ロンドンの喧騒、ガザの悲鳴
ロンドン。冷たい雨が降りしきる中、30万人を超える群衆が怒りの声を上げていた。イスラエルによるガザ侵攻に反対するデモ隊は、プラカードを掲げ、叫び声をあげながら街を埋め尽くしていた。「ガザに自由を!」「虐殺を止めろ!」プラカードには血痕のような赤い塗料が飛び散り、生々しい怒りを体現していた。
未来調整官fuは、テムズ川を見下ろす高層ビルの一室で、この光景をモニター越しに眺めていた。彼の任務は、世界各地で発生する紛争や対立の火種を、事前に摘み取ること。時間軸をわずかに操作し、関係者の言動や行動に介入することで、最悪の事態を回避する。それが、fuの存在意義だった。
だが今回は、事態が複雑すぎた。ガザ地区では、イスラエル軍とパレスチナ武装勢力の衝突が激化。イスラエル軍の空爆により、ヌッセイラート難民キャンプで多数の死傷者が出ているという情報が、彼の元に届いていた。さらに、ガザ地区北部のシファ病院では、燃料不足により電力が途絶。新生児を含む多くの命が危機に瀕していた。
fuは、事態を沈静化させるため、いくつかの介入を試みた。まず、ロンドンのデモ隊の一部に、過激な行動を控えるよう、潜在意識レベルで働きかけた。次に、イスラエル軍の強硬派幹部の発言を、わずかにトーンダウンさせるよう、時間軸を調整した。
しかし、何かがおかしい。彼の介入にも関わらず、デモは過熱し、イスラエル軍の攻撃も止まらない。それどころか、イスラエル兵5人が死亡したという情報が、新たに飛び込んできた。わずかなズレ。原因不明のノイズが、彼の介入をことごとく無効化しているかのようだ。
fuは、シファ病院の状況をさらに詳しく分析した。イスラエル国防軍は、病院入り口に燃料300リットルを置いたと主張しているが、病院側は受け取りを拒否。双方の言い分は食い違い、事態は混迷を極めていた。
「くそっ、何故だ!」
fuは苛立ちを隠せない。時間軸操作の精度は、これまで常に100%だった。今回は違う。見えない力が彼の邪魔をしているようだ。
燃料と偽情報、すれ違う善意
シファ病院の危機は、刻一刻と深刻化していた。電力が途絶えた病院では、手術室が使用不能となり、多くの負傷者が死の淵をさまよっている。新生児室では、保育器の酸素供給が止まり、すでに3人の新生児が命を落としていた。
fuは、最後の手段として、イスラエル国防軍の燃料提供を、確実なものにする作戦を実行に移した。国際赤十字社を経由し、燃料を病院側に届けるよう、関係各所に働きかけたのだ。さらに、病院長に対し、イスラエル側の狙撃の危険はないと、誤解を解くためのメッセージを送った。
結果は最悪だった。国際赤十字社の燃料輸送車は、何者かによって爆破され、病院への燃料供給は完全に途絶えた。さらに、fuが送ったメッセージは、何故か歪曲され、病院側に「イスラエル軍は、病院に侵入し、患者を虐殺する計画だ」という誤った情報として伝わってしまった。
「何が起きている?」
fuは、事態の急変に愕然とした。彼の介入が、ことごとく裏目に出ている。まるで、誰かが意図的に、事態を悪化させているかのようだ。
イスラエルのヘルツォグ大統領は、ガザ地区北部のアルクッズ病院への攻撃を否定し、「電気があり全面的に機能している」と主張。ネタニヤフ首相は、シファ病院について「病院を機能させ保育器などを動かすのに十分な燃料を提供すると申し出た」が拒否されたと主張した。
国際社会は、イスラエルに対する非難の声を強めた。ロンドンをはじめとする世界各地で、デモがさらに激化した。一方、イスラエル国内では、強硬論が台頭し、事態は収拾がつかない状況へと陥っていく。
fuは、時間軸を何度も巻き戻し、原因を究明しようとした。しかし、どうしてもノイズの発生源を特定できない。時間軸操作のアルゴリズムに異常はない。介入のタイミングも完璧だったはずだ。
「まさか、量子干渉か?」
fuは、一つの可能性に思い至った。量子力学の世界では、観測者の意識が、観測対象に影響を与えることが知られている。何者かが未来を観測し、意図的にfuの介入を阻害しているとしたら?
その考えが、彼の脳裏に不吉な影を落とした。もしそうなら、彼の力は、もはや無力に等しいことになるからだ。
深まる混迷、見え隠れする陰
シファ病院の状況は、絶望的だった。燃料が尽き、医療機器は完全に停止。手術を受けられずに死亡する患者、保育器の中で息絶える新生児。病院内は、地獄絵図と化していた。
fuは、もはやこれまでと覚悟を決めた。時間軸操作の権限を、全て放棄することを決意したのだ。介入すればするほど、事態は悪化する。ならば、何もしない方が、まだましだ。
彼が権限を手放す寸前、新たな情報が飛び込んできた。シファ病院周辺で、特殊な電磁波が観測されたというのだ。それは、時間軸操作に使用されるものと、酷似した波形だった。
「まさか、他に未来調整官がいるのか?」
fuは、背筋が凍るのを感じた。時間軸操作の権限を持つ者が他に存在し、意図的に事態を悪化させているとしたら…。
fuは、電磁波の発信源を特定するため、最後の時間軸操作を実施する。ほんの数秒だけ、時間を巻き戻し、発信源の座標を割り出すことに成功した。その瞬間、今まで経験したことのない激しい頭痛が彼を襲った。脳を直接叩き割られるような痛みだった。
座標が表示される。ロンドンの、fuが最初に事態を監視していた高層ビルだった。
「一体、誰が…」
fuは、意識を失う寸前、一瞬、モニターに映し出された人影を見た。紛れもなく、彼自身の姿だった。
残響、そして未来へ
fuは病院で目を覚ました。激しい頭痛と吐き気に襲われながらも、彼は状況を把握しようと努めた。
警察は、彼を単なる過労による体調不良と診断したが、fuはそれを信じなかった。時間軸操作の後遺症、あの電磁波。全てが、見えない敵の存在を示していた。
テレビをつけると、シファ病院の惨状が繰り返し報道されていた。イスラエルは国際社会からの非難を浴び、パレスチナとの和平交渉は完全に決裂。世界は、再び混沌の淵へと突き進もうとしていた。
fuは、病室のベッドに横たわりながら、これまでの出来事を振り返った。彼の介入は、なぜ失敗したのか。あの電磁波は何だったのか。モニターに映っていたもう一人の自分は何者なのか。
答えは、まだ見つからない。一つだけ確かなことは、彼はまだ戦わなければならないということだ。見えない敵と、彼自身の過去または未来と。
fuは、窓の外のロンドンの街並みを見つめた。雨は上がり、空にはわずかな光が差し込んでいる。彼は、静かに拳を握りしめた。少なくとも未来は、まだ決まっていない。未来調整官である彼だけが、それを変えることができる。