ゴリラ幼稚園とは、ゴリラの子どもたちを集めて立派な大人ゴリラに育てるための幼稚園……ではなく、北部地方軍に冠された別称(蔑称)である。
実戦がひたすらに多く「兵士に脳みそは必要なく肉体が頑健であればそれでよし」的な風潮がはびこっている北部地方軍を
その日の課業終了後、わざわざ隊舎にあるクレノ顧問の部屋を訪ねてきたのは実験部隊の最年少コンビの片割れ、ケイジ隊員だった。
「俺にゴリラ幼稚園……じゃなかった! 北部地方軍式格闘術を教えてください!」
「
クレノ顧問はあきれながら、新米兵士の言い分を聞いている。
「クレノ顧問は技官になられる前は地方軍で魔法使い兵だったって聞いております。地方軍の魔法使い兵は普通の兵士たちと同じ訓練をこなすんですよね。だったら、クレノ顧問も北部地方軍式格闘術のことはご存知のはずです!」
「北部地方軍式格闘術、ねえ……それはまあ、当然知ってるけど……」
ヨルアサ王国軍は地方軍と中央軍に分けられている。
地方軍と、主要都市の警護に当たる中央軍では役割が別で、それゆえに兵士たちに課せられる訓練内容も異なる。
北部地方軍式格闘術は、その名のとおり北部地方軍が編み出した実戦的な格闘術のことで、中央軍では採用されていないものだった。
「格闘訓練は中央でもあるだろ。わざわざ北部地方軍式の格闘術なんて覚えなくったっていいよ」
クレノがそう言うと、ケイジ隊員は少し暗い表情になった。
「ちがうんすよ。俺……この部隊では若手ですし、なんか……運動が得意なほう、みたいなイメージもあるじゃないすか」
「いや知らないけど。まあ、本人が言うならそうなんだろうな」
「だから格闘訓練でもいつも見本にさせられてまして……」
「見本……?」
「“とりあえずケイジ隊員、前に出てやってみろ”みたいなやつです。同期とくらべて明らかに俺が指名される率が高いと思います」
「あーね……」
体育の授業で、運動部のやつらが指名されてまずやらされるようなものだろう。
ケイジ隊員は濃いめの眉毛をムダにキリリとさせて、ムダに力強く訴えてくる。
「でもですね! 俺は実力は年相応なんですよ。初心者だから失敗もするしケガもするんです。なのに……わざわざ手本になってるのに、最近はうまくいかないとバカにされて、ちょっとナメられてる気配があるんです!」
ケイジ隊員はクレノにくらべて背も高く体格もがっしりしている。
部隊でも浮いた感じはないし、たとえばこれが学校だとしたらいわゆる『陽キャ』なタイプだ。
みんなケイジ隊員をことさらバカにしたりイジメたりしたいわけではないだろうが、過剰な『気さくさ』が度を越えてしまうこともあるのだろう。
生前はそんなこと考えもしなかったが、陽キャにも悩みはあるらしい。
「だから、ひそかに特訓してみんなを見返してやりたいんです!」
「で? なんで俺なの? ハルト隊長に頼むのが筋だと思うぞ」
「隊長にはいつもお世話になってますから。こっそり練習してびっくりさせたいんです!」
「……本音は?」
「もしちょっとやってみてダメだったりしんどかったりしても、直属の上司が相手だと『やめる』って言いにくいかなーって!」
「ナメられるのが嫌だって言ってるくせに、なんで俺のことは初手でナメくさってるんだよ」
ケイジ隊員は「えへへ」と笑っていたが、えへへではない。
「……まあ、基本くらいなら教えてもいいよ」
いろいろ考えるところはあったがクレノ顧問は重い腰を上げることにした。
実験部隊には、これからいくらでも世話にならなければいけない。売っておける恩は売っておいたほうがいいだろうと判断したのだ。
「本当ですか!? あざーす! 一生恩に着るっすクレノ顧問!」
「そんな軽すぎる一生なんかいらないよ。……いいか、まず北部地方軍式格闘術には、四季になぞらえた
「おお~! かっけえ!」
「春は全ての基本形だ。夏は攻撃中心の型、秋は防御からの返し技、冬は……初心者は覚えなくていい。とりあえず、何はなくとも春の型だな、これを覚えないことには話にならないぞ」
「はい! まずは何からやればいいんすか?」
「目つぶしだ」
「め……目つぶし?」
「あっ、目つぶしって言っても二本指で突くやつじゃないぞ。こうだぞ、こう!」
クレノ顧問は右手を開いて五指を揃え、ケイジ隊員の目の前に突き出した。
手のひらを天井に向け、爪の先で切りつけるように横方向にすべらせると、ケイジ隊員は「わっ」と声を上げて飛びのいた。
「な? けっこう怖いだろ? 目つぶし!」
驚いて飛びのいたくせに、ケイジ隊員は不満げだ。
「まあ……怖いっすけど、なんかカッコ悪いですよ。クレノ顧問、ほかには無いんすか」
「そう言われても春の型は全部目つぶしから始まるコンビネーションだからな」
「夏は?」
「夏も目つぶしだ」
「秋は……」
「秋も目つぶしだ。決まってるだろ」
「冬……」
「もちろん目つぶしだ。だが、初心者には冬の型は教えられない。冬は目つぶしから派生する全部の技が即死技だからな」
「……なるほど」
ケイジ隊員はウンウンとうなずいて、これ以上なく優しい笑みを浮かべてみせた。それはかわいそうな野良犬とかケガをした猫とかを見守るような慈愛に満ちた微笑だった。
「わかりましたよ。クレノ顧問、閲兵式の準備でお疲れなんすね……」
「ちがう。王都よりずっと治安が悪い北部で、目つぶしは超実戦的な対人格闘術なんだ!」
「ンなこと言ってえ、本当は実技は
「ウソなんかじゃない、本当なんだってば」
「お忙しいところ、すみませんでした。ワガママ言っちゃって」
ケイジ隊員は失礼の大盤振る舞いをしながら、すがすがしい笑顔で帰って行った。
次の日、どうなるかも知らずに。
*
翌日、実験部隊は格闘訓練を行っていた。
隊員たちの話題になっていたのは、もちろん北部地方軍式格闘術のことである。
最初に組手をさせられたケイジ隊員とユーリ隊員は屋内訓練場の壁際で先輩兵士たちの訓練を見守りながら、クレノ顧問から教わった格闘術について話しあっていた。
ただしユーリ隊員は話しあうというより「面倒くさそう」な顔である。
「本当に全部目つぶしなのかなー……。どう思う、ユーリ」
「知らね。そんなに気になるなら習ってくればいいだろ」
「えー……。なんだかんだでさ、クレノ顧問てそんなに強くなさそうじゃない? 北部地方軍出身とはいえ技官さんだしさ」
「お前って本当に失礼な奴だよな。ほら、噂をすれば影だぞ」
ユーリが言う。
ちょうど資材を山ほど抱えたクレノ顧問が訓練場のそばを通りがかった。
昨日、失礼の大盤振る舞いをしたことくらいは自覚があるのだろう。窓のそばにいたケイジ隊員は「いけね」と言って、あわてて頭を引っこめる。
しかし。
「クレノ顧問! 少々お時間よろしいですか!」
何を思ったかユーリ隊員はわざわざ身を乗り出して、通り過ぎようとするクレノ顧問を呼び止めた。
「何か用?」
クレノ顧問は相変わらず眠たげな目つきでユーリ隊員を振り返る。
黒々とした髪の毛には寝ぐせが残っている。一応軍服は着ているし、帽子もかぶっているからいいだろう、と言わんばかりの
実験部隊の兵士たちにとって、クレノ顧問は概ね『開発室にこもりきりで何をしているかわからない魔法
「今、俺たち格闘訓練中なんです。少しでいいので手本を見せてもらえませんかね?」
その申し出に驚いたのは当の本人ではなく、むしろそばで聞き耳を立てているケイジ隊員だった。
「おいバカ!」
「なんだよ。見れるかもしれないだろ、北部地方軍式格闘術ってやつを」
「だからって……まずいだろ!」
ケイジ隊員が必死に止めるがユーリ隊員はどこ吹く風である。
それどころか、よせばいいのに、面白そうなことを嗅ぎつけた兵士たちがひとりふたりと集まって来た。
「私も見たいですな」
「俺も俺も!」
「見せてくださいよ、クレノ顧問!」
全員、だるいし、痛いし、少し間違うとケガをしかねない格闘訓練をサボりたいという
クレノ顧問はため息を吐くと、資材を日陰に置き、訓練場にやって来た。
そして場内に入りケイジ隊員に目を留めると、にやりと笑ったように見えた。
ケイジ隊員はあいまいな表情を浮かべて凍りついていた。クレノ顧問を恐れていたわけではなかった。ただ単に昨日の『失礼』がハルト隊長にバレるかと思ったのだ。
親への言いつけを恐れる子どものような心境である。
だが、幸いにしてクレノ顧問は何も言わず、にこやかな様子で入って来る。
「そう言われても、組手なんてしばらくやってないから上手にできるかわからないぞ」
顧問のお出ましとあって、兵士たちは大騒ぎだ。
「顧問! 俺は顧問が勝つ方に夕飯のデザートを賭けますからね!」
「俺も俺も。顧問に賭けます! 絶対に勝ってくださいよお」
「顧問のカッコいいとこ! 見てみたい!」
もちろん夕飯のデザートなどというかわいい賭けにはならない。
裏側では胴元が票をまとめはじめている。
予想外の盛り上がりにハルト隊長も困惑顔だ。
「すみませんクレノ顧問。わざわざ相手をしていただいて」
「いいよいいよ、たまにならな。ちょうどいい奴を選んでくれる? ケガしないように手加減してくれそうなやつね」
「またまた……。では、フェイラー
クレノ顧問は袖口をまくりながら、指名されたフェイラー伍長と向かいあった。伍長はクレノ顧問より背が高く身幅もある。
まず、クレノ顧問は伍長に親しげに話しかけた。
「よろしくな、フェイラー伍長! 伍長とはあんまり話したことないよな。実家、王都でも有名な酒屋なんだって?」
「ご存知でしたか」
「うんうん、ハルト隊長からチラっとだけどな」
クレノ顧問はつとめて明るい声で言って伍長の肩をポンと叩いた。
「おっ。いつも訓練がんばってるし、なかなかいい体つきをしているな。まあ、お手やわらかにな!」
「こちらこそよろしくお願いします」
ハルト隊長が開始の笛を鳴らす。
不意にいつもボンヤリしているクレノ顧問の瞳が鋭くなった。
あの顔は、みんなが知っている。
「受け身を取れよ、伍長」
「──へっ?」
その雰囲気が一瞬で変わったのを察知したのだろう。
伍長が間抜けな声を上げた。
肩を親しげに叩いていた顧問の右手が、伍長が着ている運動着の襟首をがっちりと掴んだ。
反射的に前に出された伍長の左手首を、顧問の反対の手が握りしめ、強く引くのが見えた。するりと顧問の体が伍長の左わき腹の下へともぐりこむ。
次の瞬間、あっという間に伍長の体は持ち上げられ、その場に座りこんだクレノ顧問の肩に乗り上げて半回転し、派手な音を立てて背中から床に叩きつけられていた。
「クレノ顧問の勝ち!」
ハルト隊長がやけに上機嫌に笛を吹く。
その後、クレノ顧問は順調にエルメス曹長を投げ飛ばし、巨漢のシャネル軍曹をも派手に投げ飛ばしたので「これは
こうなると、ふざけた賭けは全て白紙撤回である。
何よりこの事態をいちばん恐れていたのは、昨日、真正面から「実技よわよわ」と悪口を言ったケイジ隊員である。
「や、やっぱり……俺……今からでもならおっかな、ゴリラ幼稚園式格闘術」
「あきらめろ、ケイジ。お前はゴリラにケンカを売ったんだ。みずから
「出したのはユーリ、お前だろ!?」
「次、ケイジ隊員!」
いよいよケイジ隊員が組手の場に引き出される。
目の前にいるのは、自分よりもよほど背の高い男たちを連続三人投げてまだ
「め、目つぶしじゃないじゃん……!!」
北部地方軍式格闘術は目つぶしが起点になっているというだけで、他にもいろいろある。
ケイジ隊員は宙を舞った。
*
春は目つぶし。
ようよう白くなりゆく爪先、少し返して、赤かりし血の細くたなびきたる。
夏は目つぶし。月のころはさらなり。闇もなお、目つぶしを食らったチンピラの多く飛びちがいたる。また、一人二人と、ほのかに金玉をうち叩いて行くもをかし。腕など折るもをかし。
秋は目つぶし。指先の刺して目のくらみたるチンピラを寝どころへ追って行ってぶん投げるもよし。視界を潰されしチンピラの、逃げ急ぐさえあわれなり。距離感を見失いし敵のよわよわしい猛攻をいなしてインローを決めしときのうめき声は言うべきにあらず。
冬は目つぶし。指先を鍛えたるは言うべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて手をあっためるも、いとつきづきし。昼になりて、ゆるくゆるびもていけば、チンピラも目つぶしをしがちになりて、わろし。
『北部地方軍格闘訓練団訓示』より