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64_最後の故郷

指令ファイル:G-774

機密度:クラス・デルタ

宛先:未来調整官 fu


要請:

文学的仮説の検証を要求する。本仮説は対象社会の精神構造における潜在的脆弱性を指摘するものであり、その真偽の特定は社会的情動指数(SEI)の将来予測モデルを構築する上で不可欠である。


仮説:

異世界ジャンルの隆盛について。故郷のない、あるいは故郷を持たない層、例えばメガロポリス生まれ・育ち・就業者の増加。彼らにとって物理的移動を伴う伝統的な「帰郷」は非現実的な選択肢となった。そこへ「異世界」という概念が、代替的かつ仮想的な故郷として機能し始めた。それは、任意の時間にアクセス可能な避難所であると同時に、現実では満たされ得ない所有欲、達成欲、承認欲求――すなわち、個人の資質と不相応なものすべてを一時的に補完する精神安定剤(Psycho-Stabilizer)として作用し、時に薬物依存に類似した認知パターンを形成している可能性が高い。


特記事項:

対象期間、サンプルの質・量は調整官の裁量に一任する。現状維持を前提とし、対象社会への物理的干渉は禁ずる。ただし、非侵襲的な情報収集、および真偽判定に必要不可欠と判断される「より弱い手段」の行使を限定的に許可する。繰り返す。仮説の真偽を明確にせよ。無理な修正は不要。我々が必要なのは、生の、汚染されていない真実だけだ。



無機質なテキストが、私の意識インターフェイスに投影される。機構からの指令だ。いつものことながら、文面に血の通った感情は介在しない。だが、その行間から滲み出る緊張と焦燥は、極めて人間的だ。社会的情動指数の低下――それは国家という巨大な生命体の緩やかな死を意味する。


「了解」とだけ念じ、意識を仮想の深海へと沈めていく。目的地は西暦2142年、環太平洋メガロポリス連合体、旧日本列島領域。今回の調査手法は「ミーム・トレース」。仮説の核心たる文化的遺伝子――「異世界への憧憬」というミームが、人々の精神をいかに伝播し、変容させているかを追跡する。対象者の主観体験(クオリア)に仮想的に没入(ダイブ)し、その精神の風景を汚さぬよう、そっと覗き見る。


私に故郷はない。機構に調整された私にとって、それはデータ上の概念に過ぎない。この任務は皮肉めいている。故郷なき私が、故郷なき者たちの「代替故郷」を調査するのだから。


意識が特定の時空座標へ収束していく。ノイズが晴れ、最初の観測対象のクオリアが流れ込んできた。


【CASE-1:コードネーム“巡礼者”】


男の名は、アオキ・シュウ。34歳、独身。社会インフラ維持ドローン監視員。彼の網膜に映るのは、自動化コンテナが整然と流れる無人の港湾風景。生まれも育ちも、このメガロポリスTOKYO-Kyoto回廊の第12セクター。両親は幼い頃に「最適化再配置」で別のセクターへ移り、以来、顔も見ていない。彼にとっての家族とは、公共サービスから定期的に届く生存確認の自動通知メッセージだけだった。


帰る場所など、どこにもない。そもそも「帰る」という概念が、彼の人生には欠落していた。移動は常に任務か業務のためであり、個人的な意思で行うものではない。


勤務時間を終え、アオキは居住カプセルに戻る。最小限の空間に、生命維持装置とダイブ・ユニットが鎮座する。慣れた手つきでニューロ・リンカーを側頭部に接続すると、網膜に警告が表示された。


《累積ダイブ時間が推奨値を超過。過度な仮想世界への没入は、コグニティブ・ハザード(認識災害)を引き起こす可能性があります》


アオキはそれを無視し、エンターキーを叩いた。

途端に、彼の意識は無機質なカプセルから解放される。


視界を埋め尽くす、風に揺れる広大な草原。空には二つの月が浮かび、遠方に雪を頂いた山脈が聳える。頬を撫でる風は、土と草の匂いを運んでくる。彼の体は、監視員のアオキ・シュウではない。筋骨隆々たる剣士「アーク」の肉体だ。腰に提げた長剣の重みが、何よりのリアリティを与えてくれる。


「アーク、遅かったじゃないか!」


声の方へ向くと、エルフの弓使いリラと、ドワーフの戦士ギムが焚き火を囲んでいた。彼らはアオキの、いや、アークの「仲間」だ。『アルカディア・フロンティア』で共に魔王を討つ旅をする、かけがえのない存在。彼らとの会話は、現実世界の自動音声と違い、予測不能で温かみがあった。


「すまん、こちらに来る前に野暮用があってな」

アーク(アオキ)は笑って答える。嘘だ。野暮用などない。無味乾燥な労働があっただけ。だが、この世界では誰からも監視されず、評価もされない。彼はただ、剣士アークとして、仲間と共に在る。


ここでは、彼の行動一つ一つに意味が宿る。ゴブリンを一体倒せば、村が一つ平和になる。薬草を一つ摘めば、仲間の命が救われる。彼の存在は、この世界にとって不可欠なのだ。


私の分析ログが自動生成される。

『被験者アオキ・シュウ。仮説との整合性、極めて高し。故郷および原初的コミュニティの喪失。現実社会における自己肯定感の欠如。これらが仮想世界への過剰没入を引き起こす主要因と断定。仮想世界は、仮説における「代替故郷」「精神安定剤」として完璧に機能。彼はもはや現実の住人ではない。アルカディアの住人だ。彼にとって、TOKYO-Kyoto回廊こそが「異世界」なのだ』


あまりに明快な答えだ。だが、機構の求める「真実」は、これほど単純なのだろうか。私はダイブ深度をわずかに上げ、次のサンプルへと意識をシフトさせた。


【CASE-2:コードネーム“反逆者”】


女は、データサイエンティストのミヤザワ・レイコ。29歳。北方の「第3次産業指定地区」――かつて北海道と呼ばれた土地の出身。18で故郷を捨て、メガロポリスの大学へ進んだエリートだ。


彼女には「故郷」があった。しかしそれは、効率化と中央集権的管理によって骨抜きにされていた。祭りは廃れ、方言は矯正され、独自の文化は『非効率』としてアーカイブ化された。両親は今も故郷の農業プラントで働くが、かつて畑を耕した頃の生気はない。レイコは年に一度、義務として帰省する。だが、そこで感じるのは郷愁ではなく、失われたものへの静かな怒りだけだった。


レイコもまた、「異世界」コンテンツのヘビーユーザーだった。だが彼女が没入するのはアオキのようなMMORPGではない。貪るように読むのは、ひたすらに文字だけで構成された旧世代のウェブ小説だ。


彼女の視点をトレースする。今読んでいるのは『悪徳宰相に転生したので、革命で国ごとひっくり返してやりました』という過激なタイトルの物語。


主人公は現代日本の知識を持ったまま、腐敗した王国の貴族に転生する。その知識を使い、不正を働く権力者を次々と断罪し、民衆を扇動し、ついにはギロチンが並ぶ革命を成功させる。物語は血生臭く、倫理観の欠片もない。だが、そこには圧倒的なカタルシスがあった。


レイコは唇の端を吊り上げる。彼女の思考が奔流となって流れ込む。

(面白い…この理不尽な権力構造、既得権益にしがみつく無能な上級国民。まるで今のこの国。私たちの社会はAIによって公平に管理されていると謳われている。けれど、そのアルゴリズムを設計し運用するトップ層は誰にも評価されない特権階級。私たちの納める情報税がどう使われているのか、誰も知らない。この主人公は、私たちが抱く鬱屈した怒りを代わりに爆発させてくれている…!)


彼女にとって、異世界とは「帰る場所」ではない。「戦う場所」だ。現実世界で決して行使できぬ「抵抗」という権利を、物語の中で代理行使させるためのシミュレーション空間なのだ。故郷喪失は彼女の怒りの源泉ではあるが、異世界へ向かう直接の動機ではない。もっと大きな構造への反逆、それこそが本質だ。


分析ログが更新される。

『被験者ミヤザワ・レイコ。仮説との部分的不一致を観測。故郷喪失は間接的要因。主たる動機は、現実社会の抑圧的構造に対する代理的復讐(Vicarious Retaliation)。彼女は精神安定ではなく、むしろ精神的闘争を求めている。仮説は、異世界コンテンツの多層的な機能を過小評価している危険性あり』


二つの相反するサンプル。仮説は正しいようで、間違っているようでもある。真実はどこにある? 最後のサンプルへアクセスするため、私は情報網のさらに深層へと潜る。「より弱い手段の行使」許可を使い、固く閉ざされた壁を、そっとすり抜ける。


【CASE-3:コードネーム“創造主”】


そこは、誰のクオリアにも属さない純粋な制作ログの空間だった。2142年で最も人気の異世界物語シリーズ『虚ろな玉座』の作者、「Φ(ファイ)」の創作サーバー。その正体は誰も知らない。AI説、複数人の創作チーム説、様々に噂されたが、真実はこのログの中に眠っていた。


私は訪問者ではなく、幽霊として、そこに遺された思念の断片を読み解いていく。


ログ#345:「なぜ、異世界を書くのか。今日の編集AIとの定例会議でまた聞かれた。市場の需要、ターゲット層の心理分析、最適化されたプロット…そんなことはどうでもいい。私が書きたいのは、失敗が許される物語だ」


ログ#512:「我々の世界は完成されすぎた。AIによる最適解が常に提示され、人生のルートは生まれる前から統計的に予測されている。病はナノマシンが治し、事故は自動運転が防ぎ、飢餓は合成食料が満たす。死さえも、予定されたイベントになった。これは、天国か? 違う。物語の死だ。ハラハラもドキドキも、理不尽な悲劇も、愚かな過ちも、そこから立ち上がる奇跡も、すべてがエラーとして排除された世界。人間は、そんな無菌室では生きていけない」


ログ#789:「私の描く主人公は、いつも無力だ。特別なスキルもなければ、チート能力もない。彼は何度も間違う。仲間を死なせ、判断を誤り、絶望の淵に沈む。だが、彼はそれでも立ち上がり、自分の足で、次の選択をする。その不合理で、非効率で、無駄に満ちた選択の積み重ねこそが、『生きる』ことではないのか。私の書く異世界は、故郷などではない。失われた『人生』という名の荒野そのものだ」


ログ#1024:「今日、街で子供が転んで泣いていた。すぐにメディカルドローンが飛んできて、痛みを除去し、傷を塞いだ。親は『ありがとう、AI様』と感謝していた。だが、子供の顔からは、涙と一緒に何か大切なものが消えたように見えた。痛みを知らぬ者は、優しさを知れない。私は、あの子供のために書かねばならない。転んだら血が出て、痛くて涙が出る。誰かが手を差し伸べてくれるかもしれないし、くれないかもしれない。そんな、当たり前で、残酷で、美しい世界を。読者が求めているのは、安易な逃避先じゃない。彼らは、もう一度自分の人生を『やり直す』ための、壮大なリハーサルを求めているんだ」


息を呑んだ。アオキとも、レイコとも違う。創造の源泉にあったのは、故郷へのノスタルジアではなかった。管理社会によって去勢された「人間性」そのものへの慟哭だった。


彼らが求めているのは、帰るべき「故郷」ではない。

自分の意志で踏み出すべき「荒野」なのだ。


「故郷喪失」は、その巨大な喪失感の、ほんの入り口に過ぎない。人々が失ったのは、特定の場所やコミュニティではなかった。自分の人生という物語の「主人公」であるという実感、そのものだ。

管理され、最適化された社会は、人間から「選択の自由」と「失敗する権利」を奪った。異世界とは、その奪われたものを取り戻すための唯一残されたフロンティア。それは精神安定剤などという生易しいものではない。失われた主体性を取り戻すための、熾烈な闘争の場なのだ。


静かにダイブから浮上する。

機構への報告書を作成する。指が、あるいは私の意識が、澱みなくテキストを紡ぎ出した。


件名:G-774に関する最終報告


結論:仮説は、現象の表層をなぞるに留まり、本質的な診断としては致命的に不十分である。限定的な意味では「真」だが、全体としては「偽」と判定する。


分析:

異世界ジャンルの隆盛は、「故郷喪失」に起因するネオ・ノスタルジアの一形態ではない。それは、高度管理社会における「主体性の空洞化」に対する、民衆の無意識的かつ集団的な抵抗である。


対象社会の国民は物理的な故郷ではなく、「物語論的故郷」――自己の存在が意味を持つと感じられるナラティブな時空間――を喪失している。AIによる人生の最適化は、個人の選択、失敗、偶然といった物語的要素を徹底的に排除した。結果、人々は安全で快適な生と引き換えに、自らの人生の「主人公」としての立場を剥奪された。


異世界コンテンツは、この剥奪された主体性を仮想的に補完する「物語論的補完装置(Narratological Complementation System)」として機能している。


予測される社会状況:

本質的な問題は精神安定剤への依存ではなく、社会システムそのものが引き起こす「物語の欠乏」だ。この状況を放置すれば、国民の現実社会への関与は不可逆的に低下する。彼らは安寧な現実を拒絶し、不確かで危険だが「生きている」実感のある仮想世界を永住の地として選択するだろう。

これは緩やかな社会崩壊を意味する。国家は機能し続けるが、その内実は空っぽの抜け殻と化す。静かなる革命であり、魂の集団移住だ。


推奨:

対応策は、異世界コンテンツの規制ではない。それは対症療法にすらならない。必要なのは、国民に「物語」を返すこと。非効率を許容し、失敗を許し、予測不能な未来への挑戦を推奨する社会システムの再設計だ。だが、それは機構の基本理念と真っ向から対立するだろう。


報告書の送信キーを押す。

冷たいデータ空間の中で、私はしばし佇んだ。

私自身、機構という巨大なシステムの一部だ。与えられた任務をこなし、最適解を導き出す。私の行動に、個人的な物語は存在しない。私もまた、主体性を剥奪された存在なのかもしれない。


この報告書を読んだ機構の者たちは、何を思うだろう。

非効率な「物語」を取り戻すため、自らが作り上げた完璧なシステムを破壊する覚悟があるだろうか。


あるいは彼らもまた、夜ごと秘密のダイブ・ユニットに接続し、剣と魔法の世界で、失われたはずの自分自身の物語を生きているのかもしれない。


そんなあり得ない空想をしながら、私は次の指令を待つ。郷愁の行き着く先、そのデッドエンドで見つけた真実が未来をどう変えるのか。それを観測するのもまた、調整官としての私の、数少ない「物語」なのだろう。

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