目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第40話_境界線上の調律者

アル・シファの残響



fuは額に滲む汗を拭い、ホログラムディスプレイに映し出されるアル・シファ病院の惨状を凝視した。ICUに収容されていた患者の大半が死亡…酸素と燃料の供給不足。無機質な文字情報が、生々しい死の重みを帯びて迫ってくる。


「クソっ…間に合わなかったか…」


舌打ちと共に呟く。未来調整官であるfuの任務は、歴史の分岐点となりうる事象に対し、「微調整」を施すことで最悪の未来を回避すること。だが、今回は手が届かなかった。ディスプレイの端に表示された現在時刻と死亡者数の予測グラフが、刻一刻と事態の悪化を告げている。


「fu、アル・シファの件、あなたでも無理だったのね」


背後から聞こえた声に、fuは振り返る。そこに立っていたのは過去補填官のpa。長い黒髪を一つに束ね、淡いブルーのスーツを身に着けた姿は、一見冷静沈着な印象を与える。その眼差しには、どこか冷たい光が宿っていた。


「ああ。ガザ地区への物資搬入ルートを確保しようとしたが、イスラエル軍の警戒網が予想以上に強固で…」


「言い訳は結構。結果が全てよ。それにしても、あなたらしくない。いつものあなたなら、どんな手を使ってでも…」


paの言葉には棘がある。過去補填官である彼女は、歴史の「歪み」を修正する役割を担う。歴史の改変は未来に重大な影響を及ぼす可能性があるため、未来調整官であるfuとは常に緊張関係にあった。


「今回は状況が違う。イスラエル軍の動きが…まるで、未来を知っているかのように…」


「未来を? まさか。そんなことは…」


paは一瞬言葉を詰まらせた。すぐにいつもの冷静さを取り戻す。


「憶測で話を進めるのはやめて。あなたの任務は、事態を収束させること。感情に流されて判断を誤るようなことがあれば…」


「分かっている」


fuはpaの言葉を遮った。感情が高ぶるのを抑えながら、ホログラムディスプレイに新たな情報を呼び出す。ハンユニス、デア・アル・バラハ、ナブルス…ガザ地区とヨルダン川西岸地区で相次ぐ空爆と死傷者の報告。事態は急速に悪化の一途を辿っている。


「ジェニンの電力供給が遮断された。イスラエル軍は完全に封鎖するつもりだ」


「ジェニン? あそこは…」


paが眉をひそめる。ジェニンは、パレスチナ武装勢力の拠点の一つ。イスラエル軍の強硬な姿勢は、さらなる衝突を招きかねない。


「このままでは、全面戦争に発展する可能性もある。そうなれば、中東情勢は制御不能になる…」


「あなたに何ができるの? もう時間がない」


「やってみるしかない」


fuは、掌に装着した小型デバイスを起動した。量子コンピュータに接続されたこのデバイスは、あらゆる情報を解析し、最適な介入方法を瞬時にシミュレーションできる。


「まず、ジェニンの電力供給を回復させる。次に、イスラエル軍の通信システムにハッキングし、誤情報を流す。一時的にでも、彼らの動きを鈍らせる必要がある」


「危険すぎる。そんなことをすれば、あなたが未来調整官だとバレてしまう」


「他に方法はない。このまま傍観しているわけにはいかない」


fuはデバイスの操作を始めた。量子暗号化された通信回線を突破し、イスラエル軍の電力供給システムに侵入する。複雑なコードを書き換え、ジェニンへの電力供給を再開する。同時に、イスラエル軍の通信システムに偽の指令を送信する。標的座標の変更、部隊の移動経路の変更…一連の作業を数秒で完了させた。


「ジェニンの電力供給は回復した。イスラエル軍の動きも一時的に混乱しているはずだ」


「これで全てが終わるわけじゃない。一時しのぎに過ぎないわ」


paの言葉は正しい。fuの介入は、あくまで時間稼ぎでしかない。事態の根本的な解決には、もっと別の…より危険な方法が必要になる。



未来からの干渉



その夜、fuは再びpaと対峙していた。場所は、エルサレムの旧市街にある隠れ家。ホログラムディスプレイには、エルサレムの検問所で発生した襲撃事件と、イスラエル兵の死亡、ハマス戦闘員の全滅、の様子が映し出されている。


「事態は、さらに悪化している。このままでは…」


「制御不能、ね。相変わらず同じセリフね」


現れたのは、paだった。だが、いつものpaではない。服装は黒いタイトなレザースーツ、髪は短く刈り上げられ、顔には深い傷跡が刻まれていた。


このpaは、未来から来たpaだ。


「未来の…pa? なぜここに?」


fuは驚きを隠せない。未来から来たpaの出現は、歴史に大きな影響を与える可能性がある。


「あなたを止めに来た。これ以上、歴史に干渉するな」


未来paの言葉は冷たく、感情が感じられない。機械のようだ。


「止めろ、と言われても…このままでは、多くの命が失われる」


「それが歴史だ。お前が何をしようとも、流れを変えることはできない」


「流れを変える? 私は流れを調整しているだけだ。最悪の未来を回避するために…」


「戯言だ。お前の『調整』が、どれほど多くの歪みを生み出してきたか、分かっているのか?」


未来paの眼光が鋭さを増す。


「アル・シファの件も、あなたの仕業ね」


「アル・シファ? どういうことだ?」


fuは混乱していた。アル・シファの惨状は、彼の力の及ばないところで起きたはずだ。


「あなたは、イスラエル軍の通信システムにハッキングした。その結果、物資搬入ルートが変更され、アル・シファへの支援が遅れた」


「違う、私は…」


「言い訳は結構。あなたがやったことは、結果として多くの命を奪った。そして、それは始まりに過ぎない」


未来paは、腕に装着したデバイスを操作した。ホログラムディスプレイに、新たな映像が表示される。それは、中東全域が戦火に包まれ、荒廃した都市と無数の死体が横たわる光景だった。


「これが、あなたの『調整』の結果だ。未来は、あなたによって破滅に向かっている」


fuは言葉を失った。自分が良かれと思ってやってきたことが、最悪の未来を招く原因になったというのか? そんなことは…


「なぜ、こんなことに…」


「過去は変えられない。お前は、自分の行動の結果を受け入れるしかない」


未来paは、冷酷に言い放った。


「私は、お前の『調整』をリセットする。歴史を正しい流れに戻す」


未来paは、再びデバイスを操作した。次の瞬間、fuの身体は激しい痛みに襲われた。意識が遠のくなか、fuはpaの顔を見た。paは、何も言わずに、ただ静かにfuを見つめていた。



過去の鎖、未来の鍵



fuが目覚めたのは、見覚えのない場所だった。薄暗い室内、壁には無数の配線が張り巡らされ、機械音が響いている。身体はまだ少し痛むが、意識ははっきりしていた。


「ここは…?」


「ここは私のラボよ。しばらく休んでいて」


声の方に目を向けると、そこには現在のpaがいた。


「未来の…paはどうした? なぜ、私はここに?」


「未来の私…彼女は、あなたを消そうとした。私が止めたの」


「なぜ? 未来の君は、私を歴史の歪みだと…」


「ええ、確かにあなたはそうかもしれない。でも、あなたを消すことは、新たな歪みを生むことになる。それだけは避けたかった」


paの言葉には、どこか複雑な感情が滲んでいる。


「未来の私は、感情を捨てた。過去への執着を断ち切り、ただ機械のように任務を遂行する存在になった。けれど、私は違う」


「過去への執着…?」


「ええ。あなたとの…過去よ」


paは、ゆっくりと語り始めた。fuとpaは、かつて同じ目的のために協力し、時には対立しながらも、互いに信頼し合う関係にあった。ところが、ある事件をきっかけに、二人の関係は決定的に破綻した。


「その事件が、アル・シファに関係しているのか?」


「ええ。正確に言えば、アル・シファ事件は、未来の私が感情を捨てるきっかけとなった事件よ。未来の私は、あの事件で自分の過ちを認められず、責任をあなたに押し付けた。そのうえで、過去への執着を断ち切るために、感情を捨て、冷酷な機械になったの」


「未来のpaは、私を責めた。アル・シファへの物資搬入ルートを変更させたのは、私のハッキングのせいだと」


「未来の私はそう信じている。けれど、真実は違う。アル・シファへの物資搬入を妨害したのは、イスラエル軍内部の強硬派よ。彼らは、ガザ地区への圧力を強めるために、意図的に物資の供給を遅らせた。未来の私は、その事実を知りながら、あなたを責めることで自分の罪悪感から逃げようとしたの」


paは、fuに一枚の写真を見せた。そこには、アル・シファ病院で医療活動を行うpaの姿が写っていた。写真の中のpaは、優しげな表情で患者に寄り添っている。


「これは、私がアル・シファで活動していた時の写真。あの頃の私は、まだ感情を失っていなかった。人々を救いたいと、心から願っていた」


「なぜ、私に真実を話してくれなかったんだ? なぜ、未来のpaは…」


「未来の私は、過去の過ちを認めることができなかった。それを正すことも。私は違う。私は、過去の過ちを繰り返したくない。だから、あなたに真実を話した。あなたと協力して、未来を変えたい」


fuは、paの言葉を信じた。二人の間には、確かに過去の確執があった。今はそれよりも重要なことがある。最悪の未来を回避するために、力を合わせるしかない。


「分かった。pa、君と協力しよう。どうすればいい? 未来のpaは、僕の介入をリセットしたはずだ」


「確かに、あなたの介入はリセットされた。けれど、まだ方法は残されている。未来の私も、全てを知っているわけじゃない。彼女には盲点がある」


「盲点?」


「ええ。それは、『過去』よ。未来の私は、過去の記録を操作することで、あなたを操ろうとした。でも、録はあくまで記録でしかない。過去の事実は、変わらない」


paは、ホログラムディスプレイにジェニンの地図を表示した。


「未来の私は、ジェニンの電力供給を再び遮断し、イスラエル軍の強硬派の動きを加速させるはず。ただし、それは表面的な変化に過ぎない。本質は、イスラエル軍内部の対立構造にある。強硬派と穏健派の対立を利用すれば、事態を収束できるかもしれない」


「どうやって?」


「イスラエル軍の通信システムに再びハッキングし、強硬派と穏健派の対立を煽る情報を流す。同時に、穏健派に接触し、彼らと協力して強硬派の動きを抑える」


「危険すぎる作戦だ。失敗すれば、全てが終わる」


「分かってるけど、他に方法はない。それに、あなたには『私たち』がついている」


paの言葉に、fuは決意を新たにした。過去の過ちを清算し、未来を切り開くために、彼は再び境界線上に立つ。


「よし、やろう。一つだけ条件がある」


「条件?」


「未来のpaとの決着は、僕がつける」


fuの眼差しには、強い覚悟が宿っていた。過去の鎖を断ち切り、未来の鍵を手にするために。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?