に入り、止まっている。
いや、動いてはいるのだ。ただ、その動きが、ほとんど止まっているも同然なほどにゆるやかに見える。肉体の時の流れが、遅くなっているかのような感覚。
ドーベラが、傲然とした笑顔で語り掛けて来る。
「まったく度し難い男だ。公爵を斬り、精霊を斬り、アンダイン大陸には国家転覆でもしに来たか?」
千尋は答える。
──いいや。ただ、満足のいく死合いをするために来たのだ。
「それに国や民を巻き込み、その成り行きで精霊を斬る。いかほどの人々がお前たちの死合いのせいで迷惑をこうむるかわかっているのか?」
──わからん。わかろうとも思わん。
「そうだ、それでいい。──中途半端は悪である。貴様らに負けたその一瞬、私は、人斬りではなく、公爵になってしまった。なりかけて、しまったのだ。目の前の勝負に耽溺する中で、ふと『勝利せねば』という気持ちがよぎった。ゆえに、私は悪であった」
ドーベラはニヤリと笑い、
「男が剣を振るうは悪である。だが、それが最強ならば、正義だ。中途半端ではないからな。行きつくところまで行けよ、人斬り。きっとその途中に、我らの王の首がある。……プリムナを殺してやってくれ。先代王はおかしかった。そして、その先代を我らは討った。だが、プリムナまでおかしくなってしまった。もはや『死』以外にあいつを救うものはないだろう」
時の流れが速まって──もとの速度に戻っていく。
千尋の刃が進み、ドーベラの首が完全に断たれる一瞬前、
「正義であれよ、人殺し」
願うように微笑み──
断たれ、舞う、火炎で出来た首。
……ここまでも、今、目の前で空へ舞う精霊サラマンダーの首も、果たして夢だったのか、それとも
わからぬまま、千尋の意識は、ぶつりと途切れた。