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【番外編③】ハルト隊長のこと(第53話後)


 ハルト隊長は孤児だった。

 正確にいうと、4、5歳になるくらいまでは親らしき人物がいたような記憶がある。だがそれはハルト隊長の『隊長』があだ名みたいなもので、本当は隊長ではないことと似ていた。

 彼の親は幼いハルトを隣村にある老巫女の奉仕所——神官が神への献身を示すために病人の世話をする治療所——へと連れて行き、捨てた。

 親は老いた巫女に金をせびったが、巫女が拒否するとふくれっつらになり、ハルトの背中を蹴り飛ばして行ってしまった。

 そのときのことだけは不思議とよく覚えている。


 それから、ハルトは奉仕所でほかに数人いる孤児たちと暮らした。

 少し成長してからは巫女の仕事を手伝った。べつに奉仕の精神があるわけではなかったが、そうしなければここで暮らせないと思ったからだ。

 病やけがは、たいていは癒しの法で治癒する。だけど重い病、重いけがには長い祈りが必要で、そこでは施せなかった。施せた場合であっても、神々は気まぐれに命を持ち去った。なぜなのかは当時の魔法使いたちにもわかっていなかった。神がそう望まれたから、としか言えない。


 そして十八になった頃、ハルトは軍に入った。

 その頃になると、ハルトの心には深い諦念ていねんに似た境地が育っていた。

 常日頃から死の気配が立ち込める奉仕所で暮らしたからか、親に捨てられたからか、その両方か。彼は人生にとくに期待することも、未来というものを考えたこともなかった。


 軍の水は彼によくあった。

 軍のは言われたことをこなしていればそれでよい。

 容姿が優れているのでやっかみを受けることもあったが、べつに命までは取られない。それに、ハルトのことをいちばん『やっかんで』いた人間は、最初の訓練が終わって三週間もたたないうちに魔物に殺されてしまった。

 きのうまで隣で隊列を組んでいた人間が、次の日にはいなくなっているというのは、地方軍ではあたりまえにあることだった。

 それが理不尽だという気持ちもかすかにあったが——山小屋に立てこもった山賊がはなった銃弾がハルトの肩をかすめ、うしろの兵士に当たったときに、かろうじて残っていた感情も霧散してしまった。


 命は、そして人生というものは、まるで自分の好きにはならない。

 すべては神の思うがままなのであって、まったく自由ではないものなのだ。


 だから。


 ワーウルフ討伐作戦が失敗し、撤退戦の最中に『彼』に出会ったときの、その印象は強烈だった。

 青年は司令部の天幕のそばで、生きる意志を全部失って、そこにくずおれていた。

 その姿を見たとき、ハルトは気がついた。

 それまで、ハルトが考えていたすべてのことはったことに。


 命は、人生というものは、実は神の意志なんかとは全く関係なく自由であり、自分の意志で決めるものだ。


 なぜなら、目の前にいる『彼』はほかでもないからだ。


「要救助者発見!」


 ハルトは青年を抱えて走った。

 走りながら、これまでのすべてのまちがいについて考えた。


 仲間が銃弾に倒れていくあのとき。

 魔物に殺されてしまった新兵のこと。

 そして神に祈りが届かず、奉仕所で息絶えていった幾多の病人たち。


「死なせません! 絶対に!」


 たぶん、自分は、あのときも助けたかったんだろう——と、ハルトは考えた。

 おそらくは奉仕所に置いて行かれたときも、走って行って父親の足にすがりつき「置いて行かないで」と叫びたかったに違いない。


 その後、ハルトが助けた青年がじつはワーウルフ討伐作戦の失敗に深く関わっている技官であることを知った。仲間たちはそれについて陰口を叩いたが、ハルトは、自分がしたことが間違いだとはどうしても思えなかったので、地方軍のほうを辞めることにした。

 青年と会うことは二度とないだろうし、お礼を言われることもないだろう。

 でもそれでもいいと、心の底からそう思えたからだ。


 再会ははやかった。


 募集がかかっていた魔法兵器開発局に異動になり、数か月後のことだ。

 まるで神様の導きのように、ハルトが助けたあの青年技官が目の前に現れたのだ。

 黒い髪に琥珀色の瞳。フィオナ姫に紹介された彼は、まだ地方軍の軍服をまとっており、すぐに彼だと気がついた。ただし、気がついたのはハルトだけだった。


「本日付けで魔法兵器開発室に配属されたクレノ・ユースタス技術中尉だ。……えーっと、ハルトは少尉なんだったっけ」

「はい」

「部隊の指揮をするのが少尉か。悪くないけど、なにかもうひとつ色がほしいな」

「じゃあ、隊長でよかろう。ハルト隊長じゃ!」

「姫様、隊長っていうのは、ほんとは姫様のことなんですよ……」


 クレノ顧問はハルトのことをすっかり忘れているようで、休みの日になると、ハルトをパン屋めぐりに誘ってきた。なんでパン屋なのだろう。


「クレノ顧問、なんで行き先がパン屋なんですか?」

「まあ、まず、王都とはいえ夜に出かけると、トラブルにあいやすい」

「魔法があるのに……」

「民間人に魔法を向けたら大事になっちゃうよ。何より今、魔法兵器開発室にはかわりの人材ってものがないからね」


 ふたりはまず王都で一番古いと言われているパン工房に行き、開店時間に並んで、焼き立てのパンを買い求めた。


「それに——焼き立てのパンは暖かくて、小麦のいい香りがして、ふかふかで、しかも美味い。いかにも幸せって感じがするじゃん」

「幸せですか」


 これまで、ハルトは幸福というものについてあまり考えたことがなかった。

 自分の人生は、最初は神様のもの、続いて軍の所有物であり、自分のものではないと思っていたからだ。

 クレノ顧問は紙袋の中から、表面がカリっと焼き上がった丸パンを取り出し、二つに割った。パンの香りが一際立って、きめ細やかな白い断面があらわになる。ほどよく水分をふくんできらきらと輝くパンは、ほかほかと湯気を上げていた。


「これこれ。これがいいんだよね」


 往来で、人目も気にせずパンにかぶりつくクレノ顧問はまるで子供のように無邪気な顔だ。


「——はい、そうですね」


 これが幸せだと言われたら、そのような気もしてくる。

 ハルトはいま、人生について学んでいるところだ。



『ハルト隊長のこと』了

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