翌朝も、その次の朝も、クレノ顧問はかなり憂鬱な気持ちで食堂に向かった。
「おはようございますクレノ顧問!」
「こちらの席があいておりますぞ、技術中尉殿!」
今日も今日とて、食堂にはエルメス曹長とシャネル軍曹が待ち構えていた。
クレノは苦々しい顔つきで、すすめられた席に着席する。
「んん……?」
そのとき、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「さて、昨日はどこまで話しましたかね。そうそう、シャネル軍曹を憎むあまり、あの手この手で妻を呼び戻したところまででした。愚かにも過去の私は、軍曹と離れさえすれば、その心も呼び戻せると思いこんでいたのですね。妻はそんな私を完全に見限っているとは、ついぞ知るよしもなかったのです」
「……エルメス曹長、その話はともかくとして、何かいい匂いがしないか? 神官食がイヤすぎて幻覚ならぬ幻臭がしているのかもしれないが」
「匂いですか? ああいえ、それはおそらく、私のハンドクリームの香りでしょうな」
「ハンドクリーム?」
「ええ。王都の化粧品店で顔用の保湿クリームを買い求めた際に、一緒におすすめされたものです」
「ほ……保湿クリーム……!?」
クレノは驚愕する。干からびた砂漠のようなおっさんどもが、いったい何を保湿するというのだろう。
「お肌がモチモチになっていい具合ですよ。シャネル軍曹などは、それに加えてヘアオイルも買ったんですよ」
「ヘアオイルって……」
シャネル軍曹のかなり薄くなった頭部にへばりついていた残り少ない毛は、確かにいつもよりもツヤツヤにきらめいていた。
クレノは嫌な予感がして周囲を見回す。
すると、ほかにも、心なしか髪の毛がツヤツヤに輝いていたり、肌がもっちりフワフワになっている隊員たちがちらほらいた。
「なにこれ。何が起きてるんだ? お前らみんな、美容とか全然興味なかっただろ……?」
「フフフ。それはですね、ブラシのおかげなんですよ。クレノ顧問」
エルメス曹長が訳知り顔でのたまう。
「いままで風呂に入るのも身支度も、時間ばかりかかって面倒で嫌なものだと思っていましたがね、ブラシのおかげで、数分……いや数十秒でおもしろいように汚れが取れるわけです。心なしか肌の調子もいい。そうなると、がぜん、顔や体のお手入れに興味がわいてきて、あれもこれもと試してみたくなるのですよ」
「セルフケアというのは、やってみると意外と楽しいものですぞ、クレノ顧問。いやあ、本当にいいものを開発してくださいましたな。私も曹長も、誠心誠意、実験に協力するつもりですよ!」
「本当に……それだけか……?」
「ええ、もちろんですクレノ顧問」
「信じてください、クレノ顧問」
エルメス曹長とシャネル軍曹はやたらにキラキラした瞳でクレノを見つめてくる。
あいかわらず、年相応のシワやたるみに覆われた顔ではあるのだが、ブラシ効果か小奇麗になってはいるようだ。
だから手入れが楽しいと言っているのも、あながち嘘ではなさそうなのだが……。
「……実験の結果に影響するといけないから、あまり妙なものは使わないでくれよ」
「了解しました!」
かすかに違和感を感じるものの、その正体がわからず、クレノ顧問は引き下がるしかなかった。
それから、魔法兵器開発局では少々奇妙な光景がみられるようになった。
実験部隊のおじさんたちが、美容について熱心に情報交換をしたり、入念に肌や髪などのお手入れをする様子が散見されるようになったのだ。
これは、どうやらブラシの実験対象になった隊員たちが、他の隊員にも手入れのやり方や美容アイテムをおすすめしている成果らしかった。
彼らは訓練の前に入念に日焼け止めをぬり、休憩時間になると最新の美容液の成分について議論しあった。
男所帯はよく『変な臭いがする』とか言われるが、体を清潔に保ち、美容に力を入れることによって、あたりには化粧をした女性のようないい香りが漂うようになった。
さて、このとき、本当は何が起きていたのか。
——その答えは、課業終了後の男風呂にあった。
*
美しくなるブラシの導入が決定されてから三日後だった。
実験部隊の隊員たちは共同風呂に入っていた。
ヨルアサ王国では、特定の温泉地以外では複数人で入浴する文化はあまり盛んではない。だが、軍では効率が優先されるため大浴場が用意されている。
なお、現在ここにいるのは下士官ばかりである。クレノ顧問やハルト隊長などの士官たちは、夕食時の食堂と同じく別の時間帯に風呂を利用する決まりだ。
本当は下士官たちと風呂そのものを別にしなければいけないルールなのだが、魔法兵器開発局の設備は古くて、そもそも風呂がひとつしかなく、苦肉の策である。
つまり、ここにはクレノ顧問はやってこない。
それゆえ密談をするには最適の環境と言えた。
そこに飛びこんできたのは、腰巻をつけただけであとは裸のエルメス曹長とシャネル軍曹だった。
「みんな、たいへんだ! 聞いてくれ!!」
「このブラシ……とんでもないぞ!!」
ふたりは実験の一環として支給されたばかりの『美しくなるブラシ』を手にしていた。
「それ……姫様が発案の魔法道具とかいうやつだろ。どうかしたのか?」
「とにかく見てくれ! 見ればわかる。本当にもう、すごいんだから!」
ふたりが大声で騒ぐものだから、浴室にいる全員が体を洗う手を止めてやってくる。更衣室で服を脱ぎかけているおじさんたちも扉から浴室内をのぞきこんで大したギャラリーになった。
「行くぞ! よく見ていろよ!」
ギャラリーの面前で、シャネル軍曹がブラシで髪をなでる。
すると、おじさん特有の油膜に覆われた髪の汚れが、みるみるうちに取り除かれる。それだけではない。ブラシで全身を軽くなでるだけで、毛穴という毛穴から汗と
おじさんたちの悲鳴とうめき声が風呂場に響き渡った。
「ぐええええ!」
「なんてものを見せるんだ!」
「なっ、すごいだろ?」
「すごくない、グロすぎる!」
「何が悲しくておっさんの老廃物を目の当たりにしなくちゃいけないんだ」
「違う違う、そこじゃありませんよ皆さん! このブラシ……肌や髪がきれいになるだけでなく骨格までもが変わるんです!」
エルメス曹長が必死に訴える。
おじさんたちは首をかしげるが、シャネル軍曹がズボンを履いて現れると、風呂場に裸のおっさんたちのどよめきが広がった。
「見ろ、この俺の腰回りを。今やツーサイズダウンだぞ!」
シャネル軍曹はピチピチパンツの巨漢で知られている。筋肉の上にたっぷりと、どれだけ訓練を積んでも減らない脂肪のダウンジャケットをまとっているため、誰よりもサイズの大きいズボンを履いてなお、彼の尻や太ももはピッチピチに張りつめているのだ。
しかし、その腹回りは、今日は明らかに余裕がある。小ぶりなグレープフルーツくらいならすっぽり収まってしまいそうだ。
「計測をしてみたところ、腹部だけではなく頭も数センチほど小さくなっております。頬のあたりの脂肪が落ちて小さくなっているのはもちろんのこと、驚きなのは縦幅も減少しているということです。シャネル軍曹のデカ頭が、明らかに縮んできているのですよ!」
「おお~っ……?」
「言われてみると、いつもよりシュッとしているような……?」
「まだ仮説の段階ではありますが、おそらくこのブラシ、体の汚れが取れてきれいになるだけではなく、体そのものが『綺麗になる』……すなわち美しい容姿になれるという効果があるのではないでしょうか?」
エルメス曹長が言うと、半裸の男たちは息をのんだ。
あまりにもバカバカしい発想ではあるが、バカバカしい出来事はこの開発局に来てから山ほど見聞きしてきた。ばかでかい空飛ぶ円盤が隊舎に刺さったり、お菓子の家が手足を生やして襲ってきたりとか、そういうことだ。
そんな異常事態の数々を考えると、骨格や体重すらも超越して『美しくなる』ブラシが存在してもおかしくないと思える。
「さて、私たちが皆さんにこの事実をお話したのは、このブラシの力を最大限に
「最大限に……活かす……?」
「皆さん……美しくなりたくはないですかな……?」
エルメス曹長が言うと、男たちははっとした表情になり、でっぷりと前につきだした腹まわりや、薄くなった頭皮、毛穴がぽっかりと開きまくった顔面や口臭が気になる口もとにそれぞれ手をやった。