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第36話_刻印のジレンマ

未来調整官fuは、眉間の皺を深く刻みながら、タイムラインの微修正に没頭していた。


ヨルダンのアブドゥラ国王の発言、シファ病院の惨状、ハマスの譲歩。全ては精密なドミノ倒しのように連鎖し、中東和平への僅かな希望の光を掻き消そうとしていた。fuの任務は、この負の連鎖を断ち切り、歴史の歯車を希望の方向へ――僅か0.02秒だけ――ずらすことだった。


「アクセスコード:デルタ・エコー・セブン・ナイン。事象干渉レベル3、ターゲット:アブドゥラ国王発言内容、修正開始」


fuは特殊コンタクトレンズ越しに、ARインターフェースを操作した。メタバース空間に浮かぶ時間軸グラフが揺らぎ、国王発言箇所にハイライトが点灯する。修正内容は極めて限定的。紛争解決への道筋として「イスラエルによるパレスチナ領の占領」に言及した部分を、より中立的な「歴史的経緯」に置き換える。わずかな変化が、連鎖反応を抑制するはずだった。だが…。


「エラーコード:アルファ・ゼロ・ゼロ・ワン。原因不明のタイムラグ発生。修正失敗」


冷や汗がfuの背筋を伝う。同様のエラーは、つい先日、レバノンのヒズボラによるイスラエル攻撃を未然に防ごうとした際にも発生していた。今回もまた、不可解なズレが生じ、修正は空振りに終わった。


修正失敗の報を受けた過去補填官paは、苛立ちを隠せない様子で通信してきた。「fu、状況把握してる?国王発言は世界中に拡散済みよ。情報修正はもはや不可能。代替策を提示して」


fuは歯噛みした。プランBの発動だ。シファ病院へのイスラエル軍の侵攻を阻止するため、イスラエル軍通信網への偽情報注入を試みる。病院にハマス戦闘員が潜伏しているという虚偽報告を流し込み、侵攻を正当化する根拠を覆す作戦だ。


「擬態プロトコル:ガンマ・ロータス・フォー。イスラエル国防軍C4ISRシステムへのアクセス開始」


C4ISR、つまり指揮統制通信コンピュータ情報監視偵察システム。fuは高度なハッキング技術を駆使し、イスラエル軍内部ネットワークへの侵入を試みた。ファイヤーウォールを突破し、ターゲットサーバーに到達。偽情報のパケットを送信する。


「データアップロード完了…待て。通信ログ異常あり。情報漏洩の可能性…!」


fuが気づいた時には既に遅かった。イスラエル側は、fuのハッキングを察知し、偽情報を逆手に取った。病院への侵攻は継続され、さらに、ハッキングを「ハマスによるサイバー攻撃の証拠」として国際社会に公表した。イスラエルの正当性をアピールする材料へと、fuの工作は利用されてしまったのだ。


「fu、一体何をやってるの!?あなたの介入で状況は悪化してるわ!」paの声は怒気を帯びている。


事態はさらに混迷を極めた。イスラエルによる「ハマスからのサイバー攻撃」の公表は、国際世論を二分し、停戦交渉は暗礁に乗り上げた。ガザ北部は更なる医療崩壊に見舞われ、人道的危機は深刻さを増していく。


「駄目だ…何もかも裏目に出ている」fuは呟いた。修正は失敗し、代替策は逆効果。不可解なタイムラグ、予想外の情報のリーク。まるで何者かが、fuの行動を先読みし、妨害工作を仕掛けているかのようだった。


「想定外の事態発生。メタバース空間における時間軸に歪みが確認された。原因不明」ARインターフェースに警告メッセージが点滅する。


「時間軸の歪み…?」fuは息を呑んだ。彼が知る限り、このような現象は前例がない。この歪みが、タイムラグや情報漏洩の原因なのか?それとも、背後により大きな陰謀が隠されているのか?


「fu、ハマスから新たな通信が入ったわ。カタールへの人質解放提案、撤回だって」paの言葉がfuの思考を断ち切った。


ハマスの人質解放提案の撤回。それは、和平への最後の希望の光が消えたことを意味していた。事態はもはや、fu一人の力で制御できる範囲を超えていた。


「このままでは…」fuは呟き、視線をARインターフェースに向けた。時間軸グラフは激しく揺らぎ、不吉な赤色に染まっている。絶望的な状況の中、fuの脳裏に一つの考えが浮かんだ。


禁じ手、「因果律操作」。


それは時間軸そのものに干渉する危険な技術であり、使用は厳しく制限されていた。


「pa…最終手段を使うしかない」


fuの言葉に、paは言葉を失った。時間軸への直接介入は、計り知れないリスクを伴う。最悪の場合、歴史の改変、あるいは時空の崩壊さえ引き起こしかねない。


「本当に…やるの?」paの問いかけに、fuは力なく頷いた。背後には、炎に包まれるガザの街、泣き叫ぶ子供たち、そして、静かに迫りくるタイムリミットがあった。


「因果律操作、実行準備開始。アクセスコード:オメガ・ゼロ・ゼロ・ゼロ」


fuは震える手で、ARインターフェースにコードを入力した。メタバース空間に投影された時間軸グラフが、赤く脈動し始める。


paは、なおもfuを制止しようとした。「待って、fu!他に方法があるはずよ。時間軸への直接介入は、取り返しのつかないことになるかもしれないわ!」


fuは、苦渋の表情でpaを見つめた。


「分かっている。でも他に道はない。このままでは、ガザは壊滅し、中東全域が戦火に包まれる。何としても、この悲劇を食い止めなくては」


「目標設定:ハマスの人質解放提案撤回事象。介入レベル:デルタ。因果律操作、開始」

fuがトリガーを引くと、ARインターフェースから眩い光が放たれた。時間軸グラフは激しく歪み、現実世界とメタバース空間の境界が曖昧になっていく。fuは、意識が朦朧とするのを感じながら、一点に集中した。ハマスが人質解放提案を撤回した瞬間、その因果律を書き換えるのだ。


時間と空間が歪み、fuの意識は過去のガザへと引き戻された。ハマスの幹部たちが、人質解放提案の撤回を決定する会議室。fuは、彼らの思考に介入し、決断を覆そうとした。ところが、時間軸の歪みは予想以上に大きく、fuの干渉は正確さを欠いていた。


fuの介入は、ハマスの幹部たちに、奇妙な誤解を生じさせた。彼らは、イスラエル側が停戦交渉に真剣に取り組んでいない証拠を掴んだと思い込み、人質解放提案を撤回するどころか、イスラエルへの更なる攻撃を決定してしまったのだ。


「エラーコード:アルファ・ゼロ・ゼロ・ツー。因果律操作、失敗。時間軸乖離率:0.03秒」ARインターフェースの無機質なアナウンスが、fuの絶望を決定づけた。


「fu!どうなったの!?」paの悲鳴のような声が響く。


fuは、虚ろな目でpaを見つめた。


「…失敗した。状況は、さらに悪化してしまった」


イスラエルへの攻撃強化を決定したハマスは、ガザ地区南部に潜伏させていた特殊部隊を機動させた。部隊の目的は、イスラエル領内への潜入と、民間人へのテロ攻撃だった。


「ハマス特殊部隊、イスラエル領内へ潜入開始を確認。推定目標:テルアビブ市街地」ARインターフェースに、新たな警告メッセージが表示された。


「テルアビブへのテロ攻撃…!?そんな…」


paは絶望に打ち慄いた。もし、テルアビブでテロが発生すれば、イスラエルの報復攻撃は避けられない。中東和平への希望は完全に潰え、全面戦争へと突入するだろう。


fuは、自らの無力さを呪った。二度目の介入失敗。更に悪化した状況。不可解なタイムラグ、情報漏洩、時間軸の歪み。何者かがfuの行動を予期し、意図的に妨害しているかのようだった。


「fu、諦めないで!まだ、何か方法があるはずよ!」


paの必死の言葉が、fuの心にわずかな光を灯した。


「…そうだ。まだ、諦めるわけにはいかない」fuは、再びARインターフェースに向き合った。「pa、イスラエル国内の治安部隊、特にシンベットとモサドの通信網にアクセスできるか?」


「できると思う。でも、時間は限られているわ」


paは、すぐに作業に取り掛かった。


fuは、メタバース空間上で、ハマス特殊部隊の位置情報を確認する。部隊は、既にイスラエル領内に深く潜入し、テルアビブ市街地へと向かっていた。


「pa、ハマス特殊部隊の位置情報を送信する。イスラエル治安部隊に警告を発信してくれ。民間人への被害を最小限に抑えなくては」


「了解。でも、イスラエル側が、私たちの警告を信用する保証はないわ」paは、不安げに答えた。


fuは、深く息を吸い込んだ。「今は、それしか方法がない。祈るしかない…」


タイムリミットは刻一刻と迫っていた。テルアビブ市街地では、人々が日常を送っている。fuは、祈るような気持ちで、ARインターフェースを見つめた。



paからの情報提供は迅速だった。


イスラエル治安機関シンベットとモサドの通信網へのアクセスに成功し、ハマス特殊部隊の潜入情報、推定目標であるテルアビブ市街地、そしてテロ攻撃の可能性をリアルタイムで伝達した。fuは、イスラエル側が警告を真剣に受け止め、迅速な対応を取ってくれることを祈るしかなかった。


ARインターフェース上のハマス特殊部隊の位置情報マーカーは、テルアビブ市街地の心臓部へと着実に近づいていた。fuの心臓は、時間軸の歪みと呼応するかのように、不規則に脈打っていた。


「fu、イスラエル治安部隊が動き出したわ!特殊部隊の潜入経路周辺に検問を展開し、市街地への警戒レベルを引き上げてる」


paの声に、fuはかすかな希望の光を見た。が、安堵は束の間だった。

「待て、pa…何かおかしい。特殊部隊のマーカーが…消えた?」


ARインターフェース上、ハマス特殊部隊の位置情報マーカーが突如として消失した。通信途絶、もしくは高度な隠蔽工作。いずれにせよ、事態は予期せぬ方向へ進み始めた。


「情報撹乱工作…?」fuは呟いた。彼の脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。イスラエル治安部隊の動きを察知したハマスが、意図的に情報撹乱工作を行い、追跡をかわそうとしているのではないか。


「pa、イスラエル側の通信傍受を強化してくれ。ハマス特殊部隊の新たな動向を掴む必要がある」


「了解。でも、ハマスが高度な暗号通信を使用している可能性もあるわ。解読に時間がかかるかもしれない」paは、険しい表情で答えた。


時間との戦いだった。ハマス特殊部隊が、いつ、どこでテロ攻撃を実行するかは予測不可能だった。fuは、最悪の事態を想定し、準備を進めた。


「pa、プランCを発動する。特殊部隊がテロを実行した場合に備え、テルアビブ市街地の重要施設周辺に、ナノマシン・バリアを展開してくれ」


ナノマシン・バリア。fuが開発した、超小型のナノマシンによって構成される防御壁。爆発の衝撃波や破片を吸収・拡散し、被害を最小限に抑えることが可能だ。一方で、広範囲への展開には莫大なエネルギーを必要とする。使用は極めて限定的だった。


「了解。ナノマシン・バリア展開開始…完了まで5分」


5分。それが、fuに残された時間だった。ARインターフェース上に、テルアビブ市街地の3Dモデルが表示される。重要施設周辺に、薄い青色のバリアが徐々に展開されていく。


その時、paから緊急連絡が入った。


「fu!ハマス特殊部隊の通信を傍受!目標は…テルアビブ証券取引所!」


「証券取引所…!?民間人への無差別テロ…」fuは、怒りで体が震えた。


「特殊部隊、テルアビブ証券取引所へ接近中!到着まで、あと3分!」


paの声に、fuは決断を迫られた。ナノマシン・バリアの展開は完了まであと2分。特殊部隊の到着まで3分。このままでは、間に合わない。


fuは、苦渋の表情で決断を下した。


「pa、ナノマシン・バリアの展開範囲を縮小し、テルアビブ証券取引所周辺に集中させてくれ。他の施設は…諦めるしかない」


「でも、fu…!他の施設が無防備になるわ!」paは、fuの決断に反対した。


「分かっている…分かってはいるが、今は証券取引所を優先するしかない。最大多数の市民の命を救うために…」fuは、目を瞑り、祈るように呟いた。


ARインターフェース上で、ナノマシン・バリアの展開範囲が変更される。テルアビブ証券取引所周辺のバリアは厚みを増し、青白い光を放っている。


「特殊部隊、テルアビブ証券取引所到着まで、あと1分!」


paの声が緊迫感を高める。


fuは、息を呑んでその時を待った。彼の掌には、冷や汗が滲んでいた。



「特殊部隊、テルアビブ証券取引所到着。爆弾設置を確認!」


paの声が、fuの鼓膜を叩いた。


ARインターフェース上のテルアビブ証券取引所の3Dモデルが赤く点滅し、爆弾設置場所を示すマーカーが表示された。ナノマシン・バリアは、既に最大出力で稼働していた。


「起爆まで、あと30秒!」


paのカウントダウンが、fuの心臓を締め付ける。


20秒…15秒…10秒…


fuは、固唾を飲んでその時を待った。時間軸の歪みは、依然として収まる気配を見せず、予期せぬ事態が発生する可能性も否定できなかった。


5秒…4秒…3秒…


fuは、目を瞑り、心の中で祈った。どうか、市民に被害が出ませんように…


2秒…1秒…


その時、ARインターフェース上に、新たな警告メッセージが表示された。


「警告:時空間異常検知。因果律崩壊の危険性あり」



爆弾が爆発した。



爆発の規模は、想定をはるかに下回るものだった。ナノマシン・バリアは、爆弾のエネルギーの大部分を吸収し、衝撃波と破片を拡散することに成功した。


「fu!爆発を確認!被害は最小限に抑えられた模様!ナノマシン・バリアが機能したわ!」


fuは、安堵の息を吐き出した。最悪の事態は避けられた。


「pa…警告メッセージの意味を調べてくれ。『時空間異常』『因果律崩壊』…何かがおかしい」


paは、すぐに調査を開始した。


数分後、信じられない報告がfuのもとに届いた。


「fu…信じられないわ…ハマス特殊部隊が使用した爆弾…あれは、ただのダミーだったの」


「ダミー…?」fuは、言葉を失った。


paは、続けた。「イスラエル治安部隊が、爆発現場を調査した結果、爆弾は精巧に作られた偽物だったことが判明したの。爆発による被害が最小限だったのは、ナノマシン・バリアのおかげじゃない。爆弾自体に殺傷能力がなかったからよ」


fuは、頭を抱えた。ハマス特殊部隊の真の目的は何だったのか?なぜ、ダミー爆弾を使用したのか?「時空間異常」「因果律崩壊」の警告メッセージは何を意味するのか?


「fu…もう一つ、気になる情報があるわ。イスラエル治安部隊が、ハマス特殊部隊のメンバーを拘束したんだけど…彼らの供述によると、彼らは『未来から来た人物』に指示を受けて行動していたらしいの」


「未来から来た人物…?」fuは、背筋に冷たいものを感じた。


paは、深刻な表情で頷いた。「ええ。彼らは、『未来調整官』と名乗る人物から、ダミー爆弾を設置するように指示されたと供述しているらしいわ」


fuは、全てを理解した。タイムラグ、情報漏洩、時間軸の歪み、そして、今回のダミー爆弾事件。全ては、未来のfu自身による干渉だったのだ。


未来のfuは、何らかの理由で、過去のfuの行動を妨害し、事態を悪化させようとしていた。なぜ?


fuは、深い絶望に囚われた。彼は、知らず知らずのうちに、自らの手で未来を破壊していたのだ。しかも、その連鎖は、まだ終わっていない。


「fu…どうするの…?」paの不安そうな声。


fuは、ゆっくりと顔を上げた。彼の目は、これまでとは違う、何かを決意したような強い光を放っていた。


「戦うしかない…未来の自分と」

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