その日の夜、静謐室の扉をノックした人物は、レイでもアーレスでもなかった。
「アンリエッタ様、夜分遅くに申し訳ございません」
「その声は……ノーブルさん? どうぞ、お入り下さい」
「失礼致します」
何やらカートに茶器を乗せて入室して来たノーブルさん。恭しく一礼した後、わたしの横で紅茶を淹れてくれた。魔国と取引があるドワーフの国――ノルマンディアで採れた茶葉を使った紅茶らしい。
オレンジをスライスしたものを紅茶の上に乗せ、ノーブルさんがベッドの横にあるサイドテーブルへ置いてくれた。紅茶と共にお皿に添えられたシフォンケーキはナタリーさんの手作りらしい。
「アンリエッタ様、ご無事で何よりでございました」
「ノーブルさん、ありがとうございます。ミルフィー王女には何とお詫びすればよいのか。申し訳ございませんでした」
横に失礼しますとノーブルさんがゆっくり椅子へと腰かける。どうやらわたしに話があったみたい。
「あれは決闘故、アンリエッタ様はあくまで死力を尽くしたまで。アンリエッタ様がご心配する事はありません」
「ですが、全身に大きな火傷を負ったと聞きました」
「魔国の治療薬で回復する程度の傷です。お嬢様も魔女の端くれ、炎がぶつかる直前に張った魔法結界は見事なモノでした」
心配には及ばないとノーブルさんに念を押さえる。紅茶の温かさと添えられたオレンジの酸味が口元から身体全体へと広がって来る。程よく甘いシフォンケーキは、私を気遣ってくれたナタリーさんの優しさが溢れている……そんな気がした。
オレンジティーとシフォンケーキにひと呼吸置いて、心を落ち着かせたタイミングで、ノーブルさんが改めてわたしにある提案をする。それはわたしが思ってもみなかった提案だった。
「アンリエッタ様、一つお願いがあります」
「わたしに出来る事であれば」
「お嬢様。ミルフィー・ラミア・カオスロード様とお友達になって下さいませぬか?」
「え?」
聞くと、ミルフィー王女は、兄であるレイと幼い頃よりお世話をしていたノーブルさん以外、誰とも心を通わせた事がないのだと言う。わたしと一緒で、幼い頃に母の死を経験している王女様。お姉さまがわたしの傍に居たように、ミルフィー王女もお兄様であるレイが傍に居たんだろう。周囲へ心を閉ざしてしまって当然だ。
「過去の経験から、お嬢様は強くなろうと魔力を高める鍛錬をし、次期魔女としての力を蓄えていったのです。それゆえに同年代の誰よりも強くなってしまい、お嬢様と対等に話せる者も居なくなってしまった……」
気づけば一人になってしまった王女様。ノーブルさんが、そんなミルフィー王女の身を案じるのは当然だ。
「アンリエッタ様はお嬢様の魔力を圧倒し、決闘に勝利した。お嬢様はショックな出来事だったと思いますが、
「きっかけ……ですか?」
「孤立から脱却するきっかけ。お嬢様が過去と決別し、未来へ踏み出すきっかけです」
ミルフィー王女の心は過去に囚われている。レイと心は通わせているものの、まだ彼女は冷たく固く閉ざされた氷の中に居る。わたしの炎がミルフィー王女の氷を解かす。そんなきっかけになればとノーブルさんは補足してくれた。
「分かりました。静謐室を出たら、王女様とお話してみようと思います」
「出来る限り某も助力します故、何かございましたら、何なりとお申しつけ下さい」
ノーブルさんと固い握手を交わす。
わたしに何が出来るのかはまだ分からないけれど、少しずつ、根気よくミルフィー王女と対話していこうと思う。
「それとアンリエッタ様。カオスローディア城の図書館はご存じですかな?」
「あ、いえ……行くきっかけが無かったので」
「あそこには魔法に関する本や魔国の歴史、そして、先の戦争に関する資料も沢山ございます。レイ様とお嬢様の母であるシャルル・メーティア・カオスロード様の死や、グリモワール王国の聖女レイシア殿の話なども載っております故、お時間ある時に覗いてみて下され」
「お母様の!? ありがとうございます。今度行ってみます」
お母様の名前に殿を付けるあたりに、ノーブルさんの配慮を感じる。レイの母親である皇帝の妃――シャルル妃の死。そして、聖女レイシア――お母様の死。
魔国にとって、戦争の仇であったグリモワール王国。魔国カオスローディアとグリモワール王国との間で一体何があったのか? わたしは知る必要がある。
何が偽りで何が真実だったのか? グリモワール王国では、悪魔と契約している魔国は全面的に悪とされていた。色んな出来事がありすぎた今、わたしは、グリモワール王国が正義だったのかすら分からなくなっていた。
「お疲れのところ、長くお話してしまいまして申し訳ございません」
「いえいえ、とんでもないです! ありがとうございました! 紅茶も美味しかったし……あ! ナタリーにもお礼を言っておいて下さい」
「承知致しました。それではごゆっくりお休みくださいませ」
「おやすみなさいです、ノーブルさん」
こうして、静謐室での夜は更けていく。
部屋の窓から見えた月は十三の
まだまだやるべき事は山ほどあるけれど、お姉さまに近づくため、真実を知るため、わたしは一歩一歩、前へ進んで行こうと思う。