クレノ・ユースタス技術中尉がまだ無人島にいて畑を耕していたときのことだ。
その頃、魔法兵器開発局を立ち上げたフィオナ姫のそばにはいつもカレンの姿があった。
カレンが勤める主計課にはもっと階級の高い上司もいたのだが、やはり未婚の王族の女性の側仕えをするのは女性がいいのではないかという配慮でそういうことになったのである。
幸いなことにカレンとフィオナ姫はすぐに打ち解けて友達のようになった。
カレンはフィオナ姫の言いつけ通り仕事をこなし、若い姫君の行くところにはどこにでもついて回ったが、力不足を感じることもあった。
たとえば、フィオナ姫が開発した魔法兵器(?)を売りこんでいるときなどがそうだ。
フィオナ姫様は魔法兵器開発局を立ち上げてから、いくつかの魔法兵器を開発したが、いずれも正式採用されることはなかった。しかも第三王女が作ったものだというので『何が悪かったのか』とか『どう改善すればよいのか』というレスポンスもろくにない。誰もが
「じゃじゃーん! こちらがわらわが開発した新しい
彼女は小さな瓶入りの真っ黒な靴墨を、困惑した顔つきのキノクド大佐に見せつける。
「なんでも、兵士たちはどんなに疲れていたとしても
「フィオナ姫様、お心遣いはありがたく受け取りますが、私の一存で決定できることではございません。こちらのお品は責任もってお預かりいたしますので……」
「いやいや! 今日はキノクド大佐にぜひ、わらわの目の前で使っていただき、その使用感を確かめてもらいたいのじゃ!」
フィオナ姫は、ほどよく薄汚れた軍靴と靴磨きに適した目の細かい布、そして馬毛ブラシを差し出す。
あまりの用意周到さに、断ることができなくなったのだろう。キノクド大佐は苦笑いを浮かべながら靴墨の入った瓶を手に取らざるを得なかった。
大佐はおずおずと
そして、薄汚れた革靴の甲のあたりに塗りつけた。
するとどうだろう。
乾燥しきって灰色になっていた革靴に、みるみるうちに、瑞々しい輝きが戻ってくるではないか。
先ほどとは打って変わって真っ黒に染まった革靴に、キノクド大佐の顔が、細部まで大写しになっている。
革靴を顔がうつるほどに磨き上げることを『鏡面仕上げ』などというが、これを実際にやってみるのはなかなかの労力とテクニックが必要だ。
それがひとぬりで、ろくに磨きもせずに実現したのである。
「な、なるほど、これは……」
キノクド大佐は靴を手に取りのぞきこむ。
そのとき、靴の表面に結ばれていた大佐の像が、
大佐は思わず目元をこするが、次の瞬間には元にもどっていた。
部屋の温度が少し下がった気がする。
そのまま靴を見つめていると、何やら——。
いつのまにか、キノクド大佐は真夏でもないのに軍服の下に大量の汗をかいていた。
「どうしたのじゃ? キノクド大佐」
「い、いや——」
それは気のせいなどとは思えぬ異常であった。
だがしかし、第三王女の前で妙なことは言えない、と判断したのだろう。
「大変結構なお品物でございますな。こちらはお預かりして、検討させていただきます」
通り一辺の言葉だけを口にして、結局、フィオナ姫とカレンは大佐の部屋を追い出されてしまった。
「
カレンは、いつもは希望とやる気でキラキラと輝かせている瞳を不安げに曇らせ、勢いよく頭を下げた。
ショートヘアの横に飾った三つ編みだけがピョコンと警戒に跳ねる。
「姫様、私の力不足です。お力になれず申し訳ございません——」
「なんじゃ、カレンのせいではないぞ」
「でも、アイデアを出したのは私です!」
カレンは落ちこんでいた。
姫様の魔法兵器開発は、うまくいっているとはとても言えなかった。
いきなり兵器を開発しても受け入れてくれる部隊はないだろうと考えて、普段使いしやすい靴墨というアイテム開発に切り替えてみたが、それでも結果は出ていない。
「もう一度言うが、カレンのせいではない。わらわも、すぐに結果が出るとは思っておらぬ。それよりも、広く兵士たちの意見を求めるほうがよほど大事じゃと思っておる。それなのに大佐のあの反応じゃ。わらわが王族であるからじゃろう、誰も本音で話をしてはくれぬ! わらわはそれがくやしいのじゃ」
フィオナ姫は怒り半分、自分のふがいなさへの歯がゆさ半分といった表情だ。
「軍や兵器のことに詳しく、わらわとも対等かつ本音で働いてくれる者が、わらわには必要じゃ」
「お気持ちはわかりますが、姫様のお立場を考えますと……」
その望みはなかなか叶えられそうになかった。
フィオナ姫が王族であるという事実はいますぐに変えようがないし、上下関係というものに厳しい軍のなかで、彼女に対してはっきり物が言える者がそうそういるはずもない。
——そこまで考えたカレンの脳裏に、突然、ある記憶がひらめいた。
あれは、忘れもしない
誰の過去にもある、輝かしい青春時代の思い出の一ページだった。
カレンはそのとき、年頃の少女らしい悩みを抱えていた。
というのも入学時に購入した制服のスカートが……入学後の成長を見越して少し大きめで購入したそれが、サイズアウトしかけていたのである。
悩み抜いた末、彼女はそのことを
「私、最近太った気がする。そろそろダイエットしなくちゃだよね」
「ああ……」
その人物はカレンの立ち姿をまじまじと見つめた末、
「そうだな、最近、アゴに肉もついてきたし。まあ、そんな感じだよな」
そう言ってのけたのである。
「……姫様。ひとり、心当たりがいます」
「お?」
「相手が異性であろうと、友だちであろうと、ずけずけと物を言ってくる無礼な男が……」
「無礼なだけじゃだめじゃぞ?」
話しながら建物を出たフィオナ姫とカレンのずっと後ろのほうで、ガラスが割れる激しい音がした。
「なんじゃ?」
慌ただしく人の行きかう気配があるが、二人には原因がわからなかった。
*
その後、二日ほどしてフィオナ姫のもとに『キノクド大佐ご乱心』の報が届いた。
ちょうどフィオナ姫たちがキノクド大佐のもとを退室した直後のことだ。急に錯乱状態に陥ったキノクド大佐が、周囲の制止にもかかわらず「
それをきいたフィオナ姫はショックそうに表情をゆがめた。
「なんと気の毒なことじゃ。おそらく、もともと体調が悪かったのじゃろうな。わらわが会いに行くというので無理して面会してくれたに違いない……」
カレンも大佐の病状を案じたが、実際のところはそうではなかった。
というのも、キノクド大佐が乱心したのはフィオナ姫が開発した
この靴墨に思わぬ危険性があることが発覚したのは、さらにその後——カレンの紹介でクレノ・ユースタス技術中尉が着任した後のことである。
その日、最初の挨拶まわりなどをすませたクレノ顧問は姫様から発明品の数々を受け取った。
「そなたがこちらに来る前につくったものじゃが、ぜひとも感想を聞かせてもらいたいのじゃ!」
「はい、お任せください」
クレノ顧問は執務室にそれらの品を持ちこむと、様々ながらくたが詰まった箱の中から金色の蓋がついた小さなガラス瓶を取り上げた。
蓋を開けると真っ黒な靴墨がヌメヌメした光を放っている。
長い間使わずに放置したせいで、油分が分離したのかもしれない。
「うわっ、
クレノ顧問は問答無用で手にした靴墨を暖炉に放りこんだ。
その瞬間、暖炉に立ちのぼる炎が黒く染まり、邪悪な悲鳴が魔法兵器開発局に響き渡った。
「ひ、姫様!? いったい何をまぜたんですかコレっ!!??」
おそらくその悲鳴は、靴墨を作るのに使われた『真なる闇』とやらが放つ断末魔だろうと思われた。
泡を食ったクレノ顧問が部屋から飛び出していく。
——王国歴435年。
魔法珍兵器開発局が始動したはじめての日のことである。