お菓子の家は兵士たちの制止もなんのその。
基地の塀をぶち破り、外に出ていった。
すぐに様々な機関に連絡を回したが、誰も爆走するお菓子の家を止めることはできない。一時間後に軍の検問を破り、数時間後に関所を抜けたという報告が届いた。
「始末書ですね」
ハルト隊長が
「始末書だな。俺のせいでなくてよかった」
クレノが言うと、フィオナ姫が声を上げる。
「……わらわか! わらわのせいなのか!?」
ほかに誰がいるのだろう。
クレノがうなずくと、フィオナ姫はその場に膝をつき、頭を抱えて動かなくなった。壊れてしまったようだ。
「始末書ですむならもうけものですよ……」
姫様の逃走をおそれてクレノは口にはしなかったが、このままお菓子の家二号が止まらずに爆走し続け、国境をこえた場合、まずまちがいなく国際問題に発展するだろう。そのとき、だれがどのように責任をとらされることになるか。
あまりの恐ろしさに、クレノはぎゅっと両手を握りしめ、真冬でもないのに細かく震えていた。
こうなると魔法兵器開発局にできることは何もない。
お通夜のような空気の中、実験部隊の兵士たちが総出で倉庫の片づけと応急処置をしている。
作業の邪魔にならぬよう、クレノはハルト隊長といっしょに絶望の石像と化したフィオナ姫を脇にどけ、ちらばった木箱の上に腰かけた。
兵士たちを手伝ったほうがいいのだろうが、とてもそんな気分になれなかった。
もしかしたら身辺整理をはじめたほうがいい場面なのかもしれない。
「ハルト隊長……さっきは助かった。ありがとう。そして、頼りない顧問ですまない……」
「いえ、クレノ顧問は最後まで立ち向かってくださったじゃないですか」
こんなときでも、ハルト隊長は紳士的だった。
クレノは過去に向きあうのが怖くて逃げだしたのに、そのことを批難せず、まだ上官としてあつかってくれる。
クレノはなけなしの勇気を振りしぼる。
過去に向きあうなら今しかなかった。
「あの……まだ魔法兵器開発局が存在しているうちに聞いておきたいんだけどさ。実を言うと、俺はワーウルフ討伐作戦のことをあまり覚えてないんだ。だから、あのときハルト隊長がどこで何をしていたのかも知らなくて……。それは本当に悪いと思ってる」
そう言っても、ハルトは気を悪くしたようすもない。
まるでただの世間話だとでも言わんばかりの返事が返ってきた。
「本当ですか。ほら、撤退の最中ですよ。——あのときはめちゃくちゃで誰が誰やもわかりませんでしたが」
「撤退のとき……」
ワーウルフ討伐作戦が失敗した後のことを、クレノはほとんど覚えていなかった。気がつくと負傷兵が詰め込まれた馬車の荷台にいた。そこから先の記憶は比較的はっきりとしていたが、それ以前はおぼろげだった。
「状況からして、誰かが助けてくれたと思うんだが……」
すると、ハルトは少し照れくさそうにしながら「それ、俺です」と言った。
「
「はい」
クレノは、なるべく思い出さないようにしていた記憶の蓋をこじ開ける。
パンジャンドラムが爆発し、火の手がせまっていたあの時のことだ。
作戦は失敗した。あまりの責任の重さに押しつぶされたクレノは、指揮所のそばで立ち上がることもできず地面に座りこんでいた。
ゲスタフやほかの技官は、そんなクレノを置いてさっさと逃げてしまい、ひとりぼっちだった。
クレノはだれからも見捨てられたのだ。
そんなクレノをみつけたのは、あとから前線から引き上げてきた、前線に配置されていた兵士のひとりだった。
「誰かいる——生きてるぞ。要救助者発見!」
絶望のふちにいたクレノは「殺してくれ」と口走ったような気がする。
しかしその誰かはまるで言うことを聞かず、クレノを抱えたまま走りはじめた。
「死なせません! この恩は、絶対に生きて返してください!」
そう言われたはずだ。
「もしかして……あれが……?」
「はい。それが俺です」
あっけらかんと言うハルト隊長の前で、クレノはおもむろに地面に座り直し、両手をついて頭を下げた。
「その節は……誠に申し訳ありませんでした……」
「やめてください、クレノ顧問。人目がありますから」
「まさか一度ならず二度までも助けてもらってたなんて。ていうか、なんでそれ最初に言ってくれなかったの!?」
「いやあ、なんか忘れてるっぽかったですし、聞かれなかったので。いつ思い出すんだろう……ってずっと思ってました」
「どういう感情なのそれ!?」
二人でパン屋をめぐっていたときにもそう考えていたとしたらちょっとした人間関係ホラーである。
パン屋めぐりに誘うほうも誘うほうだが。
「じゃあ、ハルト隊長がこっちに転属になったのは、たまたまなのか……?」
「それが……あの時はわからなかったのですが、あとでどうやら俺が助けたのがクレノ顧問だったということが明らかになってですね。なんとなく居づらくなって転属願を出しました」
そのときすでに地方軍はキリギスを技術開発局のトップに据えた新体制となっており、ワーウルフ討伐作戦失敗の責任はクレノ・ユースタスにあるということになっていた。クレノさえいなければ、という意見も少なからずあったはずで、それがのうのうと生き残ってしまったのだから、ハルトが居づらくなったというのも無理もないだろう。
ただ人命救助をしただけなのに、助けた相手が悪かった。
「めちゃくちゃ俺のせいじゃん……!」
「そんな。俺はあのときクレノ顧問を助けたこと、これっぽっちも後悔していませんよ。ヨルアサ王国軍兵士として当然のことです」
そう言ったハルトは比喩でなく金色に輝いてみえた。
兵士として当然、とはいうが、撤退戦の最中である。うしろからは激烈にキレちらかしているワーウルフの大群が追いかけてきているのに、見知らぬ他人を助けようというのは黄金の精神がすぎる。
「本当に、俺はあのときの自分の判断は正しかったと思っています。ですから、クレノ顧問。あたらしい魔法兵器を作ってくださいよ」
ハルト隊長は半壊した倉庫の入口に立ち、中をのぞきこんだ。
そしてまぶしそうに目を細めていた。
広々とした倉庫の中には、これまで没にした数々の魔法兵器が眠っている。
木馬軍馬や魔人のランプ、ベルトやじゅうたん、その他さまざまな試作兵器たち。
片隅には、クレノが地方軍から持ち込んだものもいくつかある。
クレノはなんと返事をしたものか迷っていた。
「俺は、あなたが作ったパンジャンドラムってやつが、けっこう好きでしたよ。とくに飛ぶやつがいいですね。あんなでかいものが空を飛ぶなんて、自分の目が信じられませんでした」
クレノにとっては苦渋に満ちた思い出だが、ハルトにとっては違うようだ。
「悪いけど。魔法兵器開発は……まだ……ちょっと、やりたくないっていうか」
パンジャンドラムのトラウマはまだ消えていない。
失敗したことが恥ずかしいという気持ちは確かにある。しかし、それ以上にあれは、クレノにとって忘れがたい出来事だった。
「身勝手なようだけど、俺には、自分が作った魔法兵器が実際の戦闘で使われるっていう覚悟が足りなかったんだと思う」
「クレノ顧問。俺にとって、地方軍での任務はつらくて怖くて苦しいことばかりでしたが……クレノ顧問の魔法兵器は別なんです。あんなに大きくて誰も想像もしないものが空を飛ぶことができるなら。もしかしたら……未来は違うかもしれないって、俺は本気で思いましたよ」
ハルト隊長は真剣なまなざしをしていた。
北部地方軍は、雪に閉ざされた貧しい地域を守護する軍隊だ。
兵士に志願してくるのは寒村で食いっぱぐれた農家出身の若者が多い。ハルトもそうかもしれない。
一度志願すれば飢えることはないが、山賊や魔物の討伐といった危険な任務につかされる。
しかもヨルアサ王国軍には定年という概念がなく、ケガや病気で除隊になるまで一生厳しい訓練と戦闘がつづく。
「ですから、ここでクレノ顧問と再会したのは神の導きかもしれないって思うんです」
「さすがに、それは言いすぎだよ。俺は……そんな大した人間じゃない」
クレノには、まだそれを素直な好意として受け取ることができなかった。
「クレノ顧問、今日のことは貸し借りなしですが、ワーウルフ討伐作戦のときの貸しは、まだ有効ですよね」
「えっ、後悔してないとか言ってたのに……」
「はい。後悔はしておりませんが……ただ、王都に異動になったことで、当時つきあっていた彼女とは別れました」
ハルト隊長は、淡々と事実のみを伝える口調である。
クレノは急に周囲の気温が下がったように感じた。
「……」
「婚約中だったんですけどね。慣れない王都には行きたくないと言われまして。まあ、全く異動のない仕事というわけじゃないので、遠からずこういう結果にはなったと思うんですが」
クレノは無言で立ち上がると、倉庫の隅に立てかけてあったシャベルを手に戻ってきた。
「いまから……俺の墓穴を掘ります」
「すみません。これ言ったらどうなるかなって、おもしろ半分で言いました。姫様もああですし、今いなくなられたら困ります」
「北部と違って地面が柔らかいから掘りやすそうだな」
「困りますクレノ顧問……」
フィオナ姫はまだ石化状態が解けていない。
クレノはその隣で蛸壺掘りをはじめた。