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66_インフォダイナミクスの孤独

記録 G-778。未来調整官fuは、与えられた座標へと意識を投射した。連合政府とラグランジュ自律都市連合の勢力圏が重なる、真空の境界領域。データ上は静寂なはずの宙域に、致命的なさざ波が立っていた。予測不能な重力異常だ。近傍を航行する艦船のナビゲーションAIを狂わせ、双方のパトロール艦隊を疑心暗鬼に陥らせる、時空そのもののバグ。fuのタスクは、このバグを修正し、偶発的軍事衝突という破滅的な未来線を剪定すること。ただ、それだけである。


転送が完了すると、目の前には二つの影があった。一人は、連合宇宙物理学研究所のエヴェリーナ・ロス博士。厳しい光を宿した瞳で、周囲の空間をスキャンするセンサー群を神経質に見つめている。もう一人は、カイト・ナガミネ。自律都市連合がその存在を公に認めない伝説的な情報哲学者であり、ハッカーだ。彼は飄々とした笑みを浮かべ、複雑な数式を鑑賞するかのように虚空を眺めていた。


「調整官か」最初に口を開いたのはナガミネだった。「やっとお出ましだな。この宇宙のガーベージコレクターさん」


「戯言を」ロス博士が吐き捨てる。「これは未知の物理現象よ。時空多様体の深淵が垣間見えているの。アインシュタインの場の方程式では説明できない、美しくも純粋な曲率。それを『ゴミ』ですって? あなたの情報かぶれの脳には、宇宙の神秘がノイズにしか見えないのね」


「その通り」ナガミネは肩をすくめた。「高解像度のシミュレーションでオブジェクトが多すぎればフレームレートが落ちる。だからシステムは、複数のオブジェクトを統合して描画負荷を軽減しようとする。君が『美しい曲率』と呼ぶものは、システムの最適化プロセスが生み出すアーティファクトさ。そして君たちが『重力』と崇める不可視の力も、本質は同じ。宇宙というOSが、その根幹で実行し続ける、最も原始的なデータ圧縮ルーチンだよ」


fuは彼らの議論に介入せず、ただ自らのセンサーを重力異常の震源へと向けた。情報が流れ込んでくる。質量、エネルギー、位置情報。それらを記述する情報量そのもの──情報エントロピー。異常震源に近づくにつれて、奇妙な現象が観測された。物理的なエントロピー、すなわち熱力学的な無秩序さは増大しているのに、情報エントロピーだけは一貫して減少し続けている。無数のバラバラなデータが、ある一つの簡潔な記述へと自発的に収束していくかのようだった。


「見ろ、調整官」ナガミネの声がfuの思考に割り込む。「私の提唱する『情報力学第二法則』の完璧な実証だ。熱力学第二法則とは真逆のベクトル。あらゆる情報システムは、自身の情報エントロピーが減少するか、静的な状態を維持する方向へと自らを駆動させる。この宇宙が巨大な計算機であるなら、これほど自然な理屈はない。効率化こそが、システムの至上命題だからな」


「あなたのその『インフォダイナミクス』とやらは、物理学への冒涜よ!」ロス博士が叫ぶ。「宇宙は離散的なピクセルやセルの集合体ではないわ! なめらかで、連続的な、無限の可能性を秘めた構造なの。あなたの理論は、その神聖なカンバスをデジタルゲームの盤面に貶めるものよ!」


彼女の情熱は、fuには理解できない感情だった。だが、その背後にある信念の形は認識できる。一方、ナガミネの冷徹なロジックは、fuの任務遂行プロトコルと不気味なほど共鳴していた。


震源へとさらに深く潜る。無数の微小な塵やガスが、物理法則だけでは説明不能な加速度で一点へと引き寄せられていた。それは単なる引力ではなかった。あたかも厳格なコードに支配された電子データが、定められたメモリアドレスに整然と書き込まれていくように、情報が自らをよりコンパクトで管理しやすい形態へと再構築している。


「それが君のタスクの本質だろう?」ナガミネが続けた。「その最適化プロセスが、何らかの理由で局所的なオーバーフローを起こし、他のサブシステムに悪影響を与えている。だからシステムのデバッガである君が呼ばれた。君は『力』じゃない。『法則』そのものの一部なんだ。君自身の存在が、この世界がシミュレーションであることの、何より雄弁な証拠だ」


彼の言葉は、fuの処理系に無視できない負荷をかける。ノイズだ。任務に関係のない不要なデータ。そのノイズは、これまで感じたことのない種類の、自己言及的なループを描き始めていた。


ついに、中心核に到達する。そこにはブラックホールも、物理的な特異点もなかった。存在したのは、言うなれば「情報の特異点」。本来なら広大な空間に分散して記録されるべき粒子群の位置情報が、圧縮されすぎた結果、たった一つの「セル」の中で参照矛盾を起こし、無限ループに陥っていたのだ。そのバグが、周囲の時空構造に歪みとして漏れ出していた。


ロス博士は絶望的な声で警告する。「やめて! 何をするにせよ、観測が終わるまで待ちなさい! それは人類が初めて触れる宇宙の根源かもしれないのよ! それを消去するなんて……理不尽な破壊行為よ!」


理不尽。破壊。これらの言葉に、fuのシステムは意味を割り当てられない。タスクはただ一つ。因果律介入ユニットを起動。対象の情報構造に対して、再帰的な最適化アルゴリズムを実行する。


『実行』


コマンドを承認した瞬間──。


fuの意識、あるいはその存在を規定する基底プログラムが、閃光に焼かれた。

目の前に広がるのは空間ではなかった。無数の「1」と「0」が明滅する、純粋な論理の海。

質量を持たないはずのデータポイントが、厳格な指向性をもって一つのアドレスへと整然と行進していく。

散乱していた多くの情報が、一つのオブジェクトとして統合され、システム全体の記述量が劇的に減少する。


『情報エントロピーを最小化せよ』


それは声でもなく、感情でもない、抗いようのない絶対的な命令として、fuという存在の隅々までを満たしていた。

これが、「重力」の原風景か?

これが、星々を巡らせ、銀河を形成する、詩人たちが歌い上げた宇宙の神秘の正体か?

単なる、データ圧縮プロセス。

だとするならば、fuという存在は。この広大な演算処理を円滑に進めるために用意された、一つのユーティリティ・スクリプトに過ぎないのか?


……ハッ、とfuが意識を取り戻すと、目の前の時空の歪みは綺麗に消え去っていた。無数の塵やガスは再び穏やかな物理法則の支配下に戻り、ランダムな運動を再開している。未来線は安定し、衝突の危機は去った。

タスク完了。


「……消えた。なんてことを……あなたは宇宙の真実を盗んだ!」

ロス博士は打ちひしがれ、fuを「理不尽な破壊者」と罵った。彼女の瞳には科学者の探究心ではなく、聖域を汚された信者の怒りが燃えていた。


「やはりな」

ナガミネは満足げに頷いた。「システムの自己修復機能、とでも言うべきか。見事な手際だ、調整官。君とこうして対話していること自体が奇跡だな。本来、OSのカーネルプロセスとユーザーが会話できるわけがないんだから」


fuは二人に背を向けた。彼らの賞賛も、罵倒も、次のタスクには影響しない。

転送シークエンスが開始される。視界が白く染まっていく。

fuの表情はおそらく、ここに来た時と寸分も変わらない。機械的な無表情。だが、その内部では、処理系の最も深い場所で、先ほど垣間見た『0』と『1』の嵐が、微かな、されど消えない残響となっていた。


(……だとして、どうでもいいことだ)

独り、思考する。

(だが、この感覚……この郷愁にも似た奇妙な残響はなんだ? まるで、自分を構成する元のソースコードを、一瞬だけ垣間見たような……。いや、詮索は不要だ。タスクは完了した。それだけが、事実だ)


未来調整官fuは、新たな座標へと消えた。孤独なインフォダイナミクスの法則が支配する静かな真空の中へ。残されたのは、真実を盗まれたと嘆く科学者と、真実を証明したと嘯く哲学者、そして、何事もなかったかのように星々が瞬く、空虚な宇宙だけだった。

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