その頃、ハルト隊長はまだクレノ顧問の人となりをはかりかねていた。
何しろクレノ顧問は実験部隊の監督をする立場であるし、それに『魔法使い兵』だというだけで一般的な兵士からすると取っつきにくいものがある。
魔法使い兵には、ただの仕事として魔法を習得している者と神への信仰心ゆえに従軍する者の二通りがいる。
前者を職業魔法使いタイプ、後者を神官タイプと言い換えてもいいだろう。この二者は同じ魔法使い兵でありながら全く別の人種だ。
クレノ顧問がどちらのタイプに属するのかによっては、今後の人づきあいというものがだいぶ変わってくる恐れがあった。
ハルト隊長はその日、ある種の試金石を手にしてクレノ顧問の部屋を訪ねた。彼がクレノ顧問に見せたのは琥珀色の酒がたっぷりと入った酒瓶である。
「うちの隊員に酒屋出身の者がおりまして、差し入れが届いております。クレノ顧問にも一本どうぞ、とのことです」
クレノ顧問はハルト隊長が差しだした酒を見て、うれしそうに相好を崩した。
「へーっ。いい酒じゃないか」
「クレノ顧問は、酒はあまりお好みになりませんよね」
「いや飲まないわけじゃないよ。地方軍時代はけっこう飲み歩いてたし」
「え? そうなんですか?」
「まあ飲まないと入れないようなところはね」
「飲まないと入れないようなところ……?」
職業魔法使いタイプ……なのはいいとして。何がおかしいというわけでもないが、何かがおかしい言い回しである。
それが酒場を指すならば、大抵の客は酒を飲みに行っているわけで、それを『飲まないと入れない』とは表現しない。
「ひとこと、お礼だけでも言っておこうかな。みんな下で飲んでるの?」
「はい。ですが、もう出来上がっておりますよ。明日でもべつに……」
「あいさつするだけだよ。許可は取ってるんだろ」
「ええ、はい。それはもう」
「だったら大丈夫。誰かが裸になっていても文句はいわないからさ」
「いえ、そういうことではなく……えーっと……」
「大丈夫大丈。ひとつ場を盛り上げてくるから。まあ見てろよ」
クレノ顧問は上着を脱いでハルトが持ってきた酒瓶と交換する。シャツの前をくつろげ、髪に手ぐしを入れて、それでさっさと階下に降りて行った。
盛り上げるも何も、酒の席に上司が現れるだけで場の雰囲気は悪くなるだろうとハルト隊長は思った。だが言わなかった。言いづらかったのだ。
酒盛りは談話室——と言う名のだだっ広い空間——で行われていた。
ハルト隊長は心配で様子見に行ったが、自分もまた『場を白けさせる上司』の一角であったので、物陰から様子をうかがうことしかできない。
クレノ顧問は案の定、みごとに場の空気を白けさせていた……のだが、なぜか話しているうちに兵士たちに笑顔が増えていく。そして最後は割れるような大爆笑に包まれた。
クレノ顧問は万雷の拍手を浴び、惜しまれながら退場してきた。
「なんの話をしていらしたのですか?」
ハルト隊長はつい気になって聞いてしまった。
クレノ顧問はなんでもないように答える。
「地方軍時代の話。酒の失敗談だよ」
「ああ……」
「一度、酒がらみでめちゃくちゃ失敗したことがあってさ。アンデッド通りって知らない?」
「それは……一歩でも入ったが最後、二度と出られないと言われているあのアンデッド通りですか?」
「そうそう、それそれ」
死人しか歩かぬアンデッド通り――とは北部では知らぬ者のない、ヨルアサで一番治安が悪いと言われている通りの名である。
「地方軍時代に、あそこに行ってみたことあるんだよ」
「貧民窟のど真ん中ですよ」
「うん、珍しい酒が飲めるって聞いたんだ。別に飲みたかったわけでもないけど、おもしろそうだったから」
「……おもしろそうだったから?」
「だけど、一歩踏み込んだ瞬間にさ、顔にこんな傷がある大男が出て来てさ」
クレノ顧問は親指で、右目からあごの左側までをナナメに横断する傷あとを表現してみせた。
「で、捕まってアジトに連れて行かれて、そしたらもう見渡すかぎりの悪党がいたんだよ。もうすごいの。全身
「それで、どうされたんですか……?」
「どうもこうも言われるがままだよ。ド定番だけど、財布取られて、その場でジャンプしろって言われた。そしたらポケットに入れておいた小銭が鳴るだろ。で、小銭を取られて、またジャンプさせられての繰り返し」
「はあ……」
「まあ俺も身ぐるみ剝がされるのはじめてじゃないからさ」
「そうそう何回もあっていいことではないと思いますよ」
「そうかな」
なぜ不思議そうなんだろう、とハルト隊長は不思議に思った。
「とまあ、そうなることを見越して体のいろんなところに金を隠してたんだよ。だから上着を脱いでもズボンを脱いでも体のどこかしらから小銭がジャラジャラ鳴るわけ。いよいよパンツを脱いでもまだ鳴るから、最後は悪党どもも爆笑しちゃってさ……。ちなみにどこに隠してたか、知りたい?」
「いいえ……。なんで生きておられるのかだけ話していただけたらそれで……」
「最終的にチン毛を焼かれるだけで許してもらえた」
「そうでしたか……」
無責任に笑っていられる実験部隊の兵士たちと違い、ハルト隊長はくすりとも笑えなかった。このときは黙っていたが、ハルト隊長も北部の出身なのである。アンデッド通りの恐ろしさは身に染みている。
そこは犯罪者の中でもとくにタチの悪い連中の吹き溜まりで、軍人くずれも多くいて、腕自慢が揃う地方軍出身者でも絶対に近寄らないような場所なのだ。
ふたりはクレノ顧問の部屋でもらった酒を開けることにした。
部屋にはコップひとつ見当たらなかったが、クレノ顧問はどこからともなくグラスを二つ取り出してみせた。
本当にどこからともなくだ。
しいて言うなら、空中から取り出してみせたように見せた。
「手品ですか? 器用ですね」
「そう。これも酒場めぐりをしていたときに会った
どうやら酒場を盛り上げる鉄板の武勇伝はあれひとつではないらしい。
「クレノ顧問。もしもよければですが。次に何か……そういう……興味本位でお出かけになる場合は、自分もお供させてください」
「いいけど。ハルト隊長もそういうの興味あるクチ?」
ない。というかハルト隊長には『そういうの』が何なのかがわからない。
だが「この人は放っておいたらいつか死んでしまう」ということだけはわかったハルト隊長であった。
*
知っての通り、クレノ顧問とハルト隊長は週末になると一緒にパン屋めぐりに出かける仲である。
過去に身ぐるみはがされたからか、それともパンジャンドラムの失敗もあって慎重になっていたからか。ハルトの未来予測と覚悟を裏切り、クレノ顧問はトラブルが起きにくい昼間に行動して夕方には帰るという生活パターンを律儀に続けていた。
夜間に、酒を目当てに出かけたのは模擬戦の後にただ一度きりだ。
そしてこれは魔法珍兵器開発室の、他の誰にも秘密の事柄であるが、その帰り道、運悪く二人は暴漢に出くわした。
ちょうど店を出たタイミングで三人ほどが夜陰に乗じて現れ、避けようがなかった。
「兄さんたち、羽振りがよさそうだな。金をよこしやがれ」
と、男のひとりが言った。
言おうとした、が正しいだろう。
彼らは金を奪うことはできなかった。『金をよこしやがれ』の「や」のあたりで、クレノ顧問が放った目つぶしが男の顔面を直撃し、視界を奪ったからだ。
クレノ顧問は北部地方軍式格闘術の教えに対して極めて忠実であった。
北部地方軍式格闘術のはじまりはすべて『目つぶし』、終わりは『マウントを取ってタコ殴り』である。
ハルト隊長はというと、ようやく荷が下りたような気持ちでいた。それまで、この真面目な隊長は『何かあったら自分がクレノ顧問をお守りしなくては』という気持ちで同行していたのである。
もちろん、ハルト隊長もまた北部地方軍に育てられた立派な大人ゴリラだ。クレノ顧問が目つぶしを繰り出したとみるや否や右から襲ってきた男を殴り、左から襲ってきた男を蹴っ飛ばしていた。
それからは、ふたりはあまり外出して酒を飲むということはなく、ときどき隊舎の部屋でのんびり飲んでいるという話だ。