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第87話 もしももう一度だけ話せたら①


 高校時代の同級生の訃報ふほうが届いたのは、季節外れの寒波に襲われた三月のおわりのことだった。誰もが寒々しく肩をすくめて歩く夜遅くに、当時の担任だった菅原すがわら先生から電話があった。

 同窓会名簿を頼りにかけてくれたというが「よりにもよって、なぜ俺に」というのが正直な感想だった。

 その後すぐに、同級生だった海老沢えびさわからも連絡があった。

 勤務時間中にも電話を鳴らし続けたらしく、着信履歴はこのふたりのナンバーが交互に入っていた。


「お前、どうして電話に出ないんだよ」

「出れるわけないだろ。勤務中だぞ」

「明日の朝十時から……〇〇会館で……お前、絶対に来いよ」


 海老沢はすでに泣きそうな声で、そう念押しした。言っていることが菅原先生と全くおなじで、どこか気分が重くなる。


「来なかったら、絶対に後悔するんだからな」


 そうだろうか。高校時代のことはすでに遠い記憶だ。

 進学先から戻って地元スーパーに就職してからも、ほとんど思い出したことはない。あまり思い出したい記憶でもなかった。学生時代は人生のうちにぽっかりと開いた暗黒期と言ってもよかった。


 当時の俺は両親との関係がうまくいっていなかった。


 俺は昔から運動というものがいっさいできず、少し走っただけで息切れがした。たくさんの人に囲まれるのは苦手で、ひとりで本を読んでいるほうが性にあった。

 それなのに両親は絵に描いた餅のような自衛隊員で、親戚連中もスポーツやら武道やらをやっていた……あるいは現在も継続してやっている体力バカが多かった。

 親戚の集まりといったら何かとバーベキュー、そしてキャンプという、インドアオタクにとっては地獄みたいな趣味を好む連中だ。


 当然、運動ができない俺は彼らにとって特異点であった。


 小学校の運動会で徒競走を走らされ、みごとに最下位を獲得すると、親戚連中にバカにされる……ことはなく、むしろ心配された。

 「この家系に生まれついて、そんなに足が遅いのは何かしらの障害があるに違いない」と、いくつか病院まで紹介された。

 両親はますますムキになって俺を体力バカに育成しようとした。週末はスポーツイベントに連れ出され、死ぬほど肉を食わされ、野球クラブや空手教室に所属させられ、そのいずれも芽が出なかった。

 動物性たんぱく質を受け付けずにゲロを吐く俺を見て、両親も追いつめられていたのだろう。

 最終的に勉強道具を隠されてしまい、大げんかになった。

 けんかといっても、ひ弱なひょろガキに、怒鳴り散らすこと以外何ができるでもない。もちろん父親のげんこつが圧勝して終了である。

 ただし、吹っ飛んで壁に打ちつけられた俺が泡を吹いて気絶したので大さわぎになり、あやうく児童相談所に通報されるところだった。

 父親はこの一件で大いに反省したようで、それ以降ひとり息子に干渉することはなくなった。


 両親と俺の間にあるものは、今もって『冷たい無関心』だけである。


 高校時代は、冷えこんだ関係が最も冷たかった時期に当たる。

 両親との関係に加えて、俺は学生生活そのものにもなじめなかった。小学校入学時には、既にそういう予感があった。何しろひ弱で、コミュニケーション能力が皆無かいむで、他の子どもたちが興味をもつものにまったく感心を抱かなかったからだ。

 防衛白書を絵本代わりに育った少年に興味があるのは、飛行機や……それもただの飛行機ではない。戦闘能力を有する飛行機だ。そして戦車。銃も少々。あれだけ親ともめにもめたのに、中学生になる頃には立派なミリオタが完成していた。なるべくしてなった、という感もある。


 子どもの頃、両親は俺に「走れ」と言った。

 誰よりも速くひたすらに走れ、と。

 見た目にはとてもそうとは思えなかったかもしれないが、俺は走っていた。



 *



 不動産屋の広告によると駅から十五分、実際には三十分ほどの住宅街に何の変哲もないコーポがある。

 二階の奥から二番目。

 鍵を開けてそっと玄関扉を開くと、キッチンに明るい光が灯っているのが見えた。

 娘の一華いちかはもう眠った後だろうか。居間リビングの明かりは落とされている。


「ふみくん、おかえりっ!」


 まず明るい声が出迎える。

 笑顔の女性が、小走りで迎えに出てくれた。妻のはなだ。もともと丸みを帯びた頬のかたちが、笑うとより強調される。肩のあたりでそろえたショートカットがほんとうによく似合う。


「一華さんはもう寝た?」

「うん、今日は公園にお出かけしたからね。和室でぐっすり。なんか寒いよねえ、いやになっちゃう。せっかくしまったセーター、もう一度出したんだよ。ふみくんは今日、どうだった?」


 華さんはおしゃべりだ。脈絡のない話が、ぽんぽんと小気味よく続く。そのすべてに相づちを返しつつ、いつも通りに「べつにいつも通り」と答えようとして、いつも通りではなかったことを思い出す。


「華さん、おれの喪服、どこにしまったか覚えてる?」

「えっ……」


 一瞬、華さんはびっくりした顔で固まった。


「高校の同級生が亡くなったって連絡があった。明日の葬儀に出席して来ようと思う。午前中からの式だから、そう長引かないとは思う」

「そっか。クローゼットの奥にあるから出しておくね。一華のお迎えは、うちの母に頼むから心配しないで。つらかったね……」


 全然つらくはない、と答えようとして、俺は黙りこむ。

 大人になり、言っていいことと、言うべきでないことくらいの分別はつくようになった。それがわかるようになったのも、他人と共同生活を送るようになったことの副次的効果だろう。


 華さんとは大学卒業後、就職先で知りあい何故か結婚した。


 このあたりの経緯はほんとうに「何故か」としか言いようがない。

 俺の容姿ようしはすぐれず、不細工と言っていいくらいだ。その上稼ぎも悪く、気を抜くと毒舌が出る取りたてて愛嬌のない性格……と、ないないずくしの俺となぜつきあい、なぜ結婚しようと思ったのか。その理由は怖すぎて本人にも聞けていない。人生最大のなぞだ。


 ただ結果として、ひとりの人とつきあい、結婚して娘が生まれ、人並みの苦労をした。そういう経験が俺を、少なくとも見かけだけはまともな人間にしたと思う。


 もしもこれが高校時代の『横田和史よこたかずふみ』のまま、何ひとつ変化しない俺のままであったとしたら。『暮野祐一くれのゆういち』がと聞かされたとしても、本当に何も思うことはなかった。もしかしたら名前すら思い出さなかったかもしれない。

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