「姫様。軽々に承諾のサインをなさってはなりません――格が低くみられます」
クレノ顧問はフェミニとの関係をいったん高い高い棚に置きざりにし、
「お兄様はヨルアサの第二王子なのじゃぞ」
「いいえ、ルイス王子殿下と姫様の
「なるほど。ではどうすればよいのじゃ?」
これが地方軍の野心に満ちた上官どもなら、単純にプライドと面子を
が、姫様相手だとそうもいかない。
しかしクレノも伊達に地方軍で上司に取り入り制度を悪用し予算をもぎ取りベイ〇レードごっこをして遊び鉄条網を作って遊んでいたわけではない。
「姫様、書類はいったんこちらで引き取り、内容を精査し正式な様式を整えさせ、後日あらためて調印式などをなさってはいかがでしょうか。つまり、うちとルイス王子のところで、正式な
「ほほう、なにやらおもしろそうじゃの」
「はい。せっかくの機会ですからね。ルイス王子殿下との絆をより確かなものにするとお考えください。それに、あいまいな口約束で協力関係を結ぶより、最初から形式を整えてしまったほうが、両者ともにこれから魔法兵器を開発する同士である、という気運が高まると思うんです」
「おお! クレノもなかなかよいことを思いつくではないか」
どうやらこの
「そなたの言うことももっともじゃ、クレノ顧問。フェミニ殿にはわざわざ足を運んでもらって申し訳ないが……そちらには、後で正式な使者を遣わそうと思う」
「わかりました。本日はこれにて失礼いたします」
フェミニは案外あっさりと引き下がった。
そして立ち去り際にクレノに向けて、
「いいですか。わたしが連絡役になったのは、あくまでもお仕事のため。センパイのためなんかじゃないんですからね」
と釘を刺すのも忘れなかった。
*
クレノが運動場に面した窓を大きく開けると、実験部隊の兵士たちが走りこみをしていた。
兵士たちの仕事は走ることだ。八割方そうだと言っても過言ではない。
彼らは今日も走るし、明日も走っている。
なんなら、仕事が終わってからも走っている。
クレノは兵士たちを率いている青年に向けて手を挙げて合図を送った。
「お~い、ハルト隊長~」
呼ぶと、金髪碧眼の、ひときわ精悍な青年が列から抜け出てやってくる。
実験部隊の頼れる隊長にして魔法珍兵器開発室の良心、ハルト隊長である。
「はーい。お呼びでしょうか、クレノ顧問」
「訓練中にすまないが、少し相談に乗ってほしいことがある……」
「もしかして魔法開発局のことですか?」
「え? よくわかったな」
「来客がいらしているのを見かけましたから。目立つ髪の色ですので」
クレノと大して歳もかわらないのに、人望あつくこの目敏さである。
「ほんと、うちにハルト隊長がいてくれてよかったよ」
「俺も、クレノ顧問がいてくれてよかったと思ってますよ」
クレノがフェミニのことをスパイではないかと疑っているという話をきいて、ハルト隊長は渋い顔をしていた。
「クレノ顧問がそうおっしゃるということは、そうではないかと思われる兆候があるのですよね」
「実は模擬試合のインターバルでルイス王子からスカウトされたんだ」
「えっ、魔法開発局にですか。魔法使いとしては栄転ですね。おめでとうございます~」
「おめでたくないんだな、これが。今から思うと、殿下は俺を試しておられたと思う」
正直言って、ルイス王子の引き抜きにはかなり迷うところがあった。
だが、冷静になって考えてみると、なんの功績もないクレノに爵位を与えて土地もくれるだなんて馬鹿げている。
しかも、あのときルイス王子はとんでもないことを口にしていた。
「これは忘れてほしいんだが、そのとき、ルイス王子は俺に“玉座の隣で
「——ええっ?」
ハルト隊長は青ざめている。
ヨルアサ王国の第一王子は言わずとしれたカイル王子だ。
カイル王子はすでに軍に入り将としての才覚を発揮し、国内に一大派閥を築いている。これをひっくり返そうという気が第二王子にあるなら大事だ。
「もちろん冗談だとは思うけどな。もしも継承権の前後を入れ替えようという野心があの方におありなら、あまり素直に好意を受け取ってばかりもいられないよ」
「でも、クレノ顧問はいつもうちで開発された魔法兵器を珍兵器と呼んでいらっしゃいますよね。ルイス王子殿下がそのように野心にあふれたお方だとして、そのおめがねにかなうようなものがあるとも思えませんが」
「完成した魔法兵器はたしかに珍兵器だが、基幹技術はべつだ」
「基幹技術というと」
「じゅうたんそのものでなく、じゅうたんを超高速で飛翔させる魔法や、熱を感じるほどの光を発生させる魔法ってことだ。俺はいまのところ、これらの魔法だけを各珍兵器から抜き出す方策を持たないが、もしかしたらルイス王子側は何かがあるのかも。つまり、うちが持っている魔法技術の何かが王子のおめがねにかなった、という説はなくもない。でもそれが何なのかは……」
毎日珍兵器に囲まれて発狂しかけているクレノには、何もわからないのである。
「しかし、今のところは国内のことですしね。フェミニさんのことも、あまり邪険にばかりしていられないでしょう」
「そうなんだよなあ。べつに国外にもってかれるわけでなし、うちと魔法開発局が対立しなければならない理由がハッキリあるわけでもなし。本当に協力できるならそれ以上にいいことはない」
「ですねえ」
「だから、どれだけ時間稼ぎをしても姫様が乗り気であるかぎり、調印式はやらないといけないだろうな。そうしたら、しょっちゅうフェミニに顔をあわすことになって……頭が痛いよ」
「聞きましたよ、クレノ顧問のお噂。すみにおけませんねえ」
「ハルト隊長も? ——もういっそ殺してくれ、俺を……」
クレノは改めて顔を合わせたフェミニのあの邪気をまとった様子を思い出し、恐怖と申しわけなさで涙ぐんだ。
「いや、でも、もとはといえばぜんぶ俺が悪いんだ。他人の気も知らないで調子に乗って全部台無しにして……。地方軍での失敗がなければ俺の人生は順調だって思ってたけど、それ以前からけっこうやらかしてたってことなんだから……」
「クレノ顧問、元気出してくださいよ。顧問はがんばってますよ」
「出ないよお」
窓枠の下に体育座りになり完全に鬱モードに入ったクレノを、ハルト隊長が見下ろして苦笑いを浮かべる。
「クレノ顧問。顧問はなぜこの部隊に来られたんですか?」
「それは……ハルト隊長も知ってるかもしれないけど、地方軍でとんでもない失敗して……。俺はもう二度と魔法兵器開発なんかするつもりはなかったんだけど……」
もう一度、と思い、設計図を引いたこともある。
でもその試みはうまくいかなかった。
製図用のペンを手に取る度、戦場の炎がまぶたの裏にちらついた。
あれだけ横田への復讐と二度目の人生の成功を願っていたのに、たった一度の失敗でくじかれてしまった。
「けど、フィオナ姫を見ていたら……また新しいものが作りたくなったんだ」
すると、ハルト隊長はとんでもないこと言い出した。
「わかりますよ。俺も見てみたいです、クレノ顧問の
なにげない言葉だったが、はっきりとした違和感を感じる。
クレノはここに来てから、
「ん? ハルト隊長は、どこで俺の魔法兵器を……? もしかして、鉄条網のことか?」
「いいえ。以前、一度だけ拝見しました。パンジャンドラムっていうやつです。あれは派手でしたね」
「え」
「じつは、私も地方軍北部方面出身なのですよ。ワーウルフ討伐軍にも加わっておりました」
「————え!」
「覚えておられませんか。あのとき、クレノ顧問とは一度お会いしてるんですけど」
世界がぐにゃり、と曲がって見えた。
ハルト隊長が言っていることの半分も理解できない。その声は世界がボリュームのつまみを絞ったかのように小さくなって、一言も耳の中に入ってくることはない。
気がつくとクレノは脱兎のごとく逃げ出していた。