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65_月は無慈悲なゆりかご

*依頼


未来調整官fuと呼ばれる存在に、性別や年齢を問う者はいない。fuは概念、現象、時には引き金そのものだ。今日、fuはプラハの旧市街、天文時計が見下ろす石畳のカフェに座っていた。運ばれてきたエスプレッソのクレマが静まるより先に、隣の席に影が落ちた。


「調整官fu。お初にお目にかかる」


スーツ姿の男は、表情というものを生まれつき剝奪されたかのような顔をしていた。背後には同じく感情のない男が二人、彫像のように控えている。


「未来は常に現在から生まれる。ゆえに初対面という概念を私は好まない」fuはカップを見つめたまま応じた。「要件を」


男は薄いデータパッドをテーブルに滑らせた。「プロジェクト・プロメテウス。対象です」


パッドには月面の三次元マップが映し出されていた。ティコクレーターの縁に秘匿された基地。『アルテミス・ネスト』と記されている。


「月でウサギでも飼っているのか?」

「惜しいですね」男の声は乾いた砂が擦れるようだった。「人類の次世代を飼育しています。より正確には、"醸造"している」


男の説明は、簡潔さゆえに衝撃的だった。発端は酵母、Saccharomyces cerevisiae。ある研究チームが、驚異的な生命力を持つ微生物クマムシ(Tardigrade)から特異なタンパク質群を発見し、その遺伝子を酵母に組み込むことに成功したという。目的は、過酷な環境下でのバイオ燃料生産の効率化。ありふれた始まりだ。


「クマムシ由来タンパク質、特にCAHS3、MAHS、RvLEAMが鍵です」男はパッドをタップし、分子構造モデルを表示させた。「論文によれば、これらのタンパク質は宿主細胞に驚異的なストレス耐性を付与します。MAHSは急性熱ショックに顕著な保護効果を示し、RvLEAMは高浸透圧ストレス、すなわち極度の乾燥状態からの生存を可能にする。CAHS3は…少々厄介でして、細胞増殖を阻害する副作用を持つ代わり、細胞全体を物理的に安定化させ、脱水状態での生存率を劇的に向上させる」


「それが人間に応用されたと?」fuはようやく男に目を向けた。

「その通り。プロジェクト・プロメテウスは、この技術をヒト胚に適用しました。彼らはもはやHomo sapiensではない。我々はHomo caelestis――"天の人"と呼んでいます」


アルテミス・ネストでは、遺伝子操作された第二世代の人間たちが、真空、極低温、致死的な放射線に耐えるための訓練を受けている。宇宙開発という大義名分の下、不死に近い生物兵器、あるいは決して滅びることのない支配階級が生まれようとしていた。


「彼らは急性ストレスには無敵です。しかし論文が示唆するように、慢性的なストレスへの耐性はない。長期間の暴露、例えば溶媒や…精神的な孤立。それが彼らのアキレス腱かもしれない。だが、我々にそれを待つ時間はない」

「それで私に?」

「物理的排除を要請します」男は断言した。「研究員12名、被験者5名。関連施設、データ、すべての痕跡を消し去っていただきたい。彼らは制御不能な変数。未来の確率空間におけるノイズです。ノイズは除去せねばなりません」


fuは冷えかけたエスプレッソを一口飲んだ。苦味が舌に広がる。これは掃除か、間引きか。新しい生命の可能性を、脅威という一面的な理屈だけで摘み取ることの是非。だが、fuの役割は評価ではない。調整だ。均衡が大きく傾く前に、錘を動かすこと。


「承知した」fuは立ち上がった。「だが覚えておくがいい。ノイズを除去したつもりが、最も美しい旋律を消してしまうこともある」


男は答えなかった。天文時計の針が次の刻を指し示す音だけが、やけに大きく響いた。


*潜入


fuが駆る漆黒の非対称型航宙機『スティクス』は、月の影に紛れ、音もなくアルテミス・ネスト上空に到達した。探知システムは、存在しないかのようにfuの船体を素通りしていく。fuは概念であり、物理法則すら道を譲る。


月面への降下は羽が落ちるよりも静かだった。基地のエアロックをバイパスして内部へ侵入する。空調の低い唸りが満ちる通路は、無菌室特有のオゾンの匂いがした。fuは壁に埋め込まれたパネルに手をかざす。ナノマシンが電子錠の構造を瞬時に解析し、解錠した。抵抗は無意味だ。


中央バイオラボでは、巨大なバイオリアクターが数十基並び、その中で緑色蛍光タンパク質(GFP)でタグ付けされたSaccharomyces cerevisiaeが、不気味な光を放ちながら培養されていた。ここで全ての元凶、クマムシタンパク質が工業スケールで"醸造"されているのだ。パネルには生産ログが流れる。「Lot.731: MAHS protein, purity 99.8%」「Lot.732: RvLEAM protein, purity 99.6%」…。まるで工場で部品を作るように、生命を強化する要素が生み出されていく。


fuはプロジェクトリーダー、ジョシュア・T・モーガン博士の端末を探し当てた。博士の名は、事前に読んだ論文の著者の一人と一致する。皮肉な偶然か、必然か。強固なセキュリティは、fuの前では砂糖菓子のように砕け散った。


モニターに映る研究記録は、驚異と狂気の年代記だった。


【実験ログ 001】

S. cerevisiae(対照群 pControl)と比較し、pMAHS導入株は50℃の急性熱ショック後、有意な生存率の上昇を確認。仮説通り。


【実験ログ 237】

マウス胚へのMAHSおよびRvLEAM遺伝子導入個体(コードネーム:ベアーズ)、10Gの加速負荷に15分間耐える。対照群は内臓破裂。ミトコンドリアレベルでの保護が細胞全体の強靭化に繋がっている模様。RvLEAMの効果か、高浸透圧状態、すなわち脱水症状からの回復も速い。


【実験ログ 415】

霊長類(マカクザル)対象。真空チャンバー内での3分間の暴露実験。通常個体は即時死亡。実験個体は一時的な仮死状態の後、完全に蘇生。血液の沸騰すら可逆的な現象に変えてしまった。CAHS3が細胞構造をガラス化し、物理的破壊を防いだと推測される。


記録は最終章へと至る。


【プロジェクト・プロメテウス被験者ログ】

被験者:アキラ(17歳、男性)

ミッション:船外活動(模擬)

環境:月面。-150℃、高放射線量。

結果:生命維持装置なしで2時間活動。体温低下2.5℃。細胞組織の損傷軽微。特筆すべきは主観的報告だ。「寒くはなかった。何も感じなかった。星が綺麗だとも、思わなかった」


fuの指が止まった。ここだ。論文が示唆した「文脈依存的な保護」。急性ストレスは乗り越える。だが代償は感覚と感情の鈍化か。CAHS3導入株が示した「増殖能の低下(reduced proliferation)」は、細胞レベルの話ではなかった。生命としての豊かさ、精神の"増殖"をも阻害しているのではないか。


fuは端末を閉じた。情報は得た。残るは最後のピース。物理的排除。命令の遂行。その決意を、ディスプレイに映るアキラという少年の無表情な顔が鈍らせる。


*対峙


施設の最深部、居住ブロックは静まり返っていた。壁には地球の風景がホログラムで投影されているが、どこか色褪せて見える。リビングの中央に、白衣を着た鋭い眼光の初老の男が立っていた。モーガン博士だ。彼は客人を待っていたかのように落ち着き払っている。


「未来調整官fu、だろう?」モーガンはfuを一瞥し、チェスボードを指した。「一手、どうかな? 我々の状況によく似ている。膠着状態に見えるが、次の一手ですべてが変わる」


「ゲームをしに来たのではない」fuの声は絶対零度のように響いた。

「そうだろうな。君はゲームを終わらせに来た」モーガンはため息をついた。「依頼者は、我々を脅威だと吹き込んだのだろう? 不死の兵士、新しい支配階級。陳腐な三文SFだ。我々が目指すのはその先だ。人類という種の、ゆりかごからの卒業だよ」


彼の言葉が熱を帯びる。「地球はもはや安全なゆりかごではない。いつ小惑星が降るか、太陽が膨張するか。種として生き延びるため、我々はこの脆い肉体を捨て、宇宙そのものに適応する必要があった。Homo caelestisはその第一歩だ。彼らは火星で呼吸し、エウロパの海で泳ぎ、恒星間を旅する。君の行いは未来の調停などではない。人類の可能性に対する、絶望的な破壊行為だ」


会話を遮るように、背後のドアが開いた。細身で黒髪の若者が入ってくる。穏やかな顔立ちだが、瞳は深淵のように静かだった。被験者、アキラ。

「博士、この方は?」

「客人だよ、アキラ。我々の卒業制作を見に来てくれた」


アキラはfuに向き直り、静かに頭を下げた。「はじめまして」

その声には感情の起伏がほとんど感じられない。

fuはアキラに問うた。「君は、幸せか?」


質問は、ナイフのように静寂を切り裂いた。モーガンが何か言おうとするのを、アキラは手で制す。彼は少し考え、ゆっくりと口を開いた。

「"幸せ"という言葉が、よくわかりません」彼は自分の手のひらを見つめた。「痛みはあまり感じない。訓練で腕を骨折しても、鈍い圧迫感があるだけ。寒さも暑さも、情報になりました。でも…」

アキラは言葉を切った。静かな瞳が、わずかに揺らいだ。

「喜びも、たぶん同じなんです。博士が『成功だ』と言ってくれた時、胸が高鳴るはずなのに、そうはならなかった。母さんの写真を見ても、昔のような温かい気持ちにはなれない。すべてが遠い。自分の心に薄いガラスが一枚、挟まっているみたいです。このガラスは、CAHS3が作ったものなのかなって、時々考えます」


彼はfuを真っ直ぐに見据えた。「教えてください。僕たちは…もう人間じゃないんでしょうか? 生まれてくること自体が、間違いだったんでしょうか?」


その問いは、依頼者の大義名分もモーガン博士の理想も貫いてfuの核心に突き刺さった。排除すべきノイズか。保護すべき新しい生命か。彼らはどちらでもなく、どちらでもあった。まだ定義されざる、希望とも脅威とも名付けられぬ、ただ哀しい可能性の揺らぎ。


*決断


fuの思考回路が初めてノイズに満たされた。矛盾する指令、相反する正義。モーガン博士の描く壮大な未来と、アキラの語る空虚な現在。どちらが真実で、どちらを"調整"すべきなのか。


『これらのデータは、文脈依存的な保護を示唆しており、さらなる調査を動機づける』


論文の最後の一文が脳裏で明滅した。そうだ、彼らは結論ではない。問いなのだ。科学とは、性急な結論を戒め、次なる問いを立て続ける営為ではなかったか。それを依頼者は一つの視点から断罪し、消し去ろうとしている。fu自身の役割も、未来の可能性を摘むことではなく、それが健全に競い合う場を確保することではなかったか。


fuは携えていた指向性エネルギー兵器を、ゆっくりとホルスターに戻した。

その動作にモーガンは息を飲む。アキラはただ静かにfuを見つめていた。


「君の依頼者を裏切るのかね?」モーガンがかすれた声で尋ねた。

「依頼内容を変更する」fuは断言した。「物理的排除は行わない。代わりに行うのは、情報の完全拡散だ」

fuは腕のインターフェースを起動させた。「今から、プロジェクト・プロメテウスに関する全データ、研究ログ、被験者の記録、そしてこの会話の録音を、地球上の全政府、研究機関、報道機関に同時送信する。あなた方の存在を白日の下に晒す」


「何だって!?」モーガンは絶句した。「それでは世界中の貪欲な権力者の格好の的になる! 分解され、研究され、兵器として複製される! それが君の言う"調停"か!」


「そうだ」fuは静かに応じた。「君たちはもはや、pControl(対照群)のいない閉鎖環境での実験体ではない。今日から70億のpControlと向き合うことになる。人類全体がこの問いの当事者となるのだ。脅威と見なす者、希望と見なす者、利用しようとする者、保護しようとする者。その巨大な相互作用の中で、君たち自身の意味と価値が決まる。それこそが、本来あるべき進化の姿だ」


fuはモーガンに向き直った。「君は人類の卒業と言ったな。ならば、卒業試験を受けてもらう。人類がこの技術を正しく扱えるのか、その試験だ。君たちのHomo caelestisが、旧人類の愚かささえも超越できるのか、見せてもらう」


送信ボタンが押される。無音の指令が光速で地球へと放たれた。アルテミス・ネストという秘密のゆりかごは、その瞬間、世界で最も注目されるガラス張りの水槽と化した。


モーガン博士は、怒りと恐怖の表情から、やがてすべてを諦観したような、それでいて奇妙に楽しげな笑みを浮かべた。

「…面白い。実に面白い。君こそが、我々の実験が生み出した最大の『予期せぬ結果(unexpected results)』というわけか。調整官よ」


*新たなる夜明け


『スティクス』が月面を離れる頃、アルテミス・ネストは地球からの通信で飽和状態に陥っていた。パニック、非難、賞賛、要求。人類という名の混沌が、小さな月面基地に牙を剥き、あるいは救いの手を差し伸べようとしていた。


fuは艦橋の窓から遠ざかる月を見つめていた。アキラと彼の仲間たちは、これから何になるのだろう。見世物か、救世主か、人類に絶望して星々の彼方へ去る最初の放浪者か。


この手は、引き金を引くこともできれば、幕を開けることもできる。今日、fuは幕を開けた。その先に待つのが喜劇か悲劇かを知ることは、fuの役割ではない。


『調整官fu。任務完了を確認。ただし、契約内容と著しく異なる結果です。これは重大な契約不履行とみなし…』

依頼主からの通信が入ったが、fuはそれを雑音として処理し、回線を遮断した。契約など、絶対的な未来の前では意味をなさない。


漆黒の宇宙がどこまでも広がっている。かつては絶対的な障壁だったその闇が、今や人類にとっての新しい舞台となった。月は、もはや無慈悲なだけの真空の世界ではない。哀しくも強靭な、新しい人類のゆりかごとなったのだ。


「私は種を蒔いた」fuは静かに呟いた。「それが花となるか、毒となるか。それは未来が決めることだ」


fuは次なる調整点へと意識を向けた。世界は変わってしまった。この変化こそが、未来がまだ死んでいない証拠なのだから。

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