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第56話 毒リンゴガス③


「キスじゃキス。唇と唇でちゅっとするんじゃ。……まさか口づけも知らんほどうぶなわけがなかろう」

「冗談を言っている場合ではないんですよ。このままだとみんな死にます」

「じゃから、冗談でもなんでもない。キスをすることこそがこの毒リンゴガスの解除方法なのじゃ!」


 明かされた衝撃の事実に、クレノはほんの五秒間だけ思考を放棄した。

 宇宙の深遠さについて思考をめぐらした後で、なんとか現実に帰還する。


「えーっと。つまりキスをすれば毒リンゴガスの毒は解毒できるということですね」

「じゃからそう言っておる。白雪姫のお話どおりなのじゃ。毒リンゴを食べた白雪姫を目覚めさせるためには王子様のキス……真実の愛のキスが必要なのじゃ!」

「ええっ、愛もいるんですか? ハードル高いですよ」

「まさか。さすがにそこまで物語通りだと、だれも解毒できず全滅もありうる。じゃから、とりあえずは、ほかの誰かとキスをすればよいことになっておる」


 クレノはゆっくりと、その場にいる人物の顔を見回した。

 みごとに男性兵士ばかりである。


「……と、いうことだそうです」


 クレノがあきらめたように言うと、ワンテンポ遅れて「えーっ」という嫌そうな声があちこちから聞こえてきた。それはそうだ。嫌だろう。でも仕方がない。


「死ぬよりましだろ……。とにかく手近にいるやつとキスするんだ。いや、それだと、したくなくてしない奴がいるからな。ハルト隊長、全員がもれなくキスできるように二人組を指定してくれ! ほら、急いで!」


 気分は二人組を組ませようとする体育教師のそれだった。

 クレノだって、できればそんな非道なことはさせたくない。

 好きでもない他人とキスをさせることも、体育の授業で二人組を組ませることも、どっちもだ。


「クレノ顧問。もしかしなくても……全員ですか?」

「うん。念のため、この場にいる全員だ。その後で見魔の法をかけて、解毒が完了できているかどうかを調べる」


 幸か不幸か、毒リンゴガスの毒は魔法によって発生するものだ。

 誰が毒ガスに暴露ばくろしたのか、そして解毒ができたかどうかも魔法によって判定できる。そこは便利だ。


「では、ケイジ隊員、ユーリ隊員。責任を取れ!」


 ハルト隊長はいつになく厳しい声つきで指示をする。

 もちろん先ほどまであれだけ争っていたのだ。そんな相手とキスをするなんてたまったものではないだろう。ふたりとも嫌そうな顔だ。


「なんでこんなやつと!」

「反論を許した覚えはない。仲が悪いのは勝手だが、上官の命令も聞かず、部隊全員を危険にさらした罪は重いぞ!」


 そう言われると、反論の余地もないようだった。

 キスで解毒なんてふざけてはいるが、命がかかっているのは本当だ。

 彼らも事の大事さというものが理解できたようだ。


 それから行われたことは——ある意味どんな拷問ごうもんよりも非人道的な拷問だった。


 すべては愛と命の尊さを守ろうとして行われた行為なのに、どうして人の尊厳を無視し、徹底的なまでに心を傷つけるのだろう。

 戦争はいけない——。とくに、このような魔法兵器を必要とする戦争など起きてはいけないのだ、とクレノは職業軍人のくせに強く思った。


「クレノ顧問! どうじゃ終わったか!?」


 フィオナ姫はゴーグルを両手で覆ってうずくまり、うしろを向いている。


「まだです……! 絶対にこっちを向いてはいけません……!!」


 クレノは魔法兵器を生み出した責任を肩代わりし、全員が解毒するのを見届ける。

 1945年、終戦間際に大日本帝国陸軍が開発した誘導弾、イ号一型乙無線誘導弾は事故により旅館の女湯に突入して『エロ爆弾』とよばれたが、じゃあこれは『エロリンゴガス』なのだろうかと、悲しすぎる想像が脳内をよぎった。


「よし、これで全員だな!」


 こんな地獄にはおさらばだとばかり、クレノが喜色満面の声を上げたそのときだった。

 それまで黙っていたハルト隊長が青い顔をして衝撃の一言を口にした。


「クレノ顧問……あの、私もガスを吸ってるんですが、それはどうすれば……」

「えっ……」


 クレノは素っ頓狂な声を上げ、しばらく黙りこんだ。



 *



 エロリンゴガス事件は、実験部隊の兵士十数名+αの心に消えない傷をつけ、終息した。(クレノ顧問は氷の狼モードでその後数日を過ごした。)

 さいわいにして、フィオナ姫が事前に用意した解毒方法は完璧で、事故の重大さに比してひとりとして死者をだすことはなかった。

 不幸にも巻きこまれてしまった実験部隊の面々はぎこちない日々を過ごしているが、結果として毒リンゴガスの有用性を実証する結果におさまったといえるだろう。


 毒ガス兵器に関しては、様々な部署で兵器化が試みられていたが、なかなか有効な兵器が誕生しないでいた。なにしろ毒ガス兵器は使ったが最後、あたり一帯は汚染され、味方の進軍までもをはばむ。ガスマスクをつければ進軍は可能だが、マスクをつけたままの行軍は兵士にとってかなり苦しいものだ。

 その点、毒リンゴガスは味方だけが知っている解毒方法が確立している。

 これなら、敵勢力のみを排除しつつ進軍することが可能だ。


 考案者であるフィオナ姫は、この兵器はきっと採用されるに違いないと大いに期待していた。


 しかし、事故の後処理を終えたクレノ顧問が下した結論は無情であった。


「姫様、毒リンゴガスのことですが、あれはしばらく封印です」

「えーっ! なんでじゃ! 性能は申し分ないのじゃろう」

「はい。申し分ないどころか画期的であるといって過言ではないでしょう。可搬性にすぐれ、管理しやすく、かつ強力です。しかし……」


 クレノ顧問はいつも通り魔法兵器開発室で午前のお茶を入れながら、難しい顔つきをしている。

 手つきはよどみなく茶器をそろえ、かぐわしい香りの紅茶をカップに注いでいるのに、出てくる言葉は奥歯に物が挟まったような……という比喩ひゆでは足りないほどによどんでいた。


 クレノだって、毒リンゴガスが優秀であることくらい理解している。

 現代兵器とくらべても遜色そんしょくない、いやそれ以上にすぐれた魔法兵器だと思っていた。


「しかし、なんなのじゃ」

「ハルト隊長から嘆願たんがんがあったんですよ。お願いじゃないですよ、嘆願です」

「なんじゃ、健康被害でもおきたのか?」

「そうではなく……隊内の風紀が乱れるのでやめてほしいそうです」

「ふうき? ふうきってなんなのじゃ?」

「知りません」

「なんなのじゃ!?」

「俺も聞いたんですが答えてくれなかったんですよ!」


 クレノ顧問が詳しいことを聞いたときも、ハルト隊長はだまりこみ、がんとして詳細を語らなかったという。


「実験部隊のみんなには普段から迷惑をかけてますし……現場の反発や抵抗を無視してまで開発を急ぐべき魔法兵器ではない、と判断しました」

「そんな……あんまりじゃ! 毒リンゴガスはめずらしくクレノ顧問も肯定的な魔法兵器じゃったのに……!」


 フィオナ姫はへなへなとその場に座りこむ。

 なんだかんだ、これだけの数の不採用が続いているのだ。

 ようやく採用直前までいってこの結果では、どんなに打たれ強くてもへこたれるだろう。


「姫様。おつらい気持ちはわかりますが、他の魔法兵器開発を優先しましょう」


 クレノが声をかけると、フィオナ姫は唇を嚙みしめて、いきなり立ち上がった。


「そうじゃな、クレノ顧問の言う通りじゃ!」

「うわっ。いきなり元気になった……」

「こんなことでめげておる場合ではない! 次のアイデアを形にせねば!」


 言うがはやいかフィオナ姫は机の上に、ノートや本を広げる。

 何冊も積み上げられたノートの表紙には『㊙魔法兵器開発アイデアノート』と書かれている。


「……姫様。これ、中を拝見してもよろしいでしょうか」

「よいぞ! わらわも顧問の意見がほしいと思っていたところじゃ!」


 クレノ顧問は一冊手に取り、中を開いてみた。

 ノートにはつたない文字や、わかりにくい図がびっしりと書きこまれている。

 どれもこれも夢物語のようなアイデアのかたまりだが、アイデアとアイデアの間には、クレノのアドバイスや、ハルトたち実験部隊からのフィードバックらしきものが細かく書きこまれている。


『知性のあるまほうせいめいたいは、ていねいにあつかうべし。ほうふくがこわい!』

『あんいにじんかくを付与してはいけない』

『光りすぎ注意』

『人をのせるまえにたいきゅう速度をしらべること——どうやって?』

『くうりきはむずかしい』

『木馬にクッションをおく』


 などなど……。

 ちらりとフィオナ姫をみると、必死にノートにむかう姫様の目もとには涙がにじんでいる。

 毒リンゴガスが不採用になったのは、やはりくやしかったのだろう。


「……姫様、なぜそんなふうに魔法兵器開発をがんばれるのですか?」


 クレノは思わずたずねた。


「ん? そりゃあもちろん、シンダーナ神聖帝国の野望を打ち砕くためにじゃな——」

「それはもう何度も聞きましたよ。シンダーナ神聖帝国の野望がどうだかは知りませんが、なぜ姫様がその野望を打ち砕かなければいけないんですか?」


 仮に、シンダーナ神聖帝国が本当に攻めこんでくることがあったとしても、それに対抗するのはヨルアサ王国軍であり、現ヨルアサ王である。そして姫様にはカイル王子とルイス王子という強力なふたりの兄弟までいる。

 はっきり言って、第三王女であるフィオナ姫の出番はないはずだ。


 そういう言外の指摘をわかっているのかどうか——。

 姫様は照れくさそうに答える。


「それは、もちろん、夢があるからじゃ!」

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