◆ <聖女Side ~三人称視点>
話は少し前に遡る。アンリエッタがエビルノース山へ向かっていた丁度その頃、グリモワール王国神殿にある執務室にて、聖女クレアがある人物と対話していた。
「ルワージュ、アンリエッタの所在はつかめませんか?」
「ええ、残念ながら。魔国は女神信仰ではないため信徒も少なく、教会もないため、情報収集も難航しておりまして。お力になれず、申し訳ございません」
執務室の椅子に座っていた初老の男性が立ち上がり、聖女クレアに向けて一礼する。少し白髪混じった黒髪に琥珀色の瞳を持つこの男性。白地に細やかな黄金色の刺繍が入った法衣と宝冠(ミトラ)はこの神殿で神殿長と司祭のみ身に着ける事が許される聖衣。
名はルワージュ・グレゴリー。グリモワール王国の神殿長を務め、いつも民に向けて優しく微笑みかける姿は聖女クレア同様、神殿の象徴とされている存在だ。
アンリエッタが追放されたタイミングで、ルワージュは聖女クレアと共にサウスレーズンの町へ派遣されていた。
クレアがまだ幼い頃、母とアンリエッタと三人で暮らしていたセイントミネルヴァ山の麓にあった村の小さな教会。何故かそんな王国の外れにある小さな教会へ、村では見る事のない立派な法衣を身に着けた男性が訪れては母親と親しげに話している姿を目撃していたのだ。
その人物がグリモワール王国の神殿長であり、今は亡き母――前聖女レイシア・ミネルバ・グリモワールの側近であったと知ったのは、住んでいた村が滅ぼされ、ルワージュにクレアとアンリエッタが拾われた後の話だった。
ルワージュはクレアとアンリエッタを滅びた村から助け出した存在。だからこそ、信頼出来る相手であるルワージュに、クレアはアンリエッタの行方を捜索してもらうよう、お願いしていたのだった。
「分かりました。お忙しいところ恐れ入りますが、引き続きよろしくお願い致します」
聖女クレアはルワージュへ恭しく一礼し、その場を後にする。
この日の公務は月に一度、聖女自らが懺悔へ訪れる信徒の告白を聞き、魂の〝浄化〟を行う〝洗礼の儀式〟と呼ばれる特別な日であった。クレアは逸る気持ちを押さえつつ、眼前の公務へ集中するよう頭を切り替える。
神殿の洗礼室。礼拝堂を正面から見て左奥、月に一度しか開かれない扉があり、洗礼室へ続く一本道の中央に一つ、特別な結界を張った検問となるゲートがある。そこを抜け、もう一枚扉を隔てた先、同じく結界に覆われた洗礼室という部屋がある。
少しでも
「おぉ、聖女クレア様。我をお許し下さい」
「創世の女神ミネルバ様の名に於いて、汝の言葉を聞き入れましょう」
盗みを働き、罪を償おうとする者。下女に不貞を働いた貴族。聖女クレアと面会を望む者の理由は様々。だが、どの咎人も、クレアの〝浄化〟を前にする事で、その〝穢れ〟は洗い流されていくのだ。
「わたしは……妻と子が居るのにどうしてあんな事を……」
「ミネルバ様は全てを見守っています。あとはこれから、あなたがどうするかです」
「嗚呼……ありがとうございます。クレア様」
信徒と聖女の一対一。洗礼室の内部に監視の眼は行き届かない。が、礼拝堂には神官と騎士団の警備部隊が配置され、聖女へ危害を加える者が居ないか厳重に警戒をした上で行われる。
「王子よ、どうして毎月こんな茶番をしているのだ?」
「それは勿論、聖女クレアのためだよ」
礼拝堂の入口付近にて、礼拝堂から洗礼室へ続く専用扉付近を遠目に眺めつつ、二人の男が腕を組んだまま会話をしていた。グリモワール王国第一王子――エルフィン・ネオ・スペーシオと、騎士団を率いる公爵家嫡男――ソルファ・ゴールドバークだ。
警備の者達へ聞こえない程度の声で、ソルファへ演説をする王子はいつもの調子だ。聖女と対面出来る機会がある事を民へ知らせる事で、より民は信仰を深め、善行へと向かう。これは表向きの理由。
しかし、この洗礼の儀式には裏の理由が存在していた。
「それはつまり……」
「クレアの王国に対する疑念や一切の曇りを晴らすため」
「成程」
これが神殿や地方の教会で日々行われる通常の懺悔ならば、結界が張ってある部屋で行う必要もなければ、信徒を選定する必要すらない。だが、この聖女自ら執り行う洗礼の儀式においては違っていた。面会出来る者は、神殿……否、王宮側が用意した聖女クレアの精神にとって有益となる者のみ。
国家へ仇なす者は勿論、王国や聖女システムへ害を及ぼす可能性がある者が聖女クレアと相対する事は、王宮にとって許されない事態なのだ。
「クレアはいつも〝浄化〟しているあの汚泥も日常過ごしていれば必ず生じるものだと信じている。
「これも国家発展のためか。流石はエルフィン王子と言ったところか」
「聖女クレアが居なければ王国は破綻する。嗚呼、僕の苦労もたまには
「ははは。今度王子へとびきりの女でも紹介しようか?」
「嗚呼、是非そうしてくれ」
丁度、エルフィンとソルファがそんな下衆な会話をしている時だった。洗礼室へ続く回廊中央にあるゲートと、扉前にある結界を抜け、黒いフードを被った一人の信徒が洗礼室の椅子に座り、聖女クレアと対面していた。たとえ如何なる容姿であろうと分け隔てなく平等に接するクレアは、入室して来た信徒へ疑いの眼差しを見せる事無く微笑みかける。
「本日はどうなされたのですか?」
「聖女様、お気をつけ下さい」
「え?」
「聖女様はこの世に絶望した事はありますか? この世は欺瞞と疑念だらけ。正直者は莫迦を見て、人を欺く事で欲望のままに生きる者が得をする。そんな世界、あっていいと思いますか?」
クレアは思う。この信徒はきっと、世界に絶望してしまうような、辛い出来事を経験したのだと。彼女自身、過去、世界に絶望はせずとも、そうなるに値する程の苦しい体験を妹と共に経験した上で、今聖女として此処に存在しているのだ。
だからこそクレアは、自身の眼前で嘆き、苦しむ信徒を放っておけない。
「そうですか。あなたは絶望するに値する経験を経て、今こうして生きているのですね」
「……!?」
それまで目深にフードを被り、クレアと目を合わそうとしていなかった信徒は息を呑んで、初めて眼前で微笑む聖女の顔を直視する。そこに女神が居た。クレアは信徒の表情を確かめるかのように、ゆっくりと語り掛ける。
「あなたがいま生きているという事は、女神さまがあなたへ生きる道を示しているのでしょう。あなたが為すべき事は、その絶望から希望を導き、運命を変える事です」
「……な!?」
「欲望に溺れる事は身を滅ぼします。ですが、仕来り、身分、抑圧、その枷を外し、少しは己の望む何かに向かって思うまま生きる事もいいのかもしれませんね」
果たして聖女の瞳は何処まで視えているのか? 信徒は目を閉じ、黙ってクレアの言葉を反芻する。そして、フードを被ったまま髪を少しずらし、鳶色の瞳を片目だけクレアに見せる。
「成程。流石はグリモワール王国の聖女様、
「ふふ、やっと少し
眼前の男の雰囲気が変わっても、クレアは全く動じず相対していた。そう、初めから彼女は気づいていたのだ。眼前の男がただの信徒ではないという事を。それを分かった上でもう一度、聖女は信徒へと尋ねる。
「本日はどのようなご用件で来られたのでしょう?」
「今日はあんたへ密告に来た」