「落書きの解決、お見事でございました」
温泉宿──
『支配人』のもとへ報告に戻った
テーブルを挟んで向かい合い、お茶など出されている状況ではあるが、この支配人、先ほどまで一緒だった農業組合職員と比べると、明らかに他者に緊張を強いる雰囲気をしているのがわかる。
背筋が伸びる感じというか、背後に大きな何かを抱えている感じというか──
ありていに言って『高貴』なのだ。
原色系の布を使った着流しのような服装一つとっても、ノーム領都ノーマンでは実は珍しいものではない。
だがしかし、布の質がいい。立ち振る舞い、座り姿がいい。
さらに出て来るお茶も、飲み比べてみれば、こちらの方が質か淹れ方か、とにかく味が良かった。
支配人はメガネのブリッジを押し上げ、
「では今日中にもう一つ巡っていただきましょうか」
「その前に一ついいだろうか」
千尋が挙手し声をかけると、支配人は「どうぞ」と手で発言権を譲った。
「農業組合で話を聞いて、やはりこの土地には複雑な問題があるように思えた」
「……」
「それは歴史と伝統に絡み、土地柄や民の気性にも絡んだ根深いものである。まぁつまり──あなたの言う『新しい風』がちょっと吹いた程度でどうにかなるものには思えん」
「そうかもしれません」
「というよりだ。もう、この事態であるならば、公爵その人が出て来て、強権を振るうべきであろう。『決められない』などと言っている場合ではないように思う」
「……」
「なぜ、公爵は出て来ない? この事態を快刀乱麻──すっぱりと一太刀で解決出来るのは、公爵その人以外におらんように思えてならんのだ」
そこで支配人は一つ、長い息をついた。
「……まず、伝統が一つ。我らの重大な決定は王家に委ねるというのが、ノーム領の通例でございました。だからこそ、この伝統を打ち破るのには、かなりの力がいる」
「だが、打ち破ろうというほどの問題がある、という認識ではあるのだろう?」
「そして、個人的な想いが一つ」
「……」
「ノーム公は迷っておいでなのです。……シルフ領の兎どもは、状況を見つつ、明確に敵対せぬまでも、王家の意向を軽視し始め、独立の気風を高めている。サラマンダー領の犬どもは、明確に王家に反旗を翻した」
「まぁ、そうだな」
「……政治的に、現在の王が数多の犠牲を出し、よくわからないものに力を注いでいるのはわかるのです。けれど……ノーム公は、現在の王が
「……」
「『もしかしたら、戻るのではないか?』『戻るのを待つべきなのではないか?』『明確に王を敵とみなし、即座に討つことは、あまりにも、王その人をあきらめすぎている、残酷な決断なのではないか?』。……そのように思ってしまうのです」
古いころから付き合いのある友人が、ある日、変わってしまった。
それも、いわば『地続き』の変化ではない。急変だ。ありえないほどの変化だ。
で、あるならば……
『原因』を取り除くことが出来れば、その変化も終わり、古い友人が戻ってくるのではないか?
……個人として、こういう想いを抱いてしまうのは、仕方のないことではあるのだろう。
「……そもそも、今の王のなさりようは、先王……現王の母に近い。この先王は
「……」
「そうして数年後、現王は、先王のようになってきた。……何か、悪霊でも乗り移っているのではないかと思うには、充分すぎる状況なのです」
「充分過ぎはせんだろうなァ。ただ、『そう願いたくなる』という気持ちはわかる状況ではある」
「……」
「為政者としては、決断を先延ばしにすればするほど多くの犠牲が出るのだろう。だが、個人的に、変わってしまった友人が元に戻る願いを抱き続けるというのは──うむ。俺は、そちらの方が好みだな。冷たい為政者よりも、好みだ」
「……」
「まぁ、先に言った通り、為政者がグダついていると民が迷惑を被るので、俺が民の立場であれば『さっさと決めてくれ』と思うだろうが、あいにくと、俺はこの土地の者ではなし。個人的には執着……未練……ああいや、『願い』か。まさしく願いだな。願いのために己の血肉たる民を捧げるというその判断は好ましく思う」
「ありがとうございます。褒められている気はまったくいたしませんが」
「『ノーム公』の話であろう?」
「……そうですね」
「やり方の回りくどさ、問題の複雑さ、そして『何が問題か』を明確にせず、対処療法的なことばかりするグダつきよう、なるほどノーム公は情の強いお方なのであろうな」
「…………」
「しばらくは付き合おう。給料は出るようだしな。だが……この問題を問題のまま長引かせている原因が『個人の想い』であるならば、結局のところ、答えを出すのは『新しい風』ではなく、『土地に根付いたもの』であると思うぞ」
「……ええ、そうなのでしょう」
「で、次はどこへ行けばいい?」
「……医療組合の方へ向かってくだされば。彼女らの抱えた問題は一目でわかるかと」
「『彼女らの抱えた問題』か。『温泉宿に落書きをしてくるので迷惑している』──『温泉宿の問題』ではなく、『彼女らの問題』か」
「……」
「俺たちに何をさせたいかさえ明確ではないのであろうな。重ねて言うぞ。『新しい風』は何も解決しない。そもそも、責任を持たぬ者の意見に左右されて何かを決めるのはよろしくない」
「おっしゃる通りで」
「理解はしているようで何よりだ。では行く」
千尋が立ち上がり、乖離もそれに続いた。
残された支配人が、空になった茶碗を眺め、テーブルの上で拳を握りしめる。
そこに、小柄な狐耳の仲居が入って来た。
「……支配人」
「何事ですか」
「その──『来客』がございます。ですが、通していい相手かどうか」
「『商人』ですか?」
「いえ、その……」
小柄な仲居は言葉を探すように視線を巡らせ、
「……追い出したウズメ大陸の者と、それから、セプトラ様が、会わせろと騒いでおりますが、どうなさいますか?」
千尋らが出て行った温泉宿で──
どうやら、十子らが何かをするらしかった。